レッド・クイーン

「また、ですか」

 僕こと【最上梁人もがみ やなと】は作業中のPC画面から視線を外して傍らに立つ人物へと向ける。

「──これで十七件目。誰がどう考えたっておかしいってハナシだぜ……警察ナメてんのか」

 スーツのジャケットを肩に掛けて腕まくりをしている大男は忌々しげに窓の外を見つめた。男の言った言葉に同意して僕も頷く。

「なんて言うか……怖い、、っすね。まだ十六件目の報告書も作り終わって無いのに」

「言いてぇ事は分かるが、梁人やなと。オレらがビビってたら連中をつけ上がらせるだけだぜ」

 彼は僕の先輩であり名前を【片桐来眞かたぎり くるま】と言う。彼はジャケットを羽織ると僕に準備しろと促した。

「オレ達も“現場”に行くぞ」

「そうですね」

 僕と片桐先輩は、職務上で言うところの所謂“相棒”の関係であり行動を共にしていた。



  ◇



 時刻は深夜二時。多くの人が眠りに着き街は静寂に包まれている時間帯。だと言うのに一部には赤い光と警笛サイレンが鳴り響いている。

 僕らが現場に辿り着いた時、真っ先に目に入ったのは二十台以上の警察車両──それと僕らよりも早くに到着していた警察関係者達が騒ぎ立てている様子に“ただ事”では無い事を察する。


 先輩が車を停め、僕らもそこへと加わる。

 すると僕らの姿を認めた一人が声を掛けて来た。

「来たか片桐、最上」

 僕らの名前を呼んで、中年白髪の刑事【早瀬仁郎はやせ じろう】がそばに来て頭を掻いた。

「仁郎さんはもう着いてたんですね」

「ああ。だが……」

 僕が言うと仁郎さんは背後に聳え立つ、、、、“現場”を振り返って言い淀んだ。

 彼は刑事課の人間だ。その彼が手に余るとも言いたげにしているのを見るとやはりそうなのだろう。

 傍らの片桐先輩も同様に見上げながら言葉を失っている様だった。

「先輩、“特殊事案”ですよコレ」

「……だな」

 促すように言うと、異常事態に硬直していた片桐先輩は我に返り唇を噛んで呟いた。

 

 ────殺人者の城塞マーダー・キャッスル。そう形容するのがいいかもしれない。

 僕は“現場”を見上げそんな風に思っていた。


 2019年を境に殺人事件もしくはそれに準ずる傷害事件の増加。

 各地で偶発的に起きていた事件には関連性が全く無く、事件の加害者同士にも関連性は認められず、一人の殺人者の逮捕がそのまま事件の解決へとなっていた。

 ────が、現在。

 どこかで殺人事件が発生すると、当該事件の加害者は必ず逃亡していた。


 人が人を殺す。その要因にもよるがそこには殺人者の大きな思念がある。


 愛情、憎悪、嗜好、恐怖、偶然。

 それがどんな要因だったとしても決して完璧な殺人では無い。

 だから必ず綻びが出る。

 血痕、目撃者、証言、道具、検証。

 殺人に要因がある様にその発覚にも要因があり、殺人者は特定される様になっている。

 だからこそなのか、今起きている現象を僕らは理解出来ないでいた。


 2020年11月14日。

 空にはその狂気を象徴する様に三日月が輝いている。

 そして地上二十二階建てのタワーマンションは現在殺人者の巣窟になった。


 ────僕らの前にある殺人者の要塞には、どこかで人を殺してしまった何の関連性も無い殺人事件の加害者が集まっているらしい。

 しかも今年に入ってから同様の事件が十七件も起きている。

 こんなのは片桐先輩が言った様に『誰がどう考えたっておかしい』としか言えない。


 場所も時間も要因もまるで違うはずの彼ら“殺人者”が何故そこに集ったのか。

 

 ともあれ────僕ら警察は殺人者達と正面対決する事となるのだけは確かだった。

 

「特殊事案取扱課はいるか!?」

「ここにいます!」

 そう叫ぶ声を聞いて片桐先輩が答えた。

「呼ばれてるみたいなんでちょっと行ってきます」僕が仁郎さんに言う。

「おう、なんか分かったらコッチにも教えてくれ」

 言って仁郎さんは刑事課の刑事達の所へと戻っていく。その背を見送って僕らは呼び声の元へと向かった。

 声は現場に設営された“対策本部”のテントからであった。僕らがそこに呼ばれたという事はこの事件が“特殊事案”として認められたという事なのだろう。

 対策本部には会議用の長テーブルの上に複数のPCが並べられ、それを扱う“オペレーター”の職員がPCの台数と合わせて着座している。

 彼らの背後には巨大な筒型の機械が設置されており、そばには僕ら“現場組”と“オペレーター”の指揮官にして対策本部の長────【霧島尚吾きりしま しょうご】が厳格な雰囲気を伴って僕らを見据えていた。

 

「遅かったな」

 霧島本部長が静かに言って冷徹さを宿した目が僕らを睨んだ。身が凍る様な気分になるが、片桐先輩は怖じる事なく言葉を返した。

「申し訳ありません。十六件目の報告書の作成に手間取ってしまってまして────」

「そうか。少ない人員で良くやってくれている」

 事情を理解すると霧島本部長は僕らが遅れた事についてはそれ以上言及しなかった。

「早速だが事件の概要を説明する」

 言って霧島本部長は僕らに資料を手渡し「読みながら聞け」と続けた。

「マンションには複数の殺人者が潜伏している。双子の猟奇殺人鬼、高橋卓と高橋健人。とある殺人者を教祖として崇める新興宗教、アリス教団。現場に意味不明な問いかけを残す、問いかけ君」

 どれも聞いた事のある名前だ。

 そんな連中がこのタイミングで集うのには何か理由があるのかとも思いたくなるが、これまでの事を考えるとやはり無関係なのだろう。

「本部長、今回もアレを使うんですか?」

「ああ。まさしく今回もその実証実験だ。現に今この周囲一帯は“レッド・クイーン”の効果下にある」

 片桐先輩が聞くと、事もなげに本部長は答えて傍の筒型の巨大な装置を見上げる。

 レッド・クイーンとは、端的に言ってしまえば恐怖を抑制する機械的な装置だ。


 『恐怖とは、虚像に理論の橋を架けた虚構に過ぎない』


 その理念を提唱した【羽海野鏡蔵うみの きょうぞう】によって開発され、恐怖を分析し内に搭載された生体ユニットに肩代わりさせる……と言った装置だが、僕は一度中にいるを見た事がある。

 生体ユニットなんて呼ばれているが、アレは紛れもない人間の形をしていた。

 あえかに咲いた一輪の花の様に液体に満たされたカプセルの中を揺蕩う彼女、、を見たのは一年前くらいの事だった。

 人格の無い、人の模造品であるというのに僕は不覚にも彼女を美しいと思ってしまったのだ。

 銀色の髪に細く白い肢体が一つの芸術品の様だったのをよく覚えている。

 ついでに言えば、それが羽海野鏡蔵の娘のクローンだと知り、その悍ましさに吐いた事も。

 ────それ以来、この筒型機械を見る度に憂鬱な気分になる。

 もしそんな事を言えば、僕は特殊事案取扱課から外されてしまうだろう。

 ……いつか彼女をここから解放する。それがどんな無意味な事だと分かっていても。

 その為にも僕はこの課に残り続ける必要があった。

 しかし開発者である羽海野博士は亡くなり、装置に使われている技術の殆どはブラックボックスとなっている。

 頼みの綱があるとすれば博士の娘だろうけど……彼女もまた博士の死後に行方不明。

 レッド・クイーンという機械だけを残して消えた二人。その裏に何かがある……そんな予感だけが僕の胸中から消えてくれない。

「おい、梁人大丈夫か?」

 考え込んでいた僕を心配した片桐先輩の声で我に返った。

「ああすいません、ちょっと考え事してて」

「恐怖はコイツが肩代わりしてくれっけど、ドジるのは代わってくれねぇからな。余計な事考えてる余裕なんてないぜ?」

 言いながら笑う先輩に苦笑で返す事しか出来ないでいると、「ごほん」という霧島本部長の咳払いで僕らは揃って背筋を震わせた。

「……現在、機動隊によってマンションのエントランスだけは安全が確保出来ている。機動隊を二名随伴させるが、くれぐれも犯人の殺害だけはするな────殺人者の恐怖代替がレッド・クイーンにどの様な影響を及ぼすか予測がつかない」

 本部長のその言葉で自分が置かれている状況を改めて認識する。


 特殊事案取扱課。その発足は一年程前になる。

 殺人事件の増加、そして殺人者による集団占拠。

 まるで人を殺した人間が怪物に突然変異したかの様な奇行が日々報道され、ついには警察の拳銃所持が許されなくなった。

 例え、警察であろうと殺人を犯せば同じ様な奇行に走るかもしれない。

 

 そんな世間の風潮が出来上がった中で、僕ら特殊事案取扱課は設立された。

 世間に対しての僕ら特殊事案取扱課は特殊な訓練によって殺人者に対する抵抗を獲得した対殺人者部隊として発表されたが、その実態はたった二名しかいない恐怖代替装置レッド・クイーンの実験部隊である。


 僕らだけはレッド・クイーン接続者である事から、非殺傷目的での拳銃と電磁ナイフの携帯が許可されている。

 とは言え、レッド・クイーンには身体的な能力の向上的な効果は無い。あくまで僕らの肉体は普通の人間基準だ。恐怖を感じないからと言って無茶をすれば死ぬ。その点は変わりない。

 

 ……僕らのすべき事は犯人の安全な確保。

 それと彼らがどうしてこの様な犯行に走るのか、思念を探り原因を突き止める。

 この連続する事件に終止符を打つ。

 今はそれだけを胸に、僕らは殺人者の要塞へと

踏み込んだ。



 ◇



 マンションの中は想像していたよりずっと静かだった。

 エレベーターはまぁ、何となく予想していたけれどやはり使えなくされていたので階段を使用して上の階へと上がる。

 二階、三階と上がり、そうして四階にまで上がると少し雰囲気が変わった。

 今回のケースでは有名な殺人者ばかりが集まっている事からもっと狂気じみた雰囲気が充ち満ちているのかと思えば、まるでそんな事は無い。


 ────精々マンション住人のバラバラにされた死体が数人分転がっている程度である。

「意外と普通だな」

「そうですね。でもこの手口は……」

 僕と片桐先輩はレッド・クイーンの効果を受けているので大丈夫だったが、随伴してきた機動隊の二人は表情を強張らせていた。

「アンタら……コレを見ても何とも思わないのか……?」

 機動隊の一人が後ろで問いかけてきたので僕が答える事にする。

「はい。機械────レッド・クイーンに恐怖を代替してもらっていますから。それより気を付けて下さい。この手口は猟奇殺人の常習犯、高橋兄弟のモノ…………」

 言いながら僕が振り返ると機動隊の二人の背後で動く影が二つ。

 駄目だ。助けられない。

 冷静にそんな事を考えられる自分が怖くなるが、それもレッド・クイーンの効力ですぐに消失する。


 そして──────……

 ゔいいいいいいい!

「あがぁ!! あぁああがががッッッッ……」

 獰猛な駆動音が鳴り響き、機動隊の一人は凄絶な叫び声と共にその場で身体を縦に切り裂かれた。

「う、うわあああァァァァ!!!?!?」

 もう一人の機動隊員が悲鳴を上げてその場にへたり込むのを見るや否や片桐先輩がその首根っこを掴んで僕らの後方へと投げる。


 ……殺人者のお出ましだ。


「兄ちゃん! 今度は僕に右側をくれるって約束だったろぉ!」

 機動隊の死体。縦に裂かれ絶命した彼の左半身が揺れる。

「うるさいなぁ、左側は弟って決まってるんだよ! 約束なんかしーらない!」

 彼の右半身がそう言って死体の右手を振り上げる。

 

 連続猟奇殺人犯。

 兄の高橋たかしに弟の高橋健人たけと

 双子の彼らは太いくぐもった声で子供の様な口調で口論を繰り広げていた。

 彼らは醜く太った肢体を恥ずかしげも無く晒す。卓の方はチェンソー、健人はスレッジハンマーを握り、血みどろになった青のオーバーオールを素肌の上に纏っている。

 率直に言って化け物の類にしか見えない容貌に僕の中で僅かに戦慄が奔る。

 後ろの機動隊員は完全に恐怖に顔を歪めていたが、片桐先輩の表情は怒りに満ちていた。


「はなせよ〜!」

 右半身を取られまいと、ぼとぼととその中身を振り撒きながら兄の卓が抵抗しているのを見てその怒りが頂点に達したのか片桐先輩が仕掛けた。

「おい、豚兄弟。こっちを見な」

「なんだと〜!」

 こちらを意に介していなかった兄弟が揃って暴言を放った片桐先輩を睨みつけようと顔を向ける

 ────が、それと同時に片桐先輩の飛び膝蹴りが卓の顔面に叩きつけられる。

「ぶげぇ……!」

 と、汚い音を発しながら卓がその身を抱き抱えていた右半身ごと後方へと倒れさせた。

「兄ちゃんッ!?」

 健人が咄嗟に倒れた兄へ視線を向けた、その隙を突いて片桐先輩は更に攻勢へと出ようとしたその瞬間────


「避けろ先輩ッ!!」

「なんッ────!?」

 ぶぉん。

 空を切る音。それが健人のスレッジハンマーが鳴らす音だという事に僕はいち早く気付く事が出来た。

 それにアレは兄の方を注視している様に見せかけた一振り。

 片桐先輩がそれを回避する事が出来たのは、ほとんど奇跡だ。今のやり取りで僕はコイツらに奇妙な違和感を抱く。


 単なる快楽殺人鬼じゃない、これは……。


「助かった」

 さっきの一撃で死んでいてもおかしくは無かったというのに片桐先輩は額に汗の一つもかいていない。

 死の恐怖を無くす。それもレッド・クイーンの効力のおかげか。

「アイツらただの殺人者じゃないですよ」

「ああ、分かってる。異常なまでの判断のドライさ……まるでオレ達みたいじゃねぇか」


 そうだ。それだ。

 僕が抱いた違和感の正体に片桐先輩は真っ先に気付いていた。

 レッド・クイーンの接続者は恐怖を感じないが、感情の起伏が乏しくなる。

 あの兄弟からそれと似た空虚な感覚。それが感じられる。

 何故だ─────? 

 その答えを探る前に状況が動き出した。


「うう痛いよォ〜……」

 ごぷ、と湿った音を鳴らしながら顔面を自らの血でぐちゃぐちゃにした卓が起き上がった。 

「兄ちゃん! 良かったぁ〜」

 兄は血塗れだというのにそれを気にもせず健人が喜んだ声音で飛び跳ねる。

 その光景だけでも悍ましいものだが、僕らには何の影響も無い。

「お前ぇ、許さないからなァ〜!」

 ゔおおおおん。とチェンソーが唸り声を上げ、がんがんとハンマーが叩きつけられる音。

 二人が臨戦態勢に入った。僕と片桐先輩は目配せをしする。

「死ねぇぇ〜!!」

 卓の掛け声で兄弟が揃って迫る。彼らの表情は地獄の悪鬼の様に醜悪だ。

 だが、所詮は人間。足に一二発撃ち込めば簡単に止まる。

 ぱんぱん─────

 乾いた音が二回鳴って直後に悲鳴。

「あぶぁあぁぁ!!」

「ひぃんぎぃいいいい!!」

 兄は右腕を、弟は左腿を抑えて床の上をのたうっていた。

 痛みに苦しむ二人を見て、片桐先輩は事もなげに近付きまず兄の卓の上に馬乗りになり右腕を振り上げ─────直後に鈍い音が鳴って兄の悲鳴が止まる。そしてすぐさま弟の健人の方へ行き、同様に鈍い音ののち悲鳴が止まった。

 無論、殺してはいない。

 二人とも生きてはいる、、、、、、

 片桐先輩も仲間を殺された怒りで満ちてはいたが、その辺の分別はつく人だ。

 ……あの兄弟も脊椎をへし折られた程度だろう。

 散々人を殺しておいてその程度で済むのだ。感謝こそあれど、憎まれる事はないだろう。


「よっし。まずは一人……いや二人か。片付いたな」

 彼らの血で汚れた手をハンカチで拭いながら笑顔になった片桐先輩が戻ってきた。

「殺してないとは言え、人間を思いっきり殴った後でその笑顔はやめた方がいいですよ……」

「そりゃ確かにそうだな……」

 恐怖管理されてるとつい笑顔になっちゃうんだよな、と次の階段へと向かいながらボヤく先輩を放置して、残った機動隊員へと視線を向けた。

「ひぃッ……!」

 その目は完全に僕を恐れていた。

 まぁ無理もないだろう。仲間が殺された場面を間近に見ながら、殺人者とは言えそいつらを殴って笑顔になっている男を見れば恐怖を覚えても仕方ない。

「……あなたは本部に報告をして応援を頼んで下さい。この二人の身柄を確保しないとならないですし、僕たち二人まであなたと一緒に戻っている時間もありません。薄情な様で申し訳ないですが、お願いします」

 と、一方的に告げて僕も次の階段へと向かう。

 まだマンションは登り始めたばかりだ。

 


 ◇



 僕らはマンションを順調に登っていた。

 四階より上、そして十五階まではやはり無惨なマンション住人の死体が転がっているのみで、殺人者の姿は無い。


 そして十六階。そこに彼らは立っていた。


「ようこそ我らが教団の聖地へ────」

 顔まで覆う白いローブに身を包んだ人々が僕らを出迎えるように並んでおり、咄嗟に僕らは身構えた。

 しかし、彼らは一人として僕らへの敵意を見せずにただ立ち尽くしているのみ。

 その様子に僕らが拍子抜けしていると、最初に声を掛けて来た教団員の一人、彼らの頭目と思しき人物が僕らの前へと出てきた。

「緊張なされる事は無い。我々はあなた方が敵視する殺人者では無いのですから────」

 その言葉に片桐先輩が彼らに向かって飛び出そうとするのを右手で制止し、問いかける。

「それはどういう事ですか?」

「言葉の通り。我々はここにおわす我らの神に付き従いやって来たまで」

「なら分かっているはずですよね。僕らがその神を捕らえに来たって事を」

 ……だと言うのに、この連中の落ち着き様はなんだ?

 てっきり問答無用で襲い掛かってくるものだと考えていたのに。


「──ふふふ、我らの神を捕らえる。そうですか、あなた方にはそれが出来ると思える。そうした姿もまた我らの神の望む人々の姿」

 くすくすと笑う教団員に対し片桐先輩が堪え切れずに叫び出した。

「やってやろうじゃねぇかよ、テメェらの神とやらがどんなヤツか知らねぇけどな!!」

 片桐先輩が教団員の襟首を掴み怒号を飛ばすが、ソイツは動じた様子も見せずに微笑した。

「では、僭越ながら私が。我らの神の名をお教え致しましょう。我らが神の名は─────」


 教団員の告げた名前に、僕らは言葉を失くす。

 片桐先輩もだが、僕の胸中はそれ以上に驚きの感情で満ちていた。

 一体何故、彼女がこんな所にいるのか。 

 そして彼女を神と崇めるこの教団は────。


「……羽海野有数うみの ありす

 僕は確かめる様にその名を呟いた。

 博士の娘の名前は知らなかったが、その名前の持ち主がそうであるという確かな実感が湧いている。

 何故だかは分からないが、その名こそが僕が探している人物の事だと分かった。


「そいつは博士の娘の名前だぞ……!?」

「知ってたんですか、先輩」

 ……なるべく驚きを悟られぬ様、僕は先輩に問いかけた。


「ああ、昔まだ刑事課にいた頃に何度か会ったことがある。哲学書やら精神医学書ばっかいつも読んでて人形みてぇに気味の悪いガキだったのを覚えてるぜ……今は丁度二十歳くらいじゃねぇか?」

 そんなに若いのか。僕も二十五くらいだが、それよりも若いことに小さく驚く。

 にしても、先輩が羽海野博士の娘を知っているだなんて思いも寄らなかった。

 しかし、先輩は知っているんだろうか?

 ────レッド・クイーンに使われている生体ユニットの正体を。


 僕が言い知れぬ不安に頭を悩ませていると、教団員は片桐先輩の手から離れ、僕らを迎え入れた時の様に整列する。


 そして彼らはそれぞれがその手に拳銃を握り、その銃口を自身の頭部へと向けた。


「誰も羽海野有数からは逃れられない。我々はそれを知っているのです。そして辿り着いた先であなた方も知る────我らが神を」


 教団員の一人がその言葉を吐いた直後、一斉に耳をつんざく音が鳴った。 


 ……彼らは統制された動きで自身の頭を撃ち抜いていた。

 それは明確な自殺。

 しかし、その光景が目に焼き付いて離れない。


 ……不気味だ。

 レッド・クイーンに恐怖管理されていなければ、眼前の狂気に呑まれていたかもしれない。

 そこに一抹の安堵を覚えながら、片桐先輩へと視線を送る。


 大柄で、その身体に合わせた様に気も大きくて、頼りになる先輩にして相棒でもある片桐来眞。


 そこに────僕がよく知る男は居らず、代わりに真逆の存在とでも言える男が身を縮め、歯をがちがちと鳴らし小鹿の様に震えていた。


「せん、ぱい……?」

 その震える肩に触れようと手を伸ばした瞬間、先輩が怯えた目で僕を睨み付けた。


「な、ななんで────お前は、平気なんだ……?」

「は? 何言ってんですか────」


 レッド・クイーンのおかげで僕らは恐怖を感じない。

 そのハズだ……なのに、先輩のこの怯え様は一体?


「お、オレはなんでこんな所にいるんだよ!? あああああ怖ェ、怖ェ!!!」

「先輩落ち着いてください!」

「これが落ち着いていられるかよ……!? 目の前でこんなに人が死んでんだぞ!?」


 くそ。なんなんだ、この変わり様は。

 ……訳が分からない。

 だが考えられる原因は一つ。

 レッド・クイーンの機能が停止した。

 なのに僕だけが無事と言うのが分からない。

 先輩への接続が切れただけ、なのか?


「ああああ……ダメだっ! オレは、おかしくなっちまう……!」

「先輩ッ……!?」

「こんなのはおかしい! おかしいィ!! 嫌だぁ嫌だァァァァ!!」

 途端、先輩叫び出しその太腕を奮って僕を突き飛ばした。

 そして、降り口ではなく昇る方の階段へと向かって行く。


 不味い。今の状態の先輩が殺人者と出くわしたら……!

 逃げ出すならまだしもどうしてそっちに行くんだ。

 

 僕もすぐさまに駆け出して階段を昇る。

 明かりの灯っていない薄暗い階段を見上げると、そこにもう先輩の姿は無い。


「どれだけ全力で走ってるんだ、あの先輩は……!」

 若干の苛立ちを覚えながら僕が階段を駆け上がると、先輩は階段を抜けた先、そのエントランスで僕を待っていた。

 否─────待ち構えていた、と言った方が正しいのかもしれない。

 傍らに、殺人者を連れて。


「どういうつもりっすか、先輩……?」

 僅かに反り返った銀の刃は鋭く重厚な雰囲気を伴っている。紛れも無い刀だ。


 傍にいるシルクハットを被った老紳士の様な装いの男が先輩にそれを渡したのだろう。

 だと言うのに、ソイツは僕の事など気にもせず、掌の上の懐中時計と通路の外の月を狂った様に何度も交互に見比べていた。

 本部長が挙げた名前の中で該当しそうなヤツを思い浮かべ、僕はコイツが正体不明の怪奇殺人者“問いかけ君”だと判断した。


 ……ここに来て、とびきりの狂人が出てきたか。

 だが今はそれよりも────


「刀なんか持ってどうしたんです?」

 現状は先輩を取り返すのが優先だ。

 しかし僕の問いに返事をしたのは先輩ではなく、シルクハットの狂人であった。


「ああ! ああ! 彼が彼方の刀であなたを殺します!」

 時計と月を見比べながら叫ぶ様に言った男の声に先輩がびくん、と肩を跳ねさせた。


 殺人者に恐怖しているのは違いないが、レッド・クイーンの接続が切れただけでここまで人が変わるものか……?


 レッド・クイーンは特殊事案取扱課に来る前は羽海野博士の研究所にあったと聞く。精神医学の最先端である彼の研究所にあり、尚且つ内の生体ユニットは博士の娘の偽複製クローン


 恐らく僕ら以外でも実験はしていたハズだ。

 だが僕らの所に来たのは博士の死後。

 そして行方不明だった羽海野有数は宗教団体の神として崇められていた。


 この事件は何の関連性も無い殺人者が集まって起こしている─────そんなのはもう愚かな先入観なのか?

