ここはとっても暖かい
祈里は洗面所で顔を洗ってから台所に向かった。
「おはよう!」
祈里の元気な挨拶が台所に響く。
「おはよう~」
「おはよう」
その声に出勤前の母がのんびりと、父が穏やかに、いつものように挨拶を返す。
木山家は四人家族である。
兄弟はいない。
家族三人の
父方の祖母は隣の県に住んでいて、同居しているのはお母さんのお母さん。
「おばあちゃんは遅れずに出られた?」
「ばっちり。五時ジャストに
祖母は免許返納の気配が
大の旅行好きの彼女は今月で既に三回目の遠征で、今日は日帰りバスツアーである。
きっとまた大量のお土産を持ち帰ってくることだろう。
お空も彼女の味方しているようで、六月も中旬に差し掛かろうとしているのに、梅雨の匂いはまったく空気に混じらない。
「えー、おほん。二人にはここでご報告があります……!」
祈里が実にわざとらしく、仰々しく前置きをする。
「へえ」
「何かな」
二人は一応興味を持ってくれているように見える。
しかしどうやら目が笑っている。
「ついに新しい『私』が生まれました!!!」
「あらあら」
「よかったね」
「超平凡な反応、どうもありがとう!」
娘の誕生にもっと感慨はないんかいと、祈里はぎゃあぎゃあ騒ぐ。
「だってあなた三日前から『来た来た来た、コレキタ!』『生まれる時どんな感じだった?』『何て声をかけたらいいかなぁ』って、思いっきりはしゃいでたじゃない」
「こっちはもう一通り、祈里の感情変化を堪能してしまったよ」
「しまった。勢いを先取りし過ぎて、逆に落ち着かせてしまったパターンか……。ううむ、無念」
祈里は本当に残念そうに口を尖らせていた。
どうももう一人の私は、かなり
母がフライパンで卵を焼き、父はトーストを、祈里が皿を並べて生野菜を盛り付ける。
三人の役割分担で素早く朝食の用意が終わり、皆が食卓に着く。
祈里は、「私」は、両親と向かい合って座る。
二人から向けられた眼差しに緊張が高まる。
しかし四つの瞳は慈愛に満ちていて、「私」の気持ちの起伏はなだらかになる。
「初めまして私は良子。あなたのお母さんです」
母は娘よりほんの少しだけ小柄だ。髪の毛は祈里より長く肩まで伸ばし、茶色く染めている。
祈里の外見は母を色濃く受け継いだらしい。
彼女は年を経ても美しさは健在で、若い頃はモテにモテただろうという想像が硬くなかった。
化粧は薄めでも美貌は鮮明で、素顔をいじる小細工は無粋だった。
「初めまして僕は賢治。君のお父さんです」
そんな美人のハートを見事射抜いた父も、男性としては控えめな身長だった。
だがしゃきっとした姿勢の良さからか、なぜか存在が大きく感じられた。
物腰もおっとりしていて
五十歳を目前だというのに顔のしわは薄く、若々しさがまだ
さすがに白髪は明らかに増えつつあるが、頭髪は豊かなのであまり気にしていないようだ。
「今あなたはいきなり新しい環境に放り込まれて、とっても戸惑ってると思う」
「僕たちもそうだったからね」
二人の声音からは愛娘の新しい人格、「私」への、優しさをありありと感じ取ることができた。
「時間はまだまだたくさんあるわ。あなたのペースで、私たちと家族になってくれると嬉しい」
「うん。ゆっくりでいいからね」
「…………」
『ほら返事してあげて!』
「……え!?」
頭の中から祈里の声が聞こえると思ったら、あることに気づいた。
視界を
『体の主導権をあなたにあげたの。まだ今は一瞬しか入れ替われないから、急いで答えて上げて!」
「え、あ、うん」
私は生まれて初めて、自分の意志で口を動かす。
「あ、ありがとう、ございます。これから、よ、よろしくお願いします……」
そうしてぺこりと頭を下げて、二人に視線を戻した時には、「私」は再び靄の中にいた。本当に一瞬しか外には出られないようだ。
「ちょっとみんな、何で敬語なの~? 家族じゃん」
「まあまあ。いいからいいから」
「祈里、あまり困らせないの。彼女はまだ君の記憶と知識でしか、僕たちのことを知らないからね。私たちのことは、赤の他人とほぼ同じ感覚なんだよ」
「うーん、そんな感じなのかぁ。……まあ、いっか。」
祈里はとりあえず納得して、「いただきまーす」と食事に取りかかった。
その後、私はそろそろと会話が通う木山家の食卓を眺めていた。
今日は晴れてよかった、おばあちゃんは旅行楽しめそうと祈里が笑うと「そうだね」と母が笑う。
テストが近い、試験範囲が進まないと祈里が嘆くと、父が「祈里はできる子だ信じてる」と真顔で激励する。
確かな幸せがそこにはあった。
ここはとっても暖かい。
そう、思った。
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