憂鬱

「ただいまー」



「おかえりぃ、いの!」



 玄関から声の発した主までの距離は10mほど。

 だがすぐ隣でわめかれたようにしか聞こえないがらがらの大声。

 ご近所さんから苦情が来ないか本気で心配になるが、彼女がきっとそんな苦言を気にかけることは死ぬまでないだろう。


「あ、おばあちゃん。もう帰ってたんだ」

「あんたのおめでたを聞いたらじっとしてられなくてねえ。超特急で走ってきたよ。あ、でもお土産はたっぷりあるよ!!」


「わーい。でもおめでたじゃないよー、子供は産んでないよー」

「そうか、分身だったねえ。私の時はうるささが二倍になって、早く消えろ消えろと親が言ってきて仕方なかったよ」


「うわ、簡単に想像できる。てか分身でもない。新しい人格」

「どっちでも同じさ。あんたも私の孫なら同じような大騒ぎになるさ。息子の時もそうだった」

「お父さんも!? 意外過ぎる……!」

「あんたが生まれたらおとなしくなっちまって。つまらん男になりよったよ」


 あんたはそうなるなよ。


「あはは、どうだろうー」


 意地悪く私は「私」に話しかける。


『ねえ、どう思う? ねえ?』

『…………』



 目の前までどたどたと小柄な猛獣が寄って来る。

 木山織子。

 これがこの人が祖母でラスボス。


 横に広く縦はこじんまり。

 両目は大きすぎてぎんぎらぎん。

 極めつけにパーマは紫。


 まさに最後に「私」が相対するのにふさわしい風格だった。


 その理由は一目瞭然。

 「私」の心が折れるから。

 今日一日の一連の流れで慣らされて麻痺させて、何とか正気を保てる。

 朝会っていたら、と思うと心が震えあがる。


「さっそく会ってみたいんだけれどねえ、いいかい?」

「うん、変わるね」

『あ、ちょっと、待って」


 あ。


「う、うぅ……」

『ほら挨拶』

「う。……。は、じめま、して。新しい祈里です。ま、孫ですね、あはは……」

『孫て。てか何で最後笑った』


 本当に。何で最後笑った。

 でも空気がいたたまれなくて。


「あれ?あらら? 新しい子はえらく…………何て言うんだシャイだな。祈里、あー古い子とは正反対、そんなこともあるんだな。……面白い、おもしろいよ。でもうまく付き合っていけるかねえ、おばあちゃんさっそく心配だよ」

「が、頑張ります……」

「頑張ります!? 真面目だね。生真面目過ぎると禿げるよ!?」

「は、禿げる!?」


「そう。だから。もっと気楽に気楽に。ほらおばあちゃんって呼んでくれよ!」

「お、おばあちゃん……よろしく……」

「……可愛いわねえ~。古い子にさすがにこんな可愛げがあったことはあるんだろうけど……。もう忘れちゃったがね!!」


『私は今でもいつでもこれからも可愛いよ! ちゃんと伝えて!』

「あ、あの。私は可愛いって」

「わはは。そうだねそうだね。いのはかわいいよ」


 祖母は頭一つ分下から、遠慮なくばしばし背中を叩いてくる。


『痛いよー、おばあちゃん』

「あの……、痛いです……」

「あら、ごめんごめん」


 さすが祈里のおばあちゃん。祈里が彼女の要素を十全に受け継がなくて本当に良かった。

 祖母の体に生まれていたら、「私」は発狂していた自信がある。


『うわあ、ひっどい言い方』


 夕食前に自室に着替えと荷物を置く途中で、私は「私」の壮絶な拒否感に冗談交じりで苦笑したが、本音はそこそこ混じってたと思う。


『これからは毎日顔を合わせるんだから、仲良くね』


 うわあとうなりたくなった。


『うわあ』


 やっぱり我慢できなかった。

 私は嫌な正直者だ。




 ご飯を食べた後、九時ごろにお風呂に入って、十一時には寝るのが私のリズム。

 就寝前の三十分くらいに予定通り、記憶の照合、思い出の欠片の照らし合わせを行った。


 その結果、私たちの情報は細部に至るまで食い違いはなく、しかしそれを受け取る感受性に大きな溝を形成していた。


「私」は「私」の気質では起こり得なかった、私にとっては面白おかしい懐かしエピソードを受け入れる必要がある。

 それには長い長い時間が入りそうで、ノミの心臓の「私」には刺激が強すぎる。

 パニック映画を連続で視聴するような、心休まることがない気の滅入る作業。


 そんな沈む感情が彼女を沈ませないわけがない。

 うかがい知ることはできないが、きっと穏やかでない感情が渦巻いているのは容易に想像できた。


 ささくれだった重い想いに触れた、私の顔に刻まれたしぶさを取り除くすべはない。


 寝る前にぬいぐるみを抱いて、「私」は明日がもっといい日になりますようにと祈った。

 たぶん私も似たことを考えているだろう。

 でもそれは難しいと分かっていて。


 「私」が可愛いと思ったミーアキャットのぬいぐるみは、私にはあざとすぎた。

 「私」が微妙と思ったカピバラに、私はほおずりしている。


 「私」がおいしいと唸ったナスの味噌汁を、私は鼻をつまんでお茶で喉に流し込んだ。

 「私」が豆臭いと警戒した青豆を、私は味わって堪能した。


 そりが合わなかった。

 全く。


 明日からはそれがもっと増える。

 ごまんと増える。

 そんな予感がする。


 だったら明日なんて来なくていいのにと思った。


 本気で思った。


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