Complex
蒼色メチル基
♯1 杳
「係長、例の資料です。ご確認ください」
そう言って渡された紙の束。横文字の羅列から写真、グラフ、図形がコピー用紙に整列されている。私の仕事はこれらの最終審査あるいは、一次審査の関所である。出されたものは、もれなく「山本」の印が付けられる。許可を出すからには、各所に責任を持って送り届ける必要がある。更なる審査までの道のりを、できる限りスムーズに送り届けるために付箋を散らす。あぁ、もちろん私が最終審査という場合もである。企画の大小に限らず、丁寧に心掛けている。それを面倒だと思うだろう。内心に秘めた言葉が見える時もあるが、みな一様に今のところは従ってくれる。
とにかく一歩進むには、私の判が必要なのだ。
この位置に着いてからは、自由が増えた分だけ自由が失われた。前者はシステム上の自由。後者は己が身を燃やす程の熱を吐き出せる自由。どうやらこの場は成層圏みたくなっていて、ある程度行けば自分のやりたいようにできるようになり、ある程度の地点ではそれが制御される。
いつの間にか、判を押すためにいる存在なのでは……と考えを巡らせるようになってから、残留している熱を探知することをやめた。過去あったものが跡形もなく消えているかもしれない。残っていたとしても、それを稼働させるエネルギーが存在していないかもしれない。知るのが怖かった。高みを目指す気がないかもしれない私が、ここにいていられる理由が、今の仕事だと結論付けたくなかった。
地下を歩く。時刻は定時を5分過ぎたところだ。突き上げるように吹き込む風を浴びて、決まった位置、決まった場所付近に留置し、また歩く。その足は真っ直ぐ帰路を辿る。ありがたいことに、私にその自由はあるようだ。
『お疲れ様です。今日は何食べたいですか?』
ぶるっと震える画面を覗くと、この文言が。同居人からである。
『とりあえず、あなたとゆっくりしたいです。』
五秒考えて腹に相談することなく、そう返した。また五秒後には『お安い御用です』と返ってきた。素早く画面が移えば、可愛らしいうさぎが親指を立ててこちらを見ている。思わず顔が溶けそうなって、天を仰いだ。胸が痛い。この歳になって、患わせるとは思わなかった。しんどい。
今、私という形を保っているのは……いや、私がこの世に誕生してしまったのは、この人がいるからなんだと思う。
機械的に動く脚が改札の前で立ち止まったのは、素朴な佇まいの彼を見つけたからで。
「あっ」
邪魔にならないようなところで、ぼけーっと突っ立っていた彼は、僕と視線を合わせるなり手を上げて控えめに振った。彼のそばに寄っていく脚は、心なしか踊っていた。
姿、形、そして名前と生年月日までもを完璧に転写した彼と私。私たちはいわゆる、ドッペルゲンガーというものらしい。実在するみたいだ。
「ただいま」
「おうちに帰るまでがなんとやらですよ」
「じゃあ……帰りましょ」
同じ視線で、同じ歩幅で。首が痛いとか言われる心配もないし、相手のペースを伺わなくてもいい。幸福か、不幸か、思考もなんとなく一致する。なんとなく、の部分は育った環境の違いだと勝手に考えている。根本はきっと一緒なんだろう。こうやって迎えにきてくれることだって、いてもたってもいられなくなったんだろう。一秒でも早く会いたい気持ちが、彼を急かしたに違いない。
ただひとつ。たったひとつだけ、困っていることがあるとすれば、彼がそこそこに名の売れた有名人であることで。
「手……握りますか?」
なんとなく一致する思考は、察するも何もない。だけど、とりあえずなんでも聞いてみる。相手の巡らせる思考が正解とも限らない。しかも、なんとなく、ずかずかと土足で踏み込む感じがして嫌だったので、なんとなく相手のドアをノックしてみる。お互いの中で、そんな暗黙の了解が存在する。
ふわっと浮いた彼の手はこちらに向いている。夜だから、別に気にならないだろうという趣旨だと思う。うっすら手に滲む汗のせいにして、己の手をぐっと握りしめた。彼は、そうですかと言って手を下ろす。私のせいで、しょんぼりしたお顔にさせてしまった。あぁ……。
「……はやく帰りましょ」
私がごめんなさいと言う前に、少しだけ大股で歩む彼。それに習って、私も少しだけ大股で夕焼けが示すしるべを辿っていった。
ご飯を食べて、お風呂に入って、寝巻きを纏う。家に仕事を極限まで持ち帰りたくない私たちは、無事に今日も自由時間を迎えた。赤く輝く光には、シャッターがかかっているように深い闇が広がる。窓からひんやりと、闇の塗料が彼を掠めてかおる。この空間が堪らない。
「今日も一日、お疲れ様です」
「あなたも、お疲れ様でした」
ソファーに並んで座り、そんなに強くもないのにアルコールをちびちび飲む。ほんわか火照った彼の頬は、私よりも鮮やかに染まっているように思う。
「きれいですね」
「…………真っ赤ですか?」
「いえ、ほんのりピンク……かな」
「そういうあなたも、ほんのりピンクですよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。ほら」
片頬にあたたかい手のひらが、ぴたりと引っ付いた。私も交差するようにくっつけてみる。互いの温度はそこそこに高くて、思わず笑ってしまう。
「これさ、なにを確認してたんでしたっけ?」
「ふふ、わかんないです。あー、あったかぁ」
「溶けそうだね」
「うん」
呂律が怪しくなってきたという共通認識で、軽く後始末をして一緒に寝室に寝転んだ。シーツがぱりぱりしている。やってくれたんだ。気持ちよくて脚を擦り付けるように、ばたばたと交差させた。つめたくてひんやりする。
「ありがとね」
「なにが?」
「いろいろー」
大切なひととこんな距離感で、共に過ごせるとなると上機嫌にならざるを得ないので、屈託の笑みが制御できない。あぁ、もうでろでろだ。
「このために生まれたんだと、おもうんだよね。最近」
「うん」
「ありがとう。わたしなんかといっしょにいてくれて」
「……こちらこそ。ぼくと出会ってくれてありがとう」
染色される色がずっと、夜ならいいのに。なんてことを思いながら意識が途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます