♯2 内
いつもなら帰ってくる時間に『ごめんなさい。遅くなります。先にいろいろと済ませちゃってもらって大丈夫です。』とのメッセージが飛んできてしまった。
そっか。そっかぁ……。
彼の言うように、いろいろ済ませてきた。
まず食事。カップ麺。お湯を沸かせて、注いで三分後に食べた。彼は硬めが好きだそうで、注いでかき混ぜながら解してすぐ食べる。口の中でばりばりと聞こえるもんだから、硬くない? って聞くと、これがいいんですよって返答だった。彼の分もあるけど、食べてくるんだろうな。
次に掃除。大きい音を立てていいものがどうか、迷う時間の狭間にいた。なので、手早くハンドワイパーで、するするホコリと髪の毛を絡め取った。二日に一回やってるはずなのに、そこそこに黒くなる。どっちのか分からないけど、抜け毛とか気にするのかな。
最後はシャワー。八分で済ませた。そういえば、買ってきた入浴剤入れようとしてたんだっけ。そう思いながら頭を洗った。風呂にお湯を貯めても水になるから、やめてくださいって過去に怒られたことがあった以来、確定事項と化すとシャワーにしている。私のためにあなたが犠牲にならなくていいのに、って顔するんだろうな。
秒針の音を聞きながら、湯呑みに淹れたほうじ茶を啜る。あれから二時間待ったが、まだ帰ってこない。
一人の時間は大切だと思って、一緒に住む際に互いの自室を設けられるような間取りを選んだ。彼の部屋には、あまり踏み入れないようにしている。彼も同様だ。だからといって、怪しいものなんかない。資料としてとって置いてある変なものはいっぱいあるけれど、ものがあるだけの部屋。僕の部屋は、めっきり倉庫になってしまった。あぁ、それと、飛び込みで課せられた仕事を捌く部屋となっている。
自室の使用頻度が低すぎるのは、彼がいるからだ。一人になりたい時も確かにあるけれど、一緒にいたとしても、何故か一人の時間としてカウントされている。原理はよく分からない。もしかしたら、ドッペルゲンガー同棲特典なのかもしれない。
ほろりと融解する時空。映し鏡のようだけど、彼は確かに存在している。筈だ。手を合わせればどちらかが飲み込んでしまいそうな、ふわふわした空間。それがとても心地よくて、もっと沈みたくなってしまう。手を握ってずるずると引き摺り込みたくなる。抱き締めて、外界を遮断したい。にわかに存在を隠蔽したい。できることならどこにも行かないでほしい。いくらでもこの身を捧げるから、僕だけのひとになってほしい。
ずっとそばにいればいいのに。
ドッペルゲンガーに出会うと死ぬ。なんて都市伝説が有名だけど、そういうことなら妙に納得してしまう。あり得る。死にはしないけど、世間からは消失し得る。きっと、意訳だったんだなぁ。
現実問題、彼にも彼の関係があって、僕にも少ないけれど僕の関係がある。線を断ち切るのは簡単だけど、新しく築いていくのは至難の業だってことは理解している。この今の僕の感情だって、どうしようもないことぐらい。
五メートル程にある秒針が耳元で聞こえるようで鬱陶しい。優雅にコーヒーを嗜みながら読書ができるようなメンタルを、持ち合わせていればよかったのに。
残務はない。彼と過ごすために、本日のノルマを完璧に終わらせてきてしまった。湯呑みを覗いても何もない。ただ、お茶の残量が分かるだけ。ぐぐっと飲み干してみた。特段と落ち着きはしないな。底がつるんと光るだけ。買い物に出かけようか。部屋着を纏ったこの姿では、心がめんどくさいと語りかけている。あーーー。あーーーーー。
世の待人は、どうやって過ごしているのだろう。どんな精神状態でいるんだろう。アンケートをとってみたくなる。
【どうしようもないと分かっちゃいるけれど、どうにもできない時の待ちかたについてのアンケート】
問一。必ず帰ってくる筈の大切な人から、残業確定のメッセージが届きました。いろいろ先に済ませておいてもいいとのことだったので、食事、掃除をし、身体を洗いました。しかし、まだ帰ってくる気配がありません。何をするにしても焦燥感に駆られて、身動きが取れません。もういっそのこと鬼電をしてやろうかと考えましたが、帰宅時間を先延ばしにしてしまう行為ということは明白でした。なれば、スタンプ連打……も、やめとくことにしました。今の感情を言語化して、彼にぶつけて、彼自身のパフォーマンスを落とすのは許されません。長い独白をしてみたはいいものの、アドリブに弱い僕には限界が近くなってきました。この場合にすべきことといえば、ほうじ茶の追加注文でしょうか?
