1-1 目が覚めたら十歳

「……はっ!」


 猛烈な痛みとひどい汗。真っ暗だった世界が急に明るくなる。セレストは自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。


 レースのカーテンからは日が差し込み、ローズウッドの床に光を落としている。ここはゴールディング侯爵邸にある彼女の私室だった。


「私、死ななかったの……?」


 けれどそれならなぜ、自分を殺そうとしたミュリエルの家でもあるゴールディング侯爵邸にいるのだろうか。縛られていたはずの腕は自由になっていた。セレストは急いでベッドから起き上がり、扉のほうへ向かった。

 ちょうどそのとき、廊下側からノックがあって、メイドが姿を見せた。


「お食事でございます」


 トレイの上にはパンやチーズ、フルーツが載った皿がある。メイドはそれをテーブルの上に置いたあと、セレストに冷たい視線を向けた。


「奥様からの言伝ことづてです。……本日は、ミュリエル様の十歳の誕生日パーティーです。くれぐれも屋敷の者を煩わせることのないように……。以上です」


「は、はい……心得ております……」


 既視感のあるやり取りに戸惑いながら、セレストは条件反射のように答えた。

 メイドはそっけない態度でお辞儀をしてから、部屋から出ていった。


「……十歳?」


 ミュリエルが十歳ならば、三ヶ月差のセレストも十歳である。

 セレストは部屋の中にある姿見のほうへと吸い寄せられるように、ふらふらと歩いた。


「なに……、これ……どうして?」


 天空の青セレストブルーの瞳の色、長い銀髪は変わらない。けれど背は縮んでいて手足も小さい。

 鏡に映っていたセレストは、子供の姿になっていた。


「スピカは……?」


 光の角度によって浮かび上がる星獣使いの証がないか、セレストは自分の顔を鏡に近づけ、瞳の中を確認した。星神力を込めてもスピカの気配は感じられない。


「十歳? スピカに会う前ということ……?」


 この国の貴族は星神力が安定する十一歳になると、星獣の主人かどうかを見定める儀式を行う。城の〝星の間〟の中には主人を持たない星獣が眠っていて、ふさわしい人間がやってくると応えてくれるのだ。

 本当に十歳ならばまだスピカとは出会っていない。


 ミュリエルの誕生日パーティーと小さくなった自分の姿――セレストはわけがわからなくなりもう一度ベッドにもぐり込んだ。


 それからたっぷり一時間。もう一度眠ろうとしてもできずに、自分の知っている現実に戻ることもなかった。


 セレストの感覚では直前にミュリエルとあんなことがあったばかりだから、この部屋の外に出るのが怖かった。けれど、私室に閉じこもっていてもなんの解決にもならないというのもわかっていた。


「十歳、……ミュリエルの誕生日……。なにか大事なことがあった気が……」


 とても大きな出来事が起こった気がするのだが、なにせセレストにとっては八年も前という感覚だからすぐには思い出せない。

 そうこうしているうちに誰かが訪ねてきた。


「セレストお姉様、いつまで眠っていらっしゃるの?」


 ノックのあと、勝手に扉を開けたのはミュリエルだった。

 スピカを従えてセレストを殺そうとした彼女ではなく、十歳の少女だ。


「ミュリエル……」


 握りしめた手が急に汗ばみ、空腹だというのに吐きそうなほど胃のあたりが不快だった。

 今すぐ掴みかかって、彼女に真相を問い質したい衝動に駆られた。


「着替えてもいないだなんて、だらしないですわ」


 けれど、今のミュリエルの態度は完全に八年前の彼女そのままだ。これでは責めることなどできない。


「ごめんなさい。……少し具合が悪いの」


 ミュリエルはセレストの内心など知るよしもないのだろう。セレストが一度経験した思い出の中と同じ言動をする。

 過去に飛ばされた――セレストは義妹の姿を見たことでそうとしか考えられなくなっていた。


「あら、そう。そんなことより見てください。このドレス。素敵でしょう?」


 ミュリエルがまとうのは新緑色のドレスだった。少し大人びた色合いだが、彼女の黒髪との相性がいい。

 ミュリエルは艶やかな黒の巻髪に、ペリドットのような緑色の瞳をした少女だ。ややきつめの顔立ちだが愛嬌があって、十八歳の頃にはかなりの美人に育っていた。


「お姉様はお勉強をしなかった罰で、今日のパーティーには出られないのでしょう? だから、せめて綺麗なドレスだけでも見せてあげようと思いましたの」


 ミュリエルはキラキラと輝く笑顔で新品のドレスがよく見えるようにくるりと回った。


(私、このときなんて言ったのかしら……?)


