第3話 同年 大命を授かる
「よく書けているではないか」
さわやかな風が吹く縁側で、佐伯惟重は自分の祖先が『勝手に』書かれた栂牟礼実録を読みながら言った。
その横で杉谷はただただ冷や汗を流しながら、相づちともつかぬ返答をしていた。
佐伯は祖先が『蛇神』と自称するだけあって、鋭利な刃を思わせる涼やかで整った顔立ちをしている。
そんな美男子が無表情で己の書いた本を検分しているのだ。
地獄の閻魔に取り調べを受けるよりも、肝が冷える思いだった。
「当家も家伝書を書いてはおるが、ここまで細かく書かれてはおらぬ」
――それは想像で細部をねつ造したからでございます。
佐伯の一言一言が、杉谷には刃を突き立てられたように感じた。
佐伯と杉谷は同じ藤堂の家臣だが、佐伯は4500石の半大名。杉谷は200石の槍奉行である親戚に世話になっている家臣だ。
家老が下男の家に押しかけて来たような様なものである。
――どこで自分の事が露見した?
杉谷は何故 佐伯様が自分の家にいるのか考えていた。
一応『橘某宗重』という筆名で本書を書いていたので他人にはわかるはずがない。
さらに底本を写させ、筆跡で己が分かるようにはしなかったはずだ。
などと考えていると
「しかし、これでは畿内や江戸で人気が出るには難しいだろうの」
と佐伯は言う。
「はっ!某の実力不足でございますれば、誠に面目次第もございませぬ!」
勝手に旧主の家を商売に利用したのだ。どのような罰を与えられても文句は言えない。
そんな思いで絞り出した言葉だったが、佐伯は気にした風もなく話題を変えた。
「杉谷よ、お主は江戸に出た事はあるか?」
「い、いえ!
思わぬ問いに慌てて答える。
「ワシは殿のお供で江戸に出向いた事があるから少し知っておるのだがな」
一体何を言いだすのか予測もできず、ごくり と唾を飲みながら次の言葉に耳を傾ける。
「江戸は人が多い」
――それ位はわかります。
そう杉谷は心の中でずっこけた。
しかし、佐伯は表情を変えずに続けて
「この伊勢も人が多く集まるが、江戸は伊勢参りの旅人の百倍の人が常に街道を歩いておる」
『伊勢に行きたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも・・・』
と伊勢音頭で歌われる伊勢神宮。
その街道は大行列をつくり人の流れは留まる事を知らない。
それよりも多くの人間がいる場所がいる。
そんな想像もつかない場所を自分は見たと佐伯様は言っているのだと気付いた。
「同じ物を売っても、江戸と伊勢では全く人数が違う。そうワシは初めて実感したものじゃ」
佐伯は蛇を思わせる端麗で涼しげな顔で言葉を紡ぐ。
本を書くなら、それだけの人数を想定して書く位の心構えをしろという事なのだろう。
杉谷は己の想像力の限界を教えられた気がした。
「信長記が売れたのも、それだけの人間が聞いたことがある織田右府(信長)様の事跡を知りたいと思うためじゃ。ゆえに――」
「――多くの者に読まれるには、残念ながら佐伯の家は小さ過ぎる。」
「そのような事がありましょうか!佐伯と言えば豊後の、いえ九州の名門!」
初めて杉谷は声を荒げた。佐伯と言えば伝説の一族である。それを知らないものなどいるはずもない。
世辞ではなく杉谷は本気でそう信じていた。しかし
「ワシはこれでも多くの領民と話す機会があるのでな、人間の嗜好には少しだけ詳しいつもりじゃ」
佐伯にとって伊勢は見知らぬ土地故に領民の視察をすることが多い。
そこで色々な話を聞くのだと言う。
「たとえば、佐伯家は鎌倉よりの名門 大友家よりも歴史がある」
そうだ。豊後佐伯氏といえば歴史ある名門中の名門。広大な佐伯庄と同じ名字なのだから知名度は高いだろう。
そう杉谷は思っていた。ところが
「じゃが伊勢の民は大友様の名は知っていても佐伯の名など誰も知らぬ」
「まさか!」
そんな事があるわけがない。と思ったが佐伯の目を見る限り事実のようだった。
現代で例えるなら、地元で人気のある菓子や食べ物が他県にいくと全く売られておらずローカル商品だったと気がついたような驚きだった。
いつの時代でも歴史に興味のある者は少数なのだ。
