第20話 フランツは、オリオンと対話する
フランツが魔女の家に戻ったのは、日が落ちたあとのこと。
大雨はとっくに止んで銀色の月が見え隠れしている。
すべての水を出し切った雲ひとつない綺麗な空からゆっくりと降りてきて、陰気な表情で玄関の扉を開ける。
「酷い格好をしているね」
食卓でオリオンが待っていた。
フランツはずぶ濡れのままだったが、目をまたたかせた。
「師匠、どうして……?」
「今日はどうも研究室にこもる気持ちになれなくてね」
食事の時以外は決して出てこない師匠が、暇を持て余している。
オリオンが指を軽く振った途端にポカポカとした陽気に包まれた。服は湿っていて、体も冷え切っていたが、夏のような温かい風に包まれて力が抜けた。
「これで、少しは寒さもマシになったかな」
「ごめんなさい……」
「いろいろあったからね。事情は深くは聞かないけれど、ただの病気はボクの専門外だから気をつけてほしい」
フランツは、ゆっくり立ち上がった師匠の顔をまともに見られなかった。
どんな顔を見せればいいのか分からなかった。しかしうつむいていると、急に、どこからともなく降ってきた毛布に包まれる。
「わっ!?」
「それを羽織ってついてきたまえ」
毛布の中で蠢いているフランツをよそに、オリオンは玄関を出る。
言われた通りに羽織って後に続く。すると玄関すぐ先で、フランツの乗ってきたホウキを手にして待っていた。
「こんな夜中にどこかに行くの?」
「遠出はしないさ。ボクの前に乗りたまえ」
「え……乗れませんよ」
昔のように、一つのホウキに乗れと言っているのだろうか。
昔は腕の隙間にすっぽり収まるくらいのサイズで乗ることができたものの、体格が大きくなった今では無理だ。乗れる場所はない。
仕方なく別なホウキを取りに行こうとしたが、その前にフランツの腕を握りしめて、魔法の力で強引に浮かび上がった。
「ちょっと師匠!? 危ないですって!」
「暴れるほうが落ちてしまうよ」
何の支えもなく浮かんで慌てたが、屋根の上まで浮かんだ時点で、手を離してもらえた。
こ、怖かった。
ホウキにまたがらずに空を飛ぶのは心臓に悪い。
毛布を羽織りながら息をつく。
オリオンも座りやすそうな位置に降りてきて、隣の段差に腰掛けた。
「キミに話したいことがあったんだ」
「でもここは夜中で寒いよ。師匠は大丈夫なの?」
「大丈夫さ。それより見上げてごらん、ここは綺麗でいいところなんだ」
楽な体制で座ったオリオンは屋根の上に並んで空を見上げた。
毛布を羽織ったフランツも一緒に見上げてみる。
雲はほとんどなくなっている。
白に輝く綺麗な星空が、無限の遥か遠くまで広がっていた。
「ほら。さっきまでの大雨が嘘のような綺麗な天気だ」
「それは確かにそうですけど……」
「この場所に家を建てることを決めたのも、たまにこの景色が見たかったからなんだ。しばらく空を見上げていなかったから忘れていたよ」
フランツは夜風を毛布で遮りながら、師匠が話し出すのを待った。
屋根から景色を見たのは初めてだ。
呼び出されたのは、昨日の件についての話をするためだろう。
しばらく間を置いた後に言う。
「実はキミのいない間に、一昨日の客が怒鳴り込んできてね」
「え……?」
「覚えているかな。ボクが惚れ薬を売り渡した、竜に乗った商人のことさ」
一昨日の話だ、もちろん覚えている。
惚れ薬を買いに来た成金商人のことだろう。
買いに来るならともかく、買った物に物申すためにわざわざ怒鳴り込んできたとなると穏やかではない。
「大丈夫だったの師匠っ!?」
「見ての通り何の問題もないよ」
ひらひらと袖を振ってみせる師匠の余裕を見て、ほっとした。
今までも何度か襲われたことはあったが、悠々と切り抜ける姿を何度も見ている。熟練した魔法が使える師匠が負けるところなんて想像できない。
それでも不安には思ったし、何事もなかったことに安心してしまう。
「よかった。でもあの人、やっぱり失敗したんだね」
「キミの言った通りだったよ。意中の相手に薬を盛ったあと、強引に肉体関係を迫ったらしい」
「うわぁ……」
一体、何をどうしたら、そんな発想に到るのだろう。
フランツが想像した以上に醜悪だった。
そもそも強引に関係を迫る人間を好きになるはずがなく、成功確率はゼロだ。
嫌悪感を抱かせるような行為に走った時点でおしまいだった。
「失敗して当然だと言ってやってね。契約違反だと怒鳴ってきたけれどね、魔法でお帰り願ったよ」
「あの人、大きな竜や武器を持った大人を連れてたけど……」
「あの手合いに負けたことがないのは、知っているだろう」
「でも万一ってこともあるよ」
「相変わらずキミは心配性だねえ」
師匠は薄く微笑んでいるが、襲われているのに安心できるはずがない。
できれば、そういうことは起きてほしくなかった。
「結果的に、ボクの薬が人を不幸にしてしまったね」
オリオンは少し口を閉ざした後に言う。
フランツは視線を背けてしまったが、その状態で言った。
「それは師匠のせいじゃないよ」
「ボクが惚れ薬を売らなければ、違う結末になっていたかもしれない」
「…………」
「ねえフランツ。ボクの昔の話を、少し聞いてくれないかな」
魔女は死んだ魚のような目で弟子を見つめた。
惚れ薬の効果が続いていた時の表情はどこにもなく、薄い笑みを浮かべた変わりのない顔。見ていると切ない気持ちに襲われた。
「きみが嫌なら、ここで終わりにするよ」
「ううん。僕は師匠の話を聞きたい」
「そうかい」
息をついたオリオンは、白衣の懐から一冊の本を取り出した。
手渡されて表紙を見つめた。
部屋の本棚を占領している赤本。魔女の記録帳の中でも特にボロボロで、赤色の装丁もかなりくすんでいた。
「これって師匠の部屋にある日記……?」
「開いてみてごらん」
「僕が見てもいいの?」
「今日だけ特別だよ」
渡された本をめくる。
ページがほどけてバラバラになってしまいそうで怖かったが、丁寧にめくっていく。インクがくすんでいる箇所が多くて見づらいものの、進めていくとページの端が折り曲げてある箇所が見つかった。
インクの濃さや書き方が変わったわけではないが、他のページと違って、そこだけ特別な雰囲気を感じた。
「『魔女になる方法』……?」
何かの本を書き写したような硬い文章のあとに、『絶対に魔女になる』と雑な文字で書き綴られていた。
フランツは顔を上げて師匠を見た。
「魔女になる前に、平民として生きていた頃に書いたものさ」
「師匠は平民だったの?」
「王族や貴族でないなら平民さ。そう思っていたのかい」
「そういうわけじゃないけど、いつもお店で王様みたいに敬われてるから」
「資産はたくさん持っているからね」
「魔女になるっていうのは、どういうこと? 師匠は魔女じゃないの?」
「当時は、魔女というのは架空の称号だったんだよ」
フランツにとって、魔女は師匠であるオリオンただ一人を指す言葉だ。
今まで出会ってきた全ての人にとってもそうだろう。
「魔女とは現実には存在しない御伽話の存在で、願いを何でも叶えてくれる存在だ。惚れ薬を飲んだ時に、そんな存在に憧れていた頃のことを思い出したよ」
「じゃあ昔は師匠のことじゃなかったの」
「キミの親が生まれるよりもずっと昔は、みんなそう思っていたよ」
フランツは胸を高鳴らせた。
師匠も何かに憧れて、今の立場になったんだと知って、強く心動かされた。
オリオンを追いかけてきた弟子はドキドキする感じがした。
「じゃあ、どうして師匠は魔女になろうとしたの?」
そう尋ねた。
格好よくなりたい、辛い想いをする人を減らせるように。
フランツはそれを胸に抱いて薬作りを手伝ってきた。
普段感情を外に出さない師匠も、同じ気持ちでいてくれたらいいなと思った。
「何でも願いを叶えられる存在になりたかったんだよ」
オリオンは、極めて端的に答えた。
本に書かれているままの理由だったが、フランツには、その言葉の裏にたくさんの感情が込められていることがわかっていた。
「師匠は、どうしてそうなりたかったの」
単に格好いいから、何でもできたほうがいいからとか。
きっと、そういう理由じゃない。
自分が抱いているものに近い何かを直感で感じ取った。
「裕福な街娘だったけれど、呪いに吞み込まれた街で生き残ってしまったんだ」
「……師匠もそうだったんだね」
「そうさ、キミと一緒だね。魔法の才能があったおかげで呪いにかからずに済んだんだ」
自分の手のひらを見つめてつぶやく。
フランツが生き残れたのも、魔力が人よりもずっと多かったかららしい。
そして魔女オリオンは桁違いの才能を持っている。だから呪いの広まった地域に行っても平然としている。
しかし街で普通に暮らしている師匠を、想像することができなかった。
「キミは呪いにかかった人を助けるために魔女になったんだよね」
「うん。じゃあ師匠も僕と同じなの?」
「そういう気持ちもあったけれど、そのときは別な理由のほうが強かったよ」
「どういうこと……?」
「他人に伝染って拡散していく呪いに犯された街があったとしよう。その頃のボクは無力な子供だから魔法薬を作る人間はいない。どうなると思う?」
問いかけられて、フランツは僅かに考える。
「師匠、もしかして。そんな」
少しして最悪の想像がよぎった。
すがるように尋ねるとオリオンは首を横にふる。
「生き残った後は地獄だった。何十人もの兵士に追いかけられて、街が火にかけらて殺されかけた日のことは今でも克明に覚えている」
手を差し伸べてくれる人はいなかった。
呪いで全てを失って生き延びても、今度は人間に殺される。
絶望に暮れる暇なんてなかった。
「辺境の地では今でも当たり前のようにある話さ。彼らはそうするしかなかったんだと、今では納得しているよ」
光の宿っていない瞳に恨みの感情はない。
呪いが広まらないように皆殺しにする。魔法薬どころか一般的な薬の存在さえ知らない辺境の村では、今でもそういう対応がとられることがある。
まだ現実に、不幸に陥る人たちが出てしまう可能性は存在するのだ。
二人で説得して救えたこともあったけれど、間に合わず、最悪を迎えてしまった村に遭遇したことも数度あった。
「惚れ薬を飲んだせいかな。昨晩、そのときの夢を久しぶりに見てね。薬を作ることを決意した日のことを思い出したよ」
「…………」
「不条理が許せなかった。だからこうして、ずっと薬を作っているんだ」
魔女