 セレストの誕生日はもちろん誰からも祝ってもらえなかった。養女とはいえ居候の身だから仕方がないと自分に言い聞かせながらも、傷ついた覚えがあった。

 なにも答えられずにいたら、義妹の誕生日すら祝う気持ちを持っていない、ひどい姉だと言われた記憶が蘇る。


「……わざわざ、見せてくれて……ありがとう。とても素敵だと思う」


 今、セレストの心は十八歳だ。十歳の子供が自分がどれだけ愛されているかを見せびらかしに来ても、あまり感情は揺さぶられなかった。

 ただ、ミュリエルには早急に出ていってほしくて無難な言葉を選んだ。


「なんですか? その気持ちがこもっていない態度は……。わたくしがこんなところまで来てあげたのに!」


「ごめんなさい、でも本当に具合が悪くて……」


「わかりました! そうやって仮病で皆の気を引いてパーティーの邪魔をするつもりね? 無理ですよ、だってお姉様って皆に嫌われているもの」


 ミュリエルはいつでも自分が一番優秀で、可愛いお姫様でいたいのだ。

 おそらく自分の立場を脅かす存在がセレストで、だから常に貶めていないと気が済まないのだろう。


「大丈夫よ……、今日はゴールディング侯爵家の皆さんの邪魔なんてしないから」


 結局、どんな対応をしてもミュリエルは満足などしない。あえて言うのなら、セレストが傷つけば満たされるのだろうが、今のセレストはそれに付き合うのが不毛に思えてならなかった。

 だからベッドにもぐり込んで、それ以上付き合う気はないのだとアピールする。


「なによ! 本当にお姉様がいるだけで屋敷の中が暗くなるわ」


 大きな音を立てて扉が閉まり、部屋の中に静寂が戻ってくる。


「この家でずっと暮らし続けるのは苦痛だわ……」


 どんな力が働いたかわからないが、今のセレストが持っている八年分の記憶をただの夢だったとして忘れることなど無理だった。スピカの咆哮も、自分の死も、それくらい心を深く傷つけている。

 あれが現実にあったのだとすれば、やはり時間が巻き戻ったのだ。

 やり直せるのなら、ミュリエルがどうやって星獣の主人を変更したのか突き止めて、阻止したい。そして今度こそ自由に生きたい。

 このまま流され続けたら、大きく未来を変えるのは難しい。

 ゴールディング侯爵は星獣使いとなったセレストを絶対に手放さなかった。侯爵家の支配すらはね除けられなかったセレストに、正体不明の力と戦うすべはあるのだろうか。

 八年後に起こる事件に深く関わっているのは王族――王太子なのだ。


「星獣使いになる前に、なんとか侯爵家から離れなきゃ。……でも魔獣被害で早世した弟の忘れ形見ということになっている私を勘当してくれるはずもないし」


 セレストの父はエインズワース伯爵だ。

 母のほうがエインズワース伯爵家の直系だが、この国では女性には爵位継承が認められていないため、遠縁にあたる父が養子となって爵位を継承している。

 母は産後の肥立ちが悪く、セレストが幼い頃に亡くなっている。父は二年前――セレストが八歳の頃に発生した領地での魔獣被害を食い止めようと戦って、戦死してしまった。

 その後、後継者がいなくなったため爵位は返上され、エインズワース伯爵家の領地は国王の直轄地となっている。


 セレストにとって伯父にあたるゴールディング侯爵は、家族を失った不幸な姪を見捨てると外聞が悪いと判断し、セレストを養女にした。

 侯爵家の者はセレストをお荷物としか思っていない。それでも一度正式な養女にしてしまった姪を未成年のうちに放り出すことは考えにくい。


「侯爵家から逃れる機会は、一度もなかった……? いいえ、違う……」


 そこまで考えて、すぐそこに最初で最後となる機会があるのだと気がついた。


「……思い出した。問題なのは今日ではなく、明日。……明日は私とヘーゼルダイン将軍閣下の縁談が持ち上がって、閣下に断られてしまう日じゃない!」


 セレストが思いついた侯爵家の支配から逃れる方法――それは、結婚だった。

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