ここはとっても暖かい

 祈里は洗面所で顔を洗ってから台所に向かった。


「おはよう!」


 祈里の元気な挨拶が台所に響く。


「おはよう~」

「おはよう」


 その声に出勤前の母がのんびりと、父が穏やかに、いつものように挨拶を返す。

 木山家は四人家族である。

 兄弟はいない。

 家族三人の寵愛ちょうあいを十分に受けた一人っ子。

 父方の祖母は隣の県に住んでいて、同居しているのはお母さんのお母さん。


「おばあちゃんは遅れずに出られた?」

「ばっちり。五時ジャストに颯爽さっそうと車で出て行ったわよ」


 祖母は免許返納の気配が微塵みじんも感じられない71歳。

 大の旅行好きの彼女は今月で既に三回目の遠征で、今日は日帰りバスツアーである。

 きっとまた大量のお土産を持ち帰ってくることだろう。

 お空も彼女の味方しているようで、六月も中旬に差し掛かろうとしているのに、梅雨の匂いはまったく空気に混じらない。


「えー、おほん。二人にはここでご報告があります……!」


 祈里が実にわざとらしく、仰々しく前置きをする。


「へえ」

「何かな」


 二人は一応興味を持ってくれているように見える。

 しかしどうやら目が笑っている。


「ついに新しい『私』が生まれました!!!」


「あらあら」

「よかったね」

「超平凡な反応、どうもありがとう!」


 の誕生にもっと感慨はないんかいと、祈里はぎゃあぎゃあ騒ぐ。


「だってあなた三日前から『来た来た来た、コレキタ!』『生まれる時どんな感じだった?』『何て声をかけたらいいかなぁ』って、思いっきりはしゃいでたじゃない」

「こっちはもう一通り、祈里の感情変化を堪能してしまったよ」

「しまった。勢いを先取りし過ぎて、逆に落ち着かせてしまったパターンか……。ううむ、無念」


 祈里は本当に残念そうに口を尖らせていた。

 どうももう一人の私は、かなりせわしない性格をしているのだと、「私」はそろそろ気が付き始めていた。




 母がフライパンで卵を焼き、父はトーストを、祈里が皿を並べて生野菜を盛り付ける。

 三人の役割分担で素早く朝食の用意が終わり、皆が食卓に着く。

 祈里は、「私」は、両親と向かい合って座る。

 二人から向けられた眼差しに緊張が高まる。

 しかし四つの瞳は慈愛に満ちていて、「私」の気持ちの起伏はなだらかになる。


「初めまして私は良子。あなたのお母さんです」


 母は娘よりほんの少しだけ小柄だ。髪の毛は祈里より長く肩まで伸ばし、茶色く染めている。

 祈里の外見は母を色濃く受け継いだらしい。


 彼女は年を経ても美しさは健在で、若い頃はモテにモテただろうという想像が硬くなかった。

 化粧は薄めでも美貌は鮮明で、素顔をいじる小細工は無粋だった。


「初めまして僕は賢治。君のお父さんです」


 そんな美人のハートを見事射抜いた父も、男性としては控えめな身長だった。

 だがしゃきっとした姿勢の良さからか、なぜか存在が大きく感じられた。

 物腰もおっとりしていて柔和にゅうわな微笑みは、たっぷりの安心感を与えてくれる。


 五十歳を目前だというのに顔のしわは薄く、若々しさがまだせていないのはご近所でも評判になっているそう。

 さすがに白髪は明らかに増えつつあるが、頭髪は豊かなのであまり気にしていないようだ。


「今あなたはいきなり新しい環境に放り込まれて、とっても戸惑ってると思う」

「僕たちもそうだったからね」


 二人の声音からは愛娘の新しい人格、「私」への、優しさをありありと感じ取ることができた。


「時間はまだまだたくさんあるわ。あなたのペースで、私たちと家族になってくれると嬉しい」

「うん。ゆっくりでいいからね」

「…………」

『ほら返事してあげて!』

「……え!?」


 頭の中から祈里の声が聞こえると思ったら、あることに気づいた。

 視界をさえぎっていたもやが消えている。思考も心なしか澄んでいる。


『体のをあなたにあげたの。まだ今は一瞬しか入れ替われないから、急いで答えて上げて!」

「え、あ、うん」


 私は生まれて初めて、自分の意志で口を動かす。


「あ、ありがとう、ございます。これから、よ、よろしくお願いします……」


 そうしてぺこりと頭を下げて、二人に視線を戻した時には、「私」は再び靄の中にいた。本当に一瞬しか外には出られないようだ。


「ちょっとみんな、何で敬語なの~? 家族じゃん」

「まあまあ。いいからいいから」

「祈里、あまり困らせないの。彼女はまだ君の記憶と知識でしか、僕たちのことを知らないからね。私たちのことは、赤の他人とほぼ同じ感覚なんだよ」

「うーん、そんな感じなのかぁ。……まあ、いっか。」


 祈里はとりあえず納得して、「いただきまーす」と食事に取りかかった。


 その後、私はそろそろと会話が通う木山家の食卓を眺めていた。

 今日は晴れてよかった、おばあちゃんは旅行楽しめそうと祈里が笑うと「そうだね」と母が笑う。

 テストが近い、試験範囲が進まないと祈里が嘆くと、父が「祈里はできる子だ信じてる」と真顔で激励する。


 確かな幸せがそこにはあった。

 ここはとっても暖かい。

 そう、思った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る