第7話 1637年 島原で乱が起これば興廃記が規制される

「肥前島原でキリシタンたちによる反乱が起こりました!」

 豊臣家が滅んで長い間平安が続いていた中に突如起こった叛乱。

 その報に若い武士たちは戦慄した。


 1637年10月から翌年の2月まで続いた島原の乱である。


 かつては『圧政と重税による長崎のキリシタンたちの反乱』と言われたこの出来事は、近年の研究では幕府が大名の力を削ぐために改易を繰り返し、職を失った武士たちがキリシタンに力を貸して起こった反乱という説が有力になっている。

 だが、幕府はそのような事実を認めるわけには行かない。

『乱は邪教であるキリシタンが起こしたもので、それゆえに隠れキリシタンはもっと取り締まらなければならない』

 という論調に変わっていった。

 九州から遠く離れた津では出陣命令は出なかったが、同調して反乱が起こらないかと領内は緊張に包まれる。


「まいった事になりましたな」


 留吉が渋い顔をする。

 実態はどうであれ、大友宗麟はキリシタン大名として有名な男である。

 この時勢でキリスト教徒の話を書く場合、善人として書くのは難しいだろう。

 下手に『宗麟公は邪教を一時的に信じたが、それと彼の才能と信仰は別の話である』などと擁護すれば隠れキリシタンとして疑われ、最悪処分対象となるかもしれない。

「豊後の方でもキリシタンの取り締まりは強くなっております。藤堂様の御家でも、キリシタンは処罰されるらしいですな」

 と甚吉も言う。

 実際に1年後の寛永15年(1638)秋、藤堂家では 中島長兵衛という3百石の武士がキリシタンの信仰を捨てなかったため城内式部倉の空地で処刑された。その殉教碑が津城跡地に残っている。

 また1639年には鯰江九右衛門一家四人、職人、足軽等二十三人が塔世橋下流芝原で処刑されている。

 豊後でもキリシタン改めが強化され、8代までさかのぼって信徒だったかを記録されたり、かつての領主がキリシタンだった竹田岡藩では5年おきに検査を実施している。


 日本中がどれだけキリスト教を警戒したのかは想像を絶する。


 そのような中で大友宗麟というキリシタンが目を付けられるのは間違いない。

「せっかく2巻がでたのに、こんな事になるとは…」

 と留吉は頭を抱え

「どうしますか杉谷様?ほとぼりが冷めるまで販売は一度寝かせますか?」

 ついには出版の停止を打診する。

 下手をすれば発禁、彼を賞賛しようものなら杉谷にも隠れキリシタンの容疑がかかるかもしれない。

 だが、当の杉谷は

「どうもせんよ。3巻は内容を少なくして年内に出そう」

 と、何事もないかのようにいう。

「それまでに戦いが終われば良いのですが…」

 と留吉は祈ったが、現実は甘くない。


 島原の乱は混迷を極めた。


 大阪の陣から20年以上経過した反乱に、武士たちは戦を忘れていたのかもしれない。

 板倉重昌率いる九州諸藩による討伐軍は12月10日と20日に総攻撃を行ったが失敗したのである。

『農民の乱に幕府の武士が負けた』

 乱の首謀者はキリシタンという情報操作が裏目に出たらしく、中々終息しない叛乱に民衆は幕府の、さらには将軍の権威にまで疑いが出てきた。

 この事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱の派遣を決定する。


「まるで大野九郎泰基様の戦のようじゃなぁ」

 と杉谷は自分が大友興廃記1巻で記した戦の事を思った。

 あの戦いも、最初は劣勢と思われた大野の軍が勝利したのである。

「本州の政庁は、最初に九州の武士を侮って手痛い敗北を経験する。その後、全力で兵を集中して屈服させる。これは1586年に豊後で豊臣秀吉の家臣、仙石権兵衛たちが島津軍に敗北した状況にも似ているのう」

「すると、今度は徳川様の勝つ番ですかね?」

 と原稿の催促にきた留吉が問う。

「余計な事さえしなければ兵力も兵糧も違うのじゃ。徳川様が勝つのは、まあ間違いない」

 杉谷は断言した。

 おそらく乱を起こした農民とそれに助力した浪人も勝てるとは思っていないだろう。しかし

「だが、死に場所を求めた者たちは強いぞ」

 かつて大戦に参加し、今も鑓奉行の補助を勤める杉谷はそう予想した。

 棲む場所もなく、再士官の道も閉ざされた者たちは生きるための必死さが違うのを杉谷は大阪の陣でいやという程味わった。

「安定した禄をもらい、戦いを経験したこともないような若武者と、負け戦を生き延びて泥水をすすり、草さえも食べるような浪人たちでは戦いに対する気概、そして死への恐怖がまるで違う。油断したり、功を焦って力攻めすれば苦戦は免れないだろう」

