第二章
プライバシー保護はありえない
両親は食事を終えるとすぐに仕事に出かけた。
木山家の家事は母が働いて忙しい分、ありがたいことに祖母が、そのウェイトの大部分を引き受けてくれている。
今日のように祖母が外出する日は、祈里の役割が増えることになる。
祈里はトーストを食べきり、牛乳たっぷりのコーヒーを胃に流し込むと、家族全員の食器を洗い乾燥機にれる。
洗面台で歯磨きをして、今度はもう少し丁寧に鏡と
今日は特に何のゴミ出しもないので身軽だ。
「さあ新しい『私』よ。いざ往かん、我らの学び舎へ!」
『……ずっと気になってたんだけど、そのテンションの高さはもしかして通常運転なの?』
「うむ! 私はいつだって元気いっぱいだよ!!」
『…………』
祈里との付き合いはとても疲れそうな予感がした。
祈里が住んでいる町は愛知県の
上から読んでもいちのみやし、下から読んでいちのみやしというのは、子供大人関わらず、とりあえず話のネタに出来る。
『いや正確には違うよね。『ノ』が入ってる』
「新しい『私』は細かいなぁ」
祈里は自転車をきこきこ走らせながら、「私」のツッコミを受け流す。市ノ宮市は
自転車で移動するのにはこれ以上ない環境で、東京や神戸の学生たちからは羨ましがられていることは間違いなしだ。
『誰か東京や神戸に知り合いがいるの?』
「別にいないよー。たぶんそう絶対そう」
『……』
このように適当な所があり、大雑把で何だか物事を深く考えてなさそうな木山祈里という少女は、意外にも勉強はよくできて、高校は市内の進学校と呼べる所に通っていた。
偏差値的には市内一番の高校にも頑張れば入れたかもしれない。だがそこは自転車で一時間以上かかる場所にあり、一方で市内二番の高校は自転車で十分で行けた。
祈里が後者をまったく悩みをせず選択したのは、自明の理であった。
「私」でもそうする。
「お、初めてくらいじゃない? 気が合ったの」
『いや本当に初めてじゃない? 何かあったっけ?』
「私が可愛いってことー」
そうだった。気恥ずかしさがぶり返し、一方で祈里はそういうことを簡単に口にして、同じような気持ちにならないのかと疑問に思う。
「んー、なるねー」
『なるんだ』
「うん今めっちゃくすぐったい。でも私、自分を
『ええ……』
彼女のカミングアウトによって、「私」の悩みの種が早くも増えてしまった。
一つ、騒がしいこと、二つ裏を隠さないこと……って、ちょっと待った。
あまりにもナチュラルに返されたので、違和感にしばらく気づけなかった。
『……ねえ、イノリさん?』
「ん? 何かな、イノリさん?」
『もしかしなくても、私の考えは筒抜けでしょうか……?』
答えが分かっている問いほど無駄の極みはないが、
「うん、筒抜けだねぇ」
だが現実は非情だった。
「『私』の感情はばんばん伝わってくるよ。主人格は私だから。今しばらくは隠し事はできないよ~」
今のご時世にプライバシー保護の欠片もないとは……!
一方で「私」は祈里の感情を知ることができていない。
もちろん言うまでもなく身体を動かす支配権も皆無で、「私」に許されているのは自分の感情を垂れ流すのみ。
きっとこれは存在した時間の差。
「私」はまだ生まれたばかりで、さっきのように彼女に譲られて、やっと一言二言話せるくらいしか、自我を行使する力を有していない。
何だこの不公平。
「しばらくは、『私』の
『趣味が悪い……!』
「私」の口が私のものだったら、きっと歯をぎりぎり言わせていただろう。
でもそんなことは到底できなくて。
代わりに、あっはっはという祈里のあっけらかんな笑いが、そこから漏れたのだった。
今思い返せば、彼女が見せてくれた何の胸のつかえのない破顔は、これが最初で最後だったのだなと気づいた。
いや実際にはそれさえ見ていない。私は彼女の屈託のない笑顔の内で、その時、檻の中に閉じ込められていたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます