暗がりの咒法
涌井悠久
暗がりの咒法
この街にもまた夏が来た。夏といえばと質問されると皆は口を揃えて海、花火、祭り、青春などと呪文のように唱える。
僕にとって夏はいわば『怠惰』の季節だ。なにかと「夏だから海に行こう」「夏だから青春をしよう」と目標を掲げるが、これを叶えられる人は果たしてどれほどいるのだろうか?
ほとんどいない。結局、目標は目標のまま夏は終わりを迎える。夏の暑さに溶け怠惰に家で過ごすのが関の山だ。僕もその内の一人だ。
だが、この夏は少し違う。僕は『呪い』にかかった。夏に高い目標とやる気と行動力を与えられる『呪い』だ。…あくまで呪いは比喩だ。ただ何となく今年は実行しようという気になれただけ。
そして僕は今、竹林に来ている。夏といえば、という集合の中には当然肝試しも含まれているからだ。
ここの竹林は暗い噂しかない。大昔にやれ人が刺されただのやれここで一家心中があっただの。噂だからなんの根拠もないが。
それでも竹林は不気味な様子を漂わせていた。道に影を落とす竹の壁とざわめきだけの空間は、異世界の様相を呈している。まるで生命の息吹を感じさせない。
「…ほんとにあるんだ」
その真っ暗な道の先に、更に暗い穴が口を大きく開けていた。穴の上部には蔦が絡みついた銅板に『
「写真、撮るか…」
思わず独り
少し震えた手でスマホをポケットから取り出し、トンネルに向けてフラッシュを
「あらら、もう行っちゃうの?寂しいなあ」
背後から、声が響いて聞こえた。弾むような楽し気な女の声だ。思わずトンネルを振り向く。が、誰も見えない。奥も手前も分からない、のっぺりとした黒が広がっているだけだ。
「私はここだよ」
トンネルから声だけが響いている。
「見えないですよ…」
ある限りの力を振り絞って声を出した。もう今にでも走り去りたいが、女子の目の前で走って逃げるのは、なんとなくプライドが許さない。
「あらら。じゃ、見えなくてもいいや。それより私は人が来てくれた事がこの上なく嬉しいんだよ!ねえ、お話ししてかない?」
「…分かりました」
「え、本当!?みんな私の事を無視するから、まさかお話ししてくれる人が居るなんて!感激しちゃう!でも大丈夫かな、私。上手く喋られるかな…。ああ、ごめんなさい。なんせ人と話すのは5か月と6日ぶりなものでさ。少し緊張してるんだ」
彼女は一息でそう答えた。なんというか、感情豊かでとても緊張しているようには思えない。でも、そのお陰で僕の方の緊張と恐怖もいくらかマシになっていた。
「5か月と6日間誰とも話してないって、異常ですよ」
「仕方ないんだよね、これ。私は普通の生活を辞めることを強いられちゃってるからさ。今の私は世捨て人。このトンネルで暮らしてるんだ」
「このトンネルで…?」
「そ。大変なんだよ、ここの生活ってのは。もう私の顔も思い出せないし。名前なら憶えてるんだけどね」
「貴方は何て名前なんですか?」
「お、知りたい?いいよ。特別に教えよう。私の名前は
「…佐希さんですか。良い名前ですね。きっと両親もさぞ素晴らしい人だったんでしょう」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私には分からないなあ。というより、もうほとんど覚えてない、が正解かな」
「それもそうですよね。ここには何年いるんでしたっけ?」
「あー…もう10年は経つかも?」
「10年…食事とか、どうしてるんですか?」
「…今、聞こえるかな?」
「え?」
口を閉じて耳を澄ましているが、何も聞こえない。竹が騒めく音と、かすかに虫の鳴き声だけが――
「…そういう事、なんですか?」
「おお、ご名答!名探偵かな?君は」
「噓でしょ…?」
「嫌だったけど、慣れるしかなかったね。ところで名探偵くん。もう一つクイズをいいかな?」
「ええ、いいですよ。任せて下さい」
「冬って季節があるでしょ?寒くて暗い、いやーな季節。虫さえもろくすっぽ外に出てこない訳よ。そういう時、私はどうしてると思う?」
「食事の面の話ですね?」
「そうそう。こんな阿鼻地獄の入り口みたいな所に住んでるからさ、それなりに苦労もあるわけよ」
「そうですね…鳥、とか?」
「ぶっぶー。違います。もっと思考を巡らせて」
「え?でも、動物以外に何が…」
「じゃあヒント!動物は動物。でも動物と呼ばれない。これ、なーんだ?」
「――あ」
僕の体は完全に凍りついてしまった。さっきまでの楽しげな雰囲気は一瞬にして終わりを迎えた。寒気が僕を包み込む。この竹林には冬が来ているのか?
「おめでとう!気づいちゃった?分かっちゃった?さっき言った通り、ここは阿鼻地獄の入り口だもの。当然、生きたそれに通行許可は下りないよ」
「あっ…あ…」
「あらら、そう怯えないでよ。名探偵くん。殺人犯を前に怖気づいてちゃ名探偵の箔が落ちるってもんでしょ?それに今は夏。安心してよ」
「ぼ…僕もう、帰らなくちゃ」
「まだ夜は始まったばかりだよ?もっと話してたってお母さんには怒られないさ」
「いや、帰ります!だって…」
僕は僕が何かを言い切る前にトンネルを後にした。竹のざわめきも虫の鳴き声も耳に入らなかった。ただ僕の心臓が鈍い音で拍動している音だけが頭に響いていた。
夢中で走り、角を曲がり、どうにか家の前に着いた。まだ月は夜空に上がったばかりだったが、もう帰らざるを得なかった。
ポストの引き出し口に手を入れた。指先にがさっと紙が当たる。「ああ、またか」という独り言と共に、僕はそれをつまみ引っ張り出した。
『10年も殺人鬼を匿ってんじゃねえぞ!犯罪一家!』
紙にはそう書き殴られていた。恨みつらみを感じる文と書体だ。
「もう姉ちゃんはここにいないんだけどな…」
今はトンネルに居ますなんて言葉、誰が信じるだろう?
暗がりの咒法 涌井悠久 @6182711
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