「名を求めたり、死に場所を探したり、お侍様は大変なのですねぇ」


 杉谷の予想は当たった。

 援軍に功を奪われることを恐れた板倉重昌は、松平信綱が到着する前に乱を平定しようと翌年の1月1日に強引な攻撃を行った。

 長引く籠城で『城兵の士気は低下しているだろう』という見積もりもあったかもしれない。

 だが浪人たちは想像以上に強かった。 

 無謀な攻撃をしかけた討伐軍は大損害を出して、総大将の板倉は鉄砲の直撃を受けて戦死した。

 このあと本腰を入れた幕府は12万の大軍を集合させ、オランダなどの外国船にも援護射撃を依頼。兵糧攻めも並行して総力を尽くし、乱は終息した。


 このように『キリスト教は危険』と言う空気の中、1538年春に大友興廃記3巻は出版された。


 遅筆作家の年内出版は流石に無理があったのである。


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 ――まあ、締め切りが延びるのはよくあることなので良いのですが、内容はどうなのでしょうか?


 そう諦めの境地に達しながら留吉は新刊に目を通し

「そう来ましたか」

 と納得した。


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 大友興廃記の3巻は『五郎御曹司(宗麟)は親の業を継いだが荒い行儀だったので誰も意見できなかった』と宗麟が『うつけ』のようになった事から始まる。

 家臣たちは、これから大友家がどうなるだろうかと心細く思ったが、その中で吉岡長増が『(宗麟は)9歳の時に神社へ御礼参の時、乳母が『御曹司様が早く成人なされて9国(九州)の主なられますように』と祈ると『9国とは僅かな事だ。祈るなら50や60と何故祈らぬ』と仰られ、お供は『末頼もしい』と感涙した』ゆえに、根は優秀な方であり正しい学問を修めれば立派な方になるだろうと告げる。


 そこで登場する学問が『儒学』である。


 大友興廃記は『家臣から諌められて、義鎮は儒者から儒学を学んで名君となった』という話を展開し『父親の3周忌の席で、菩提寺の和尚が義鎮らに五常の儀を講義した』という話をねじ込んだ。

 五常とは儒学の根幹である仁義礼智信を指す。

 芥川龍之介の地獄変に書かれた『如何に一芸一能に秀でようとも、人として五常を弁えねば、地獄に堕ちる外はない』の五常である。

 

