第6話 禁欲という試練
カリギュラ効果、というものがある。
人間というのは実に天邪鬼な生き物だ。命令されるとそれに反発したくなり、禁止されるとその禁を破りたくなってしまう。
後者の方を表したのがこのカリギュラ効果である。
例えば、ダイエットをしようと決意した直後に甘いものを食べたくなったり、ゲームを止めようと決めてすぐに少しだけ、なんて考えたり。
「やーくんおはよ……って、どうしたのやーくん!? 目の下にすっごいクマだよ!?」
「おはよ、優香……ちょっと寝不足でな」
昨晩は一睡もできなかった。打ち込まれた興奮剤と強要された禁欲によって、オレの中で欲望の衝動が一晩中荒れ狂っていたからだ。悶々とした思いは如何ともし難く、寝付くことが出来なかった。
負けヒロインが欲しくてしょうがない。負けヒロインの摂取がしたい。
そんな思いを内に抱えていたオレは、なんとかそれを解消しようと漫画や小説に手を出そうとした。
しかし、できなかった。
それらを手に取ろうとした途端、腕の力が抜けて本を掴むことが出来なかったのだ。
興奮剤と同時に打たれた行動抑制剤、という薬品のせいだろう。イシュカーン、なんてことをしてくれたのか。
「まったく、寝ないで何してたの……大丈夫? 学校休んだ方がいいんじゃない?」
駆け寄ってきた優香が顔を覗き込んできた。どうやらオレの顔色は相当に悪いらしい。そのせいで家を出てすぐ遭遇した優香に心配をかけてしまった。
くっ、オレが禁欲をしているばっかりに……。
「平気だって、授業中寝れば問題ないだろ」
「良くないよ! 授業はしっかり受けなくちゃ! それにどうせ寝るんなら学校休んだ方が絶対いいって!」
彼女を心配させ続けるのはまずいと、オレは努めて明るい声を出した。
負けヒロインに対する想いを我慢することは、正直初めての経験だ。負けヒロインを愛するようになってこれまで、フィクションや現実でオレは想いを昇華させ続けてきた。
正直、耐えられないというほどではないが、かなりキツい。
『変態というのは普通、その特殊な性癖故に欲望の開放を日常的に行うことは困難です。故に抑圧された欲望がリビドーパワーとなり、私達のような強力な変態を生むことになります』
イシュカーンはそう言っていた。つまり、多くの変態は今オレが感じているような衝動を内に秘めたまま日常を送っているってわけだ。
こんなものに耐えながら……一週間や一ヶ月等期間が定められているならともかく、日常的ともなるとオレには到底無理だと思う。
幹部たちのような一流の変態に対する畏敬の念がまた深くなってしまった。
『貴方は幹部となったのです。であれば、変態としての格を部下達に示す必要があります。ですからリビドーパワーを高めるために、組織の目的と一見反する禁欲を行うべきなのです。それに、禁欲後の開放はたまりませんよ。禁欲に何度も成功している私が言うのです、信用してください』
ともイシュカーンは言っていた。何度も禁欲しているとは流石だ、何度もダイエットに成功しているやつ並に信用できそう。
同胞に畏敬と猜疑を同時に抱いていると、オレの目の前に優香の顔があった。
ほぼゼロ距離である。
「ん-……」
「や、近い近い」
頭に頭をくっつけようと迫る優香から距離を取ると、彼女は不満げに頬を膨らました。
「もう、逃げないでよ。おでこで熱を測るだけなんだから」
「何歳だよお前、子どもじゃあるまいし。それに平気だ、熱はないと思う」
興奮剤のせいで少しだけ火照りは感じるが。
遅刻するぞ、とオレは学校に向かって歩き出す。それに追従するように優香もついてきた。
オレの対応が不満だったのか、文句を言いながらまとわりついてくる優香を適当にあしらいながら歩いていると、
「この匂い……負けヒロインの匂いだ」
「は?」
微かに朝の空気に交じって、オレの鼻に負けヒロインの匂いが届いた。
負けヒロインの匂い、とはその名の通り負けヒロインの匂いである。
オレたち変態は、自分の性癖に関する事象を何らかの感覚で捉えることが出来る。それは色であったり音であったり、時には温度であったり。性癖と変態によって感じ方は様々だ。
オレは負けヒロインの存在を匂いで感知することが出来る。
この香りからすると、負けヒロインは近い。
「行かなくては」
「えっ、ちょっ、ちょっと待ってよやーくん!?」
いつも以上のリビドーに突き動かされたのか、気が付くとオレは、匂いに誘われるように優香を置いて駆けだしていた。
景色が背後に流れていくのに合わせ、匂いはどんどん強くなる。そしてやがて――
――見つけた。
匂いを発している少女は同じ学校の生徒だった。走るオレの姿を驚いたような表情を浮かべて見ている。
彼女は途轍もない美人だった。
真っすぐな黒髪、可愛いというよりも美人な顔立ち、身長は優香よりも少し高め。スラリとした立ち姿はまるでギリシャなんかで彫られた像を思わせる。
これだけの美人がどうして負けヒロインの気配を……?
そう疑問が頭に過ぎったが、今のオレにとっては些細な問題だ。すぐさま負けヒロインの摂取を行わなくては。
まずは仲良くなって意中の相手を聞き出すところからだな。
彼女に話しかけるべく、オレは足を止めようとペースを落とす。
いや、落とそうとした。
「っ!?」
しかしながら、何故だかオレの足は止まろうとはしなかった。それどころかさらに速度を上げ、彼女を通り過ぎようとしている。
ど、どうなっているんだこの足はっ!?
「っぁ、かはっ!?」
ならばとそのまま声をかけようとしたが、声が出ない。苦し気な呼吸音だけが口から洩れた。
これは喉が……喉が舌で塞がれている!?
ひょっとして、オレが負けヒロインの気配を漂わせるこの子に関わろうとしたから、か?
そうか、これも行動抑制剤の効果なのか! 昨晩のことといい、本当にオレの行動は薬によって制御されてしまっているのだ!
これだけの美人の負けヒロインは本当に貴重だ。そんな彼女の恋路を間近で見られないのだと思うと、悔しくて涙が出てきた。
しかしオレの足は止まらない。学校までの道をただひたすらに直進する。
やがて視界の端から少女が消え、学校が見え始めてくるとようやく体が自由になった。
近くの塀にもたれかかり、荒くなった息を整える。早鐘を打つ心臓のビートは走ってきたことだけが理由ではないだろう。
「はぁはぁ……イシュカーン、恨むぞ……」
あれだけの美人。想いを募らせ懸命に努力し、しかしながらその恋が実らない。それがどれほど切ないかと考えるだけで胸の内が熱くなる。そして、それをオレが見ることが出来ないと思うと身が引き裂かれるように苦しい。
セイヘーキにはこれまで長い間所属してきた。だからこそ愛着も恩義もある。幹部が部下に示しを付けるため、より強大な変態でなくてはならないというのも分かる。
でもよ、悪の組織セイヘーキの目的は純粋な欲望の開放なんだぜ!? 大前提としての目的を果たさず禁欲だなんて、やっぱりどこかおかしくないだろうか!?
こんなことになるのだったら、幹部への昇進なんて断った方が良かったかもな……給与に見合わないぜ……
オレは人目も憚らず、項垂れてしまうのだった。
登校している最中、突然背後から凄い勢いで走ってくる足音が聞こえ、驚いた私は思わず振り返った。
走ってきているのは、私も通う学校の男子生徒だった。見覚えはない。別学年か、あるいは同学年でも別のクラスの生徒だろう。遠目からでも背が高いと分かる彼は、こちらを見ながら何か口を動かしている。しかし声は聞こえない。
私に何か用事でもあるのでしょうか? ひょっとして、落とし物でも拾ってくれたとか?
一生懸命に走ってくる彼は、しかしどうして距離が縮まったというのに声が聞こえない。あんなにも口を動かしているのに。
そして彼は、私の傍をそのまま通り過ぎ、走って行ってしまった。
……もしかして、私を見ていたわけでは、ない? 勘違い?
そう思うと、少し顔が熱くなった。
私は、それなりに外見に優れている方であるという自覚がある。普段から男女問わず私に視線が集まることが珍しくない。
だからだろうか、彼の視線がこちらを向いていると勘違いしてしまったのは。
彼は私から離れても走るのを止めない。
おそらく、彼はただ急いで学校に向かっていただけなのだろう。荒い息の吐く口を、私は何か言っていると誤解してしまったのだ。
私って、もしかして自意識過剰、なのでしょうか……
だとしたら、ちょっぴりへこむかもしれない。
「はぁ……はぁ……もー!」
「……優香?」
「はぁ……あれ、あーちゃんだ」
そこに彼を追うように、ぜぇはぁと激しい呼吸音と共に一人の少女が駆けてきた。
彼女は愛恋寺優香。同じ学校同じ学年に通う親友であり、とある秘密を私と共有する仲間でもある、ふわふわとした明るい髪が可愛らしい女の子だ。
「どうしたのですか、こんな朝から」
「聞いてよあーちゃん! 一緒に登校してたやーくんが急に走り出して先に行っちゃったの! もー、訳が分かんないよ!」
あーちゃん、というのは私こと恋ヶ埼愛のことである。このあーちゃん、という呼び方をするのは今のところ彼女だけだ。
仲が良い、という感じがして私としては気に入っているのだが、彼女以外からは恋ヶ埼さん、と他人行儀な呼ばれ方の場合がほとんどである。ちょっと悲しい。
「やーくん、というと、あの?」
「うん、幼馴染の。ねえあーちゃん、走ってくる男の子見なかった?」
なるほど、先ほどの男子生徒がいつも優香が話す、件のやーくんでしたか。
たしか名前は……馬毛杉矢太郎くん、でしたっけ。
「それなら走って行ってしまいましたよ」
「ありがと!」
そういうと、優香は走って行ってしまった。矢太郎くんを追いかけていったのだろう。
「……いいなぁ」
彼女が離れて、思わずそう独り言が漏れ出し慌てて口をふさいだ。
慌てて辺りを見回す。よかった、声が聞こえるほど近くには誰もいない。私はホッと胸を撫でおろした。
私には、異性の友人がいない。軽く話すだけの浅い付き合いをする男の子ならいるのだが、深く関わるとなると、なかなかどうしてこれが難しい。幼い頃に両親の仕事の都合で何度も転校を繰り返してきたために、今まで深い付き合いをした経験が少なく、同性はともかく異性ともなると親交を深めるのが不得手なのかもしれない。
だからこそ、つい羨ましく思ってしまうのだ。彼ら彼女らのような、幼馴染という関係性を。
それに、男の子の友達が近くにいると、恋愛なんかもとても捗りそうだ。高校生という時期に、異性の友人というのは貴重なのである。
私も年頃の女の子であるから、恋愛事に関する関心は人並み程度には持っている。しかしながら、現状相手がいない。男の子の友人すらいないのだから、当然だ。
優香と矢太郎くんは、そのところどうなのだろうか。聞いてみたことがなかったなと思い至り、心のメモ帳に尋ねてみようと書き綴った。
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