小さな幸運

 今日は「私」が生まれた、「私たち」にとっては記念すべき日。

 でも世間の人々にとっては何でもない、取るに足らないただの平日で。


 だから自転車で行く高校までの道中が、何の変哲もないことは至極当たり前なのに、なぜか目的地に近づくにつれに不満を高じさせる祈里がいた。


「普通過ぎる……」

『……それが何か?』


「いやさあ、小説とかなら、こんなシチュエーションだと『いつもの景色が心なしか輝いて見えた』とか『昨日まで気づかなかった些細な発見が私の心を沸き立たせた』とか、ちょっとナルシストっぽい酔っちゃってる表現があるじゃん?」


『うん、最後の表現は絶対いらなかったと思うけど。それで?』

「そんなこと全然なかったね!」


 目前に広がるのはいつもと全く変わらない通学路。

 神様が太陽と雲をとりあえず所定の位置に置いただけで満足したような、特別美しくはないだだっ広い空と、アスファルトの灰色の中の雑草の緑が、無駄に映える街並み。


『あなたの感受性が乏しいんじゃない?』

「辛辣だあ! さっきのことを根に持ってるなら、謝るよ?」


『謝られても、気持ちは隠せないからけっこうです』

「まあまあ。さっきは茶化しちゃたけど真面目な話、聞かれたくないことはできる限り聞き流すし、触れられたくなかったら深く追及したりしないから安心して欲しい」


『……でも聞こえてるんでしょ?』

「まあね。そこは信頼してもらうしかないねえ」


『うう……お腹痛くなってきた』

「え? まだお腹の感覚は私のものだけど?」

『言ってみただけだよ比喩ひゆだよ分かってよ』



 文字通り一人二役でぎゃあぎゃあやりながら、自転車を走らせていると、だんだんと道端に同じ学生服の人の姿が増えてくる。

 私たちが通う香南かなん高校は、在学人数400人程のそこそこの規模の公立高校だ。 


 祈里にとっては入学から三か月目になる勝手知ったる学び舎。

 「私」にとっては通常の入学よりハードルの高い、転入のような形で馴染まなければいけない未知の場所。


 そう考えると痛むお腹が存在しないことは、むしろ幸運だったかもしれないと「私」は真剣に思った。


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