 

 ふと気付くと、僕がそんな疑問を抱いている内に先輩は刀を構え、怯えた目でこちらを睥睨していた。

「わ、わりぃな簗人……オレ、お前を殺さねぇとならないみたいだわ……!」

「……一体どうしたってんですか」


 今はレッド・クイーンのことは忘れろ。

 自分に言い聞かせて意識を集中させた。

 先輩は正気じゃない。

 そんなのは普段の先輩を見てれば分かる。

 だとしても殺意を向けてくるのは衝撃的だったが、僕は平静を保ったまま先輩と向き合えている。

 先輩の傍らにいるイかれ野郎も気にかかるが、まずは先輩の方をどうにかするしか無いか────。


「止めてやりますよ……!」

 背後に手を回し、僕は電磁ナイフを引き抜いた。

 相手は刀。

 だが一応ナイフで応戦する訓練は受けているし、ナイフでの近接格闘術にはそこそこ自信もある。

 …………一手で終わらせる。

 

 先輩が刀の先を持ち上げるのを見て、僕も構える。


 直後、躊躇無く踏み込んで来る先輩に対し、僕はナイフを逆手に握りしめる。

 上段に振りかぶられた刀の軌道を予測し、そこにナイフを置いた。


「はは、ははは!!」

 引き攣った笑いを発しながら先輩が刀を振り下ろす。

 戛然と共鳴しあう鉄と鉄。

 ナイフから伝う衝撃が僕の腕に一瞬の痿疾を残して走り抜けていく。

 強迫観念に囚われた人間は危険だ。自らの行いに躊躇が無く、常に全力で一つの事柄を実行する。

 ────故に振り下ろされた刀は重い。

 そこに不退転の殺意が込められている事を実感しながら、僕は刀の刃に沿ってナイフを滑らせ、同時に前進した。


 ────大上段からの一撃は、受けるか躱してしまえば後はどうとでもなる。

 膂力はあれどそこに技は無い。


 そして間合いの内に踏み込んだ僕に、先輩は苦笑を漏らし、焦点の合わない瞳が唐突に僕を見た。


「……嫌だ、死にたくねぇ」


 ────不味った。

 小さく呟いた先輩の声に意識が割かれ、その瞬間──先輩は刀を捨てて僕に掴み掛かってきた。

「っ────! くそッ」

 背を下に倒れた僕の上に先輩は馬乗りになって拳を振り上げた。

 ……あの双子の脊椎を折る程の威力の拳だ。

 僕が喰らえば、頭蓋骨くらい簡単に砕かれかねない。

 案の定、拳は僕の頭を目掛けて振り下ろされた。

「先輩ッ……!」

 予測していた通りに落ちてくる拳を頭をズラして躱すと先輩の拳は床へと激突した。

 渾身の力で床を殴りつけた先輩の拳は肉が裂け痛々しく出血する。

 しかしそれでも先輩は止まる事なく右腕を振り上げた。

「死ねぇ……死んでくれヨォ!」

 再度振り下ろされる拳は再度頭を目掛けて飛んでくる。


 同じ様に頭を動かして何とか回避するが耳元で、ぼき。ぐちゃ。という鈍く湿った音が聞こえ血の気が引く。

 先輩の拳は骨が露出するほどに肉が裂けていた。だというのに、先輩は痛みなど感じてないかの様に躊躇する事なく右腕を振り上げる。


 ────腕が潰れるまで止まらない気か!?

 なんにせよ、どうにかしなきゃならない事に変わりは無い。

 やるしか無い、か────!


「……すまん、先輩!」

 ぱん、と乾いた音が鳴って直後に悲鳴。

 腰に携帯していた拳銃をホルスターに納めた状態のままで発砲し、弾丸は先輩の左の脹脛を貫いていた。

「ッッ──があぁぁぁあぁああ!!!!」

 痛みに悶えながら先輩は僕の上を外れ、床を転がった。

 その隙に、立ち上がった僕はシルクハットの狂人へと向かって床を蹴る。


 コイツさえ仕留めれば先輩は元に戻るハズだ……!

 

 右手のナイフを振り上げる。

 狙いは相手の頸動脈。

 確実に一撃で仕留める────!


 刃が殺人者の首に届く寸前で僕はその手を止めた。


 ……僕は今何をしようとした!?

 レッド・クイーンに接続されてると言えど、殺人が許されない事なのは許可を得ているだとかそんな事とは無関係に、人として赦されない事だろう!?


 そもそも殺すという選択肢がなぜ生まれたのかも分からない。


 僕の身に何が起きている?


 殺人者の精神がレッド・クイーンにどの様な影響を与えるかも分からない。

 霧島本部長がそう言っていたのを思い出す。

 殺人者の精神────いや、僕らは人を殺してなんかいない。 

 レッド・クイーンはそもそも恐怖を肩代わりする様な装置じゃなかった? 

 違う。そんな答えじゃない。

 

 何かが。あと少しで何かが分かりそうなんだ……邪魔するなクソ!


 殺したい。 

 殺したい。

 殺さないと、殺さないとダメだ。

 殺──────……!


「ダメだ……ッ!」

 殺人衝動に駆られる自分に言い聞かせる様に口にしたが“敵”の首にあてがったナイフを引く事も、手放す事も出来なかった。

 明らかにおかしい。

 僕は、どうしちまったんだ────!

 

 こんな衝動が自分の中にあるだなんて思いもしなかった。

 こんなにも人を殺したくなるなんて想像した事が無かった。

 狂おしい……!

 今すぐにでもこのナイフで血の詰まった管を引き裂いて、その血を目一杯に浴びたい……!

 いくつもの衝動が僕の内を駆け巡り、ナイフを握る手ががたがたと震える。

 まるで自分の中にもう一つの人格があり、両者がせめぎあっている様なのに、僕はそのどちらをも感じ取れる。


 ……気が狂いそうだった。

 直感が叫んでいる。

 あとほんの一押しで僕は取り返しが付かない所へ行ってしまう。

 かたかたと震わせているナイフの先を凝視すると、少しずつ力を込めて首筋へと沈み込もうとしていた。

 ………やめろ、僕は殺人者になんかなりたく無い。

 その思いとは裏腹に手に込められた力は抜けずにナイフは進もうとする。

 嫌だ。あんな怪物どもみたいになりたく無い。

 止まれ───!

 止まれよ────!


「……ッやめろってんだよぉぉぉぉぉ!!」

 

 心の底から出た声。

 そして僕の手はようやく僕の脳細胞の支配下に戻ってきた。


 しかし──────


「だめだ、やめだ、まだだ、いまだ」

 “敵”がその射干玉ぬばたまの様な瞳を僕へと向けていた。

 ぴたり。

 目が合うのを感じた。


 その瞬間─────彼は発狂した。


 「どうして!

 どうして!

 マザーグースに怯える子ども!

 生きていない!

 救われない!

 三日月が笑って見ている!

 私は恐れている!

 アリスが笑う!

 バンダースナッチの悲鳴!

 ジャバウォックの絶叫!

 並べてみな彼女の虜!!」

 

 しきりに同じ句を繰り返す問いかけ君に僕は怒り────ではなく“殺意”を覚えていた。


 ……狂ってる。

 なんなんだコイツは。

 なんで僕の前に立っている?

 そうか。

 分かった。

 コイツは“敵”だ。

 僕らを脅かす敵だ。

 

 ナイフを握る手に力が込もる。

 ……殺す。

 次の瞬間、僕は簡単に“敵”の頸動脈を切り裂いていた。


「が、がご……! ぐあ、ご。…!」

 首を裂かれても尚叫ぼうとする“敵”。

 ぐらぐらと揺れるソイツの腹を怒りのままに蹴りつけると、穴の空いた水風船みたく血が噴き出すのだから滑稽に見えて仕方ない。

「ご……! ご……!」

 最後に意味のない音を宙へと吐き出したその直後、呻く事すらしなくなった“敵”を見て、僕の胸中を安堵と高揚感が満たす。


 ────沸き立つ怒りのままに僕はとうとう人を殺し、その感触に言い知れぬ満足感を覚えていた。

 

 そして思い出す。

 本来の自分を。

 自分が何を犯したのか理解し、吐きそうになるが、同時に僕の身に異変が起こっているのを感じた。


 感情が、逆流する─────。


 怒りが、憎悪が、愉悦が、そして恐怖が澎湃ほうはいした。

 ……歪んだ感情が脳裏を彩り、僕の罪を形成して行く。



 そうか、これが人を殺すという事なのか。



 唐突に理解したその感情を──僕は望まないままに獲得したのである。 


 そして、これまで出会ってきた殺人者達の思念の理解へと至る。


 それは僕に成すべき事を示していた。


 『羽海野有数のもとへ向かえ』


 ただそれだけが僕の使命だと、直感が告げている。


 羽海野有数、そしてレッド・クイーン。

 その二つは強く結びつき、僕をどこかへと誘っている。

 初めから仕組まれていたんだ。

 レッド・クイーンが僕らの元に現れた時から、全てはこの時の為に。


「くそッ────!」

 握り締めた拳固を床へと叩きつけた。

 鈍く響く痛みがレッド・クイーンの与える“嘘”を掻き消して、僕に本来の自分というモノを思い出させた。


 ……ふざけやがって。直感なんかじゃない。

 レッド・クイーン、僕はお前の言いなりになんかならない。

 

 僕は、自分の意思で羽海野有数に会いに行く。

 

 ふらつく足を叩いて立ち上がると、視界の端に横たわる先輩が見え、先刻までの目的を思い出したが、その姿に思わず乾いた笑いが漏れた。

「はは……そりゃないっすよ」

 先輩は自らの胸に刀を突き立てて死んでいた。

「もういらないっすよね……?」

 先輩の胸から刀を引き抜いて、僕は羽海野有数のもとへと向かう。


 彼女はきっと僕を待っている。



 ◇



 最後の階段を上がり、二十二階へと辿り着いた。

 そこだけは今までとは違う雰囲気を放っている。

 外からの視界を閉ざす様に通路に垂らされている真紅の天幕。

 他の階とは明らかに違う蝋燭の灯りだけが照らす薄暗い通路。

 言うなればここは地獄の門だ。

 踏み入る者に一切の希望を抱かせない。

 僕は今その門を潜った。

 

 しかしこの道の先にこそ彼女はいる。

 羽海野有数がこの先に─────。


 彼女が待っている。

 

 ……天幕のせいで外は見えないがどれくらいの時間が経ったのか。

 そう言えば応援を頼んだ機動隊員はどうなったのだろう。彼らが来ないという事はまだそんなに経っていないのだろうか。

 いや、今更どうでもいい。

 あとは進むだけだ。

 そこまで長い道じゃない。


 そうして、がりがりと刀を引きずる僕の前に広がる闇の先に人の気配がした。

 それが僕の探していた人物だと分かり、立ち止まる。

 そして闇の中に白い影が浮かび上がった。

 あの時、一度だけ目にしたきり忘れる事のできない芸術品の様な少女の白い肌と闇に眩い銀の髪。


 僕はその名を口にした。


羽海野有数うみの ありす、か」

「君なら辿り着けると思っていたよ梁人」

 彼女はくすくすと笑い、慣れ親しんだ友か或いは恋人を呼ぶかの様に僕の名を口にしてその姿を現した。


 その姿に思わず息を呑む。


 一度も太陽に晒された事の無いかの様な白い肌、闇を吸い込んでしまいそうな銀の髪。それを構成する儚げな細い肢体を真紅の外套が包んでおり、その中で彼女が湛える笑みには魔性が取り憑いている────。

 

 本物の羽海野有数はクローンのレッド・クイーンの生体ユニットよりも大人びた雰囲気を放っていた。

 それが格好のせいなのか彼女の人格が成せる空気感なのかは分からないが、ただ一つ分かるのはレッド・クイーンと彼女が別の存在であるという事のみ。

 

 須臾の沈黙を破ったのは羽海野有数だった。


 改めて挨拶させてもらうよ、と前置いて彼女は続けた。

「初めまして、私は羽海野有数。知っての通り羽海野鏡蔵きょうぞうの娘であり、アリス教団の崇める所の神。そしてこの場所に集った殺人者達の母。そして梁人、君の敵だよ」

 ふふ、と自己紹介を終えた有数は妖艶な笑みを浮かべた。


「お前が僕をここに呼んだんだな」

 刀の柄を手繰りながら彼女を見据える。


「勿論。梁人は私にとって愛すべき人間だからね」

「愛す? 下らない事を言うな」

 右腕を伸ばし熱のこもったの視線を僕へと送っている有数の言葉を切り捨てる。


 彼女は行き場を失った右腕を引いて溜息を吐いた。

「まぁ、いいよ。そんなに時間も残されてる訳じゃ無いしね。梁人の知りたがっている事を教えてあげるよ」

 つまらなそうに言って、どこから持ってきたのか彼女はパイプ椅子へと腰を掛けた。


「時間が無い、とはどう言う事だ?」

「正確には“残されていない”。平等にね」


 ……平等?


「平等とは天秤に掛けられている二つの事柄にとっての平等。つまり私と君達」


「僕がお前を捕まえて終わる。時間が無いのはお前だけだ……!」

 だと言うのに、有数の言葉が“嘘”であると思えなかった。


「あはは。なら交換条件といこうよ。私の話に付き合ってくれたら大人しく捕まってあげる。それでどう?」


「それで僕に何の得がある。こっちには武器があるんだ、お前みたいな女を捕まえられないとでも思うのか?」

 刀の先を有数へと向けて問う。


 しかし彼女は毅然とした態度を崩す事なく言葉を返した。

「なら私は精一杯の抵抗をさせてもらおう。私は非力だ。この身体を見て貰えば分かる通り筋肉は僅か、格闘技の類も嗜んでいない。そしてそれを補う為の武器も無い。その私が抵抗した時、梁人はどうするのかな? 私を殴る? それともその刀で手足を切り落とすのかな? いずれにせよ私は死んでしまうだろうね」


 ……悪趣味な女だ。


「殺人の感覚は忘れ難い、だろう?」

 僕がその言葉に押し黙ると有数は笑った。


「交渉成立だね。私の話に付き合ってもらおう」

「……ちっ!」

「なぁに、私の話は君達にとって有意義な話だよ」


 その意味が分からなかったが、僕は彼女の話を聞く事にした。

 

 ───────そして僕は羽海野有数という名の“恐怖”を知る事となる。



 ◇



「────私達という殺人者が集った事で、世の中はどうなっただろうか。夜半に外を出歩く者は減り、世間は殺人者という者への危険を謳う。人々の脳裏には常に“死”への恐怖────『誰かに殺されるかもしれない』という疑心が生まれたのではないか?」


 確かに彼女の言う通り世の中の在り方は大きく変わった。

 殺人以外の犯罪は激減し、人々は夜を恐れた。

 “恐怖”による秩序の回復が彼女の目的であるならばそれは果たされているのかもしれないが、恐らく違う。


「だろうな、けどそれも今日までの話だ。“恐怖”はいずれ暴かれ、その機能を失う」


 これまでも人は“恐怖”を克服してきた。

 夜の闇は薄れ、未知は既知のモノに置換される。

「……まだ分からないかい梁人。私達が君達に“進化”の切っ掛けを与えただけだと」

「殺人者が進化した存在だとでも言いたいのか……!? ふざけるなよ羽海野有数、お前達は下らない自己陶酔に陥ってるだけだ!」


 人殺しが進化した人間だなんてのは狂人の戯言だ……歪んだ自己を正当化する為の虚言だ。

 

「自己陶酔、とは面白い事を言うね。その通りだよ梁人。人類の進化は常に“嘘”と共にあった。未知を嘘に置換し、認識を更新してきた。古えから繰り返される文明という名の自己陶酔うそ────けれど私はそれを進化とは思わない。恐怖の理由を暴いても恐怖という感情そのものの根源的な克服には至っていないからさ」


 “恐怖”の克服……?

 たかがその為だけにこんな大きな事件を起こしたって言うのか?

 コイツが羽海野博士の娘だなんて到底思えない。 

 何故なら、羽海野博士は“恐怖”の解明にその生涯を捧げついにレッド・クイーンを完成させたのだから。


「────恐怖とは、虚像に理論の橋を架けた虚構に過ぎない」

 

 その言葉を聞いて有数は玉の様な瞳を丸くした。


「それは父の言葉だね。勿論私もよく知っているよ。でもその言葉こそ彼の吐いた“嘘”さ。恐怖は抑制するものじゃない」

 そんなのは虚言だ……!

「ならお前の言う殺人者への恐怖も造られた恐怖────“嘘”に変わりない事が、どうして博士の娘であるお前に分からない!?」


「あはは、父とは生物学上の彼を指すだけのモノであり、役割としては決して彼には相応しいものじゃないよ。彼は色んなモノを怖がる男でね、娘の私をも恐れていた。私も彼の恐怖をあやすのに散々付き合わされたモノさ。だから、私にとって彼は間違え続ける男でしかない。まぁ最後には理由を求める事にすら恐怖してしまったみたいだけど」


 恐怖の代替装置、レッド・クイーン。

 あれの本来の用途は感情の吸収だ。

 吸収し、溜め込む。

 博士が他の何かを犠牲にしてでも“恐怖”を克服しようとしたのなら────


「……レッドクイーン」

 あの装置にある生体ユニットは人格の無い人形だ。

 だがもし、他者の感情を吸収し“人格”を獲得したとしたら。

 殺人者への恐怖と殺人者の思想。

 その二つを併せ持つ存在の誕生。

 それが有数の言う、“恐怖”の克服なのか……?

 

「そうだよ、段々分かってきたじゃないか梁人」

「僕の名前を呼ぶな! 狂人め……!」

 艶美な表情で笑う彼女を振り払う様に僕は刀を構える。


「ふふ、確かに私達は狂人。偽りの恐怖、正体不明の怪物ジャバウォック。でもそれこそが私の目的でありその全て。この世には怪物がいる事を知らしめ、永く閉ざされてきた人々の眼をひらくのさ」

 危険だ。僕の本能がそう訴えてやまない。

「……意味が分からない。いや理解する気もない! お前は僕が捕まえる。それでこの事件は終わりだ」


 僕が一歩踏み出すと有数はくすくすと笑いだした。


「……ふふ、いい顔だね梁人。それこそが私の見たかったモノ。本物の私に刻まれている原初にして最後の恐怖」

「ホン、モノ……? どういう事だ!?」

 僕は何かを間違えている?

 だとしたら何を。

 レッド・クイーンは博士が作り出し、感情を吸収する装置。

 羽海野有数はレッド・クイーンを進化した人類として生み出そうとしている……違うのか!?


「まだ気付かないのか、梁人。いや気付かないフリをしているだけかな。だったら私の口から言ってあげるよ」


「やめろ────」

 ダメだ、聞いてはダメだ。

 聞いてしまえばきっと刻まれてしまう。

 忘れ難い“恐怖”が……!


「羽海野有数。私はそれの複製品。私こそがレッドクイーンそのものだよ」

 自らをレッド・クイーンそのものであると語る彼女を前に全身から力が抜けるのを感じた。

 

「僕は認めない……そんな事は絶対認めない……!!」


「……その“不理解”が私を産んだ。私を拒んだ人々の“恐怖”という感情が、世界がッッ!! 

 私には恐怖という感情が無かった。

 だけど私は知ろうと思った。人々がどうして私を怖れるのか、その理由を。

 私に向けられる恐怖という感情を。

 ……他者の恐怖を肩代わりするという形でね。 

 そしてオリジナルの私はレッドクイーンとして恐怖を蓄える装置となり、複製品である私は羽海野有数として恐怖を生み出す存在となった」

 

 話を聞きながら僕の内に“恐怖”が満ちていく。

 僕は叫ばずにはいられなかった。

「この……化け物がァッ!!!」


 同時に有数は盛大に笑い出した。

「アハハハハハ!!」

 そしてぐらりと立ち上がって僕の方へと向かってきた。

「化け物ぉ……? そうなのかなぁ、私は自分のことを化け物だなんて思った事はないのに……アハハ────私を化け物にしたのはお前達だろうがァ!!!」


 堰を切ったように有数は感情を吐露し続ける。


「誰も私を理解してくれなかった! 誰も私を理解しようともしてくれなかった! 誰も私の存在を許してくれなかった……! どうして、どうして私だけが孤独なのか、分からなかった……! でもね、やっと……やっと出会えた。初めて私を理解してくれる人に……梁人だけが私を理解してくれる」