「ところが、平家物語に登場する緒方三郎公の末裔だと言えば一部の者は態度が変わる」
信長記が新興の物語だとすれば平家物語は古典文学に近い。
それゆえにある程度の教養がある者は暇つぶしに読むこともあるし、そのなかでも一際異彩を放つ『おそろしきもの』の話は印象にのこっていたのだろう。
「豊後に興味の無い者でも名前だけは知っておる。これが軍記物、いや書籍の力なのじゃろうな」
紙をめくりながら佐伯は言う。
杉谷にとって、他国に来て初めて知る知名度の落差だった。
「さて、ここからが本題なのじゃが…」
そう言うと佐伯は少し姿勢を正して杉谷を見る。
「我が佐伯家は豊後佐伯庄を離れて40年以上が経とうとしておる」
1593年に大友家が豊後から改易されてからそれだけの時が経過した。
その間に若き当主だった佐伯惟定は天寿を迎え、その息子である佐伯惟重も代替わりの時期に来ている。
「このままでは、わが家の記録は失われ、かつての佐伯領主としての面影は消えるかもしれぬ」
それゆえに家譜を作ろうとしているのだという。
「どこかで聞いた話ですな」
と留吉が言う。
実はこのころ水面下で各大名の系図を纏めようという話が出ていた。
1641年に将軍家光の命令で進められた寛永諸家系図伝と呼ばれる一大事業である。
「じゃが、系図は一家相伝の重宝。家伝書も限られた者だけが読むものじゃ。これが高橋家のように火事などで消滅してしまうと由緒自体が分からなくなるかもしれぬ」
九州の名門、高橋家は高橋紹運の代に島津家との戦火で由緒書きや祖先の系図が消失してしまったと聞く。
他にも吉弘家、戸次家、吉岡家。豊後の家老たちの家も重要書類は戦火で焼けて今に残っていない。
「戸次……今の立花家などは大名に返り咲いたものの家の由緒が失われて誰も憶えておらんという。家は残っても祖先の偉業が分からぬというのでは本末転倒と言うものじゃろう」
まったく嘆かわしい。というように佐伯はかぶりをふる。
「当家は幸いにして系図や由緒書きは残っているが、再び戦乱となればいつまた消えるとも限らぬ」
言葉を切ると再び佐伯は
「そこで、思いついたのが平家物語じゃ」
先祖たちの活躍を書いた本を世に残せば、仮に火事で系図が燃えたとしてもその本を読めば系図や由緒が復元できるだろう。
そして土地を離れた一族が、どのような人物だったのかを広く世に知られればかつての領民の子孫も佐伯氏を真の領主と思うかもしれない。
――仮に再び戦乱が起こった時に旧領に返り咲けるかもしれない。
最後のもくろみは口には出さなかったが、そのような未来への布石となる本が欲しいのだと言う。
「ところが、そこの商人によれば、我が家の物語ではやはりと言おうか、そこまで人気が出らぬとの事じゃ」
――お前か。
ここでようやく杉谷は自分の正体を暴露した男に目を向けた。
まあ一国の家老に頼まれて黙る義理もないだろうが、それはそれ、これはこれである。
「ワシが初め問うた時には『このような話では、古臭い平家物語にも太刀打ちできませぬ』と言われてな」
もう少し無礼であったなら、何らかの処罰を与える所であった。
と笑いながら言う佐伯に留吉は土下座して非礼を詫びていた。
それは何か問われれば断れないだろう。何と言う無礼を言ったのだ。この男は。
杉谷は呆れながら留吉の首が繋がっている事に安堵した。
「つまり、大衆は一地方の領主よりも大きな集団の動き、できれば九州全土くらいの規模でないと読みはせぬだろう。しかし読まれるようになれば、その名は400年過ぎても多くの民の記憶に残る」
平家物語は鎌倉幕府ができた頃の話である。
しかも最初は畿内や関東が舞台。杉谷は一度も見たことのない土地の話だ。
だが、そこに登場する武士の名や事跡は知っている。
言われてみて杉谷はそのすごさに気が付いた。
「佐伯の名では知名度が足りぬ。ならば大樹、大友の名を借りて書けば如何であろうか?」
――確かに。
杉谷は思った。平家物語は源氏と平氏の物語だ。
その大きな勢力の中で、様々な群雄が覇を競い、名を今に残している。ならば、大友と言う400年続いた名門の名を使い、佐伯、そして杉谷の名を世に残す事は簡単な事ではないだろうか?