 儒学とは『臣が君を貴び、子が親に孝行し、弟が兄に従い、老いを敬う順義の事』など下剋上を堅く禁止する思想であり、幕府が推奨を始めた学問だ。

 つまり杉谷は幕府が民衆に読んで聞かせたくなるような話を載せて当局に媚を売ったのである。

 おまけに『才能はあるが道を外れた若い君主が家臣の諌めで名君となる』というマイナスからプラスに成長する話は民衆の好む王道。

 死んで信長を諌めた平手政秀のような人物がいないので、老中たちが書状で諌めることにしているが、基本は外れていない。

「宗麟公の宗門に関する問題は、本書の重大事じゃったからな。このようにしようという予定ではあったのじゃ」

 と杉谷は言う。

 大友興廃記の主人公、大友宗麟はキリシタンである。

 当然幕府からの監視が付くだろうし、下手をすれば自分もキリシタンとしてとらえられるかもしれない。

 だが、若いころは熱心に仏教を勉強し、1562年に仏門に入って宗麟と名乗っている。

 そこで将軍 家光が好んでいる儒教を特別に持ち上げ、武士が読むべき教科書のような内容に偽装したのである。


 さらには友人からの推薦文として以下の序文を掲載した

『前の豊後太守、大友義鎮(宗麟)公は能直から21世の後君で庶民に厚く、勇は右に出る者なく、民は水が下るように帰服したが義統公の代で国を失った。

 伊勢の杉谷宗重公は大神家の家臣で、大神家は大友家に従ったので両君の事績を編纂し大友興廃記と名付けた。

 その内容は懐しく、そして憂いを消す勧善懲悪(の記)であり、これを読んだものの道標(みちしるべ)となるべき内容である。

 杉谷宗重公の人と為りを顧みると文武を好み色を好み、詩・禅に熟し熟睡し、儒者・禅者として古きを学んだ(人である)。 寛永14(1637)年 夏 薤室』


 この薤室なる人物が何物かはわからない。

 仏教では禁葷食として忌避される薤(らっきょう)を名につけているので連歌師の雅号かもしれない。

 また『詩・禅に熟し熟睡し』と冗談を書いているのを見ると、相当親しい人間であるように見える。

 このような人間が『この本の作者は儒者・禅者として古きを学んだ人である』と杉谷の紹介をしている事で、

 キリシタンとは無関係の人畜無害な人間だと宣伝する意図があったものと思われる。

 

「本当に杉谷様は、難題に対しては姑息に策を練りますね」


 と留吉が呆れながら感心した。

 実際に刊行されたのは1538年だが、島原の乱よりも前から推薦文を貰っていたという体で読者に儒教信者と印象付ける事に成功した杉谷の本は、儒学の入門書的存在として3巻だけ借りる者が少しだけいた。

 興廃記も当局の検閲を受けることなく続刊された。


 杉谷の目論見は成功したのである。


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 翌年の1639年に刊行された4巻では、大友家にゆかりのある神変話として万寿寺を取り上げている。

 その話の大筋はこのようなものである。


『仏様を信じていた者が年貢を船で運んでいると海賊に襲われた。

 海賊は大勢で前後左右から押しかかり熊手を打ちかけてきたので、刀で切り払ったが防ぎきれない。

 その時、見覚えのない大の法師が一人、帆柱を取って扇で扇ぐように海賊の熊手をビシビシと打ち折り、矢も撃ち落とし、近くの船腹を突き破った。

 海賊は潮に漂い海に沈み、残った海賊も悉く浦々へ引き帰した。

 戦闘が終わると法師は忽然と姿を消し、皆は「仏神三宝の助けだ」と喜び年貢は無事納められた。

 このことを寺に話すと

「当寺の仁王に『讃州汐分のなにがし』と舟に射られた物と同じ矢が多数射られていた。神変に矢が当たるはずもないが奇特を人に見せるため(にワザと当たったの)だろう」

 と言った』


 このように『仏教を信じる者には加護があり、本書はキリシタンとは一切関係がありません』という逸話を最初に掲載している。

 さらには大友家に謀反を起こして処罰された小原・秋月という領主の話を掲載して下克上の末路を書き『上に逆らうのはこれだけ悪い事なのだ』と説いた。

 とどめに『宗麟は論語の教えを守り、13箇条の掟を定めた』と儒教の信望者宗麟の姿をこれでもかと書き付けもしている。


 なお史実の宗麟は禅宗を学んでいたが儒学をそこまで信望していたという記述はない。


「ここまで書けば、この本がキリシタンと関わりがあるとは誰も思うまい」

 と杉谷はやりきった顔で言った。

 発禁を免れるためなら土下座でもしそうですな、この方と思いながら

「まあ、その後で『万民恐怖』と恐れられた6代の足利(義教)様を出して『悪い政治を行うと、家臣から殺されるのも当然である』なんて話を書かなければ満点だったのですがねぇ」

 と留吉は言う。

 島原の乱が幕府の改易による結果だったのは、誰の目にも明らかだった。

 なので『あまりに非道な政治を続けていると、家臣から殺害された将軍がいましたなぁ』と遠回しに、幕府の政治姿勢を批判しているともいえる。

 全力で媚びる所は媚び、批判すべきは批判する。

 そんな反骨精神としたたかさが杉谷にはあった。

 

 この内容が功を奏したのか、この年にキリシタンの三百石取りの武士 鯰江九右衛門らが逆さ磔にかけられ、残る者は塔世川の渡り瀬で打ち首になったが、杉谷には何の尋問もなかった。

 キリシタンへの風当たりは強いが、杉谷は 安心して執筆に打ち込めたのである。


 …そう思っていた時だった。


「杉谷という者はおるか?」


 老年の小柄な男性が訪ねてきたのは。 

「杉谷はワシですが、どちら様で?」

「ワシは、この本があまりにも出鱈目ゆえ抗議に来たものじゃ」


 その手には興廃記の4巻が握られていた。

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