問二。彼は、いつ帰ってくるのでしょう?
僕の了解に付いた既読を眺める。その下に続きはない。
急須を傾けて湯呑みに注ぐ。結果、自問自答にしかならない問いは、見えているようなもんだった。答えを光にかざして透かして見た。が、正しい表現がしれない。問二だけ、回答欄は空欄のままだけど。
ほんわかあたたまる湯呑みを両手で包む。帰宅途中、夜風を斬って歩く彼は、こんなにあたたかくないだろう。ほっぺにコート、冷たいに決まってる。ぱりぱりと、表面に氷でも張っているようになっているに違いない。夜のにおいと温度を引き連れて帰ってくるんだろう。カイロぐらい持たせたらよかったかも。カイロカイロ……。
街路を歩む回路。
海路回廊を過ぎた頃に懐炉がないと気付き、偕老の片割れ想う。
海楼はさぞ、寒かろう……。
ほうじ茶を啜り、頭の中で筆を走らせる。そういえば、よくこうやってひとり遊びをしていたものだった。つまらないけど、ちょっと面白い。
携帯をごそっと手に取ってみる。あらゆるカイロに近しい言葉に検索をかけてみた。
かいろ、と打ったのに、概論とか蚊色とか過色が出てくる。後半二つは、おそらく携帯が勝手に造語を作っている。
蚊の色って、実際は何色なんだろ。純粋な黒ではなさそう。過色の定義とはなんだろう。度が過ぎる色を指すのか、はたまた調色した際の量を物語っているのか……。
携帯は便利なことに、かいろうも進めてくる。お前も言葉遊びが好きなのね。
知らない言葉で、薤露という文字が出てきた。薤はニラを指し、朝露は消えてしまいやすいという意味が転じて、人の世の儚さを意味するらしい。薤露蒿里という四字熟語もあった。
この言葉を作った人は、なんでニラだったんだろ。朝露ならなんでもよかった筈だ。近くにニラがたくさんあったのだろうか。雑草によく生えているニラの仲間が、わんさか生えていたのだろうか。亡くなった方が、ニラ農園の方かもしれない。ありもしない、かもしれない仮説を組み立ててみる。
ちなみに、海老はエビと読むけれど、海老園(かいろうえん)という地名があるらしい。広島市だ。美味しそうだ。
仮称ニラ農園を弔った方とは、どんな関係だったのだろう。友人? 家族? いや、恋人だったかもしれない。
自分は、彼の挽歌を歌えるだろうか。
今は想像もできないが、残されるのも嫌だなぁ。いっせーのーで、でいなくなれたらいいのに。なんてことはあまりにもご都合主義か。
いや、でもそういう都市伝説を作ったっていいじゃないか。僕たちは、幸いにも奇妙な関係にあるのだから。僕がいなくなれば、彼もいなくなるだろう。根拠はないけど、逆の立場ならきっとそうかもしれない。
美しい言の葉を勝手に掘り進めて想像しているうちに、携帯が震えた。
速報である。彼が会社を出たそうだ。心の声が、それなら外に行ってやってもいいぞ、と言っている。それならば、彼の空腹を訪ね、続報を待つことにする。
『レバニラ炒めとエビチリ買ってくるんで、一緒に食べませんか?』
ゼロコンマで既読がつく。『?』の文字ののちに、うさぎが頭上で丸を作ったので、上着と財布を抱えて席を立った。湯呑みの残りをぐっと煽る。次はグラスを二つ用意しなくては。
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