井の中の蛙が大海を見せられたように、杉谷は世界が広がるのを感じた。
小さな世界で名を売ろうとしていた男が、初めて天下を、いや人類を視野に入れた瞬間だった。
「ワシも我が家の家譜が末長く読まれれば良いと思うておる。表立って合力はできぬが杉谷よ、それが出来るのはお主だけだと思う」
そう言うと佐伯は杉谷に向き直り言った。
「そこでじゃ、杉谷家、佐伯家。それらの歴史を大友家を軸に書いては貰えぬか?」
嫌だ。
杉谷は心の中で思った。
好きな文を書く事なら、苦労ではないだろうと思われるだろう。
だが、これは今で言うなら職場で「絵が描けます」「パソコンが使えます」と言ってしまったばかりによけいな仕事を押しつけられたようなものである。
趣味でやるのは自由に出来るが、仕事となると面倒この上ないのが文作だ。
しかも細々とやっていた趣味を知り合いに読まれるなど拷問に近い。
蛙は所詮 淡水の生き物。海に落ちれば死ぬのである。
――なんとしても断らねば。
そう思ったが上手い言い訳が思いつかない。
杉谷家と佐伯家は今でこそ同じ藤堂家の家臣だが、元々佐伯の下に付いて藤堂家に使えていたのを佐伯惟重の父 惟定が藤堂高虎に推挙したため家臣に抜擢されたという経緯がある。
杉谷家が200石の知行を与えられたのは佐伯様の尽力に他ならない。
杉谷家にとって佐伯家は旧主というだけではない繋がりがあったのだ。
「しかし家臣とはいえ、大友家の事を書いても良いのでしょうか?」
最後の抵抗として杉谷が尋ねれば、
「大友家はすでに滅亡しておる。構うことはあるまい。」
佐伯は何事もなく言う。
大友家は1617年に直系子孫が断絶し、家が滅亡している。
なので「むしろ消えた家の事を書くのは追善供養になるではないか」と諭された。
「しかし、親族の方々がおられるではないですか」
直系に限らなければ大友家の親族は多い。
往事には80の分家が存在し、筑後柳川の立花家や周防山口の一尾家など現在でも健在である。
下手な事を書けば彼らから抗議が来るかもしれない。しかし
「心配するでない。抗議が来ても我らの家は大友に謝られこそすれ、恨まれる筋合いはない」
佐伯は言った。
豊後大友家は1593年の高麗出兵の際に豊臣秀吉から改易を命じられた。
そのため家臣であった佐伯家も領地を取り上げられ、一時期は浪人のような状態であった。
このような苦労をさせられた身としては大友家への恩は十分果たしたというのだろう。
それに佐伯家は元々豊後にいた家で、鎌倉幕府の時代に大友家から侵略されて臣従させられた家だ。
『忖度の必要はない』と佐伯は言う。
杉谷家が藤堂家の家臣になれたのは佐伯家の推挙によるものだし、家の格が両家では異なる。
杉谷に逆らえるはずもなかった。
そんな事は佐伯も重々承知である。
――だが、嫌々書かれてもロクなモノは出来るまい。
そう思った佐伯は最後のダメ押しを口にした。
「だとすれば、お主は史記の司馬遷、いや三国志の羅漢中のような作家先生となるな」
何気なく佐伯は言った。
「なあ、先生」
目上の人からそういわれるのは、冗談であってもかなり気分がよい。
身分に厳しい時代ならなおさらだ。
まあ、この時代『先生』という言葉が敬称であったのかは甚だ疑問ではあるが、他に使いやすい言葉がないので便宜的に先生を敬称とする。
その反応を見て佐伯はたたみかけるように
「それに、大友家はもう滅んでしもうた。これは平家や小弐と同じ事じゃ。この二家はどちらも戦に敗れて消えた家という点は同じ。じゃが両者には大きな違いがある。何かわかるか?」
話の流れから杉谷は答えを推測した。