 そうして有数は僕の頬に手を添え、慈愛の眼差しを向ける。


「ふざけるな────ふざけるなよ羽海野有数! 僕は……僕はお前の思う通りになんかならないッ!」

 

「……そう怯えないでくれよ、君と二人だけの世界。魅力的だけどそれもあと僅かな間だけなんだから────ワタシは君達を知った。今度は君達がワタシを知る番だ」

 態度を豹変させた有数が、立ち上がり僕を見下ろす。

「何をする気だ有数!」

 その問いかけに有数は静かに答えた。


「……レッドクイーンの機能はじきに死ぬ。現に君の恐怖抑制も働いていないだろう?」

 言いながら有数は懐から一本の煙草を取り出した。

「恐怖という感情蓄積。今やその許容値を超えた彼女はこの場所を起点に“羽海野有数”という恐怖を世界へと拡散するだろう……その恐怖の中にこそ真のワタシはいる」


 その顔は何もかもを諦めたかの様な絶望感を湛えていた。

 ここまでの事をしておきながら、彼女が一体何に絶望しているのか。

 それはきっと、ここまでしても自分を理解出来る人間のいない世界に対しての絶望だろう。

 だから有数は─────……


「もう僕は……お前を殺してでも止める。そんな事させはしない……!」

 僕が。僕だけが有数を殺せる。

 僕が殺す事で彼女は救われる────!


「君は遅かった。だからもう無駄さ、ワタシという“恐怖”はこの世界に刻まれ、虚像でも虚構でも無い事実として残り続ける。

 例えワタシが死んだとしても────啓かれた人々は羽海野有数と言う恐怖から眼を逸らせない。

 恐怖そのものとなった私を克服するには、人類は“進化”するしかない。私を理解出来る生物へと……」

 彼女は煙草に火を点け、深く吸い込んだ。


「それこそ自己陶酔だろうが!!」

 そう言った僕を有数は光の無い瞳で一瞥、煙を吐く。


「何とでも言え梁人、認識がどうであろうと君がその記念すべき一人目という事実は揺らがない。ここに来るまでにワタシの可愛い殺人者達バンダースナッチを破ってきた君はワタシを理解し、ワタシと同じになった。

 無論、その肉体も変質を遂げている」


 その時、彼女の態度の変化に違和感を覚え、ハッと有数を見上げた。

「自己のみで完結する完全な生物への変態、人類の新たなステージ。

 ワタシという突然変異はその銀の秘鑰ひやく

 生物にとってのパラダイムシフト。

 もう止められはしない。受け入れたまえ」

 煙草を踏み消して、口の端をもたげた。


「誰なんだ、お前は────」


 有数の自己の認識の変異。

 僅かではあるが大きな違い。

 理解されない怪物と理解を促す賢者。

 その差異。

 そして今の彼女は後者であった。


「やっと気付いたのかい? 

 初めまして。私が本物の羽海野有数だ」


「バカな、本物は今もレッドクイーンの中のハズだ……」

 先程の彼女の言葉が真実なら、本物はレッド・クイーンそのものであり、今僕の前にいるのはクローンのハズだ。

 ならそれ自体が“嘘”だったって事なのか!?


「肉体は確かにレッド・クイーンに納められている。そして、この身体はワタシの複製。しかし意思は紛れも無い本物のワタシだ。」

 言って有数は自らの掌を掲げる。


「精神の上書き……お前に支配される事、それが進化だとでも言うのか……!」

 違う。彼女は言って言葉を続けた。


「理解者のいない世界に絶望したワタシはとある説を見つけた。

 それはある生物種が、生息域や食性が競合する他種や天敵との関係において、生存のために絶えず進化を続ける必要があるという仮説をな。

 ワタシが理解されない怪物ならば、人々をワタシと同じステージに引き上げればいい」


「クソ……がァ!!」

 未だ恐怖に震える足を無理矢理立たせて僕は刀を強く握り締めた。


「いまさらワタシを殺しても止まりはしない。さっきもそう言ったろう」


 黙れ。お前の言う事は全て“嘘”だ。

 僕がお前と同じな訳が無い。

 

「僕は────僕は……!」


 強く握り締める手を生暖かい液体が伝う。


「さぁ共に夜明けを見届けよう。世界は変わる。それを止める事は誰であろうと不可能だ」


 お前さえ、お前さえ居なければ……!

 先輩も死ななかった。

 僕も人を殺したりしなかった。

 だからもう黙れよ。

 お前は僕の“敵”だ────!


「黙れェェえええええ!!!」


 突き出された刃は彼女の胸を貫いた。

 瞬間、僕は安堵する。

 “敵”はいなくなった。

 生き残った僕が“勝った”のだと。


「……ごふッ────」

 吐血しながら有数は膝を着いて僕を見上げた。

「そうか……人に殺されるというのはこういう気分か」

 その言葉にどんな意味を含んでいたのかは知らない。

 ただ、勝ったのは僕だ。

 

「僕はお前にはならない。お前は永遠に孤独だ……羽海野有数!」

 告げて僕の足は屋上へと向かっていた。

 今は兎に角、外の空気が吸いたい。

 ────酷く疲れた。


 

 ◇


 夜明け前。空にはまだ三日月が浮いていた。

 そして、屋上から見える街は燃え盛っていた。

「……なんなんだよ、これ」

 有数は羽海野有数という“恐怖”を拡散したと言っていたのを思い出す。


 この光景がそれによって齎されただなんて思いたくは無いのに────。 


「これが、進化……?」

 悲鳴。炎。笑い声。

 狂気に満ちた世界が広がっている。

 

「もう嫌だ。何もかも嫌だ……!」

 死ねばこんな世界から目を背けられる。

 狂気とは無縁の無の世界に。 


 屋上のへりに立って、眼下を見下ろす。

 バリケードを築き、暴徒と交戦している仲間達が見えた。

 それが無駄な足掻きなのを僕は知っている。

 

 羽海野有数からは誰も逃れられない。


 あの教団員が言っていた言葉がその通りだったのと思い知り、僕は梁から宙へ。


 一歩踏み出した。


「これで、終われる──────」


 落下し、これから死ぬには不似合いな安堵に僕は包まれていた。


 

 ◇


 ……朧げな意識の中で声が聞こえた。


「その場に留まる為には、全力で走り続けなければならない。君とワタシ、どちらが勝利するかの戦いはまだ始まったばかりなんだから────」

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