「名が残っているか、残っていないか。ですか?」
「その通りじゃ」
九州の名門 少弐氏はその最後がどうなったのか未だにはっきりとしない。
佐賀の領主 龍造寺に攻められ、領地を失った事まではわかる。
だが、その子孫がいつまで抵抗していたのかさえはっきりしないのだ。
「平家はその過程が物語となって幼子でも名を知られておる。その悲劇的な最後を知らぬものは日の本にはおらぬだろう。同じ滅ぶにしても、このように違うのはなぜじゃ?」
「物語として語り継がれたかそうでないか、ですな」
「そうじゃ。さらば、大友家の記録を残しておけば、その次席に名を連ねる佐伯の名は長く残るじゃろう」
先ほども述べた話を繰り返し、分かりやすい問いを並べて思考を誘導させる。
詐欺師や営業が良く使う手口である。
「それ故に、我が祖先の事を記したその本は、世間に佐伯の家を残すよすがとなるであろうし、ふがいないワシが佐伯家のためにできた唯一の事となろう」
――そのような大役は、自分にとって荷が重過ぎまする。
そう言おうとした杉谷の言葉を遮るように佐伯は
「それに、ワシはどうやら長くはないらしい」
と薬包を見せた。
「近頃、体中の血が抜けたかのように意識が薄れ、手足が冷たくなる事が増えた」
息子も病弱であるし、下手をすれば佐伯の血は息子の代で途絶えるかもしれない。と言う。
「ゆえに、宗重よ」
そういうと、若い佐伯当主は年老いた家臣に頭を下げて命じた。
「我が佐伯、そして父が仕えた大友の事績が万年の後も世に残るよう、どのような荒唐無稽な話でもよい。軍記として記し、世に広めてくれぬか?ワシは不肖の身ゆえこの世で何事もなせぬ。出来る事と言えば有為の士を見つけ出し、このように頼む事だけじゃ」
このとき老いぼれた杉谷と若い佐伯は、同志である事を感じた。
世に生まれ何事も成せず、何事も残せず、ただぼんやりと消えていく運命に2人ともあらがおうとしていた。
「杉谷家、佐伯家、大友家。これらの家は消えるかもしれぬが、人の記憶には残せるかもしれぬ」
そういうと深々と頭を下げて
「人の命は有限でも、人の思いは無限じゃ。我らと我らにつながる祖先を後世に残せるのは我が家ではお主くらいしかおらん」
「頼む」
再び頭を下げられた。
思いもかけない当主からの依頼に杉谷は身震いした。
今まで色のなかった世界に明確な火が灯ったのを感じた。
それを見て佐伯はトドメとばかりに「それに」と前置きし
「これは源為朝や坂上田村麻呂などの猛将や、大友氏泰様のような守護大名でもできることではない。お主の文才と筆でしか出来ぬ大業じゃ。大成すれば10万の大軍を討ち負かす戦功にも勝る功績じゃ」
と言った。
伝説の武将よりも功績で勝る。
武士にとってこれ以上の殺し文句があるだろうか?
これは杉谷にとって意表を突かれた。
戦乱が終わり市井で朽ちる事しかできないはずの自分が世の英雄と肩を並べる。いや、それを超えるような大業を成して家名を残すにはそれしか方法はないだろう。
佐伯も杉谷も心の底からそれを信じた訳ではない。
だが、まったく可能性がないのと光明がみえたのでは天と地ほどの差がある。
聞く方も言う方も熱病に侵されたかの如く、きらめく未来へと思いをはせていた。
これは自分だけに任された大役。
自分以外に大友家の記録を後世に残せる者は存在しない。
その大役に身ぶるいする思いだった。
「この杉谷、身命を賭してこの大業を成し遂げてご覧にみせます!」
そう言い切った杉谷の目に迷いは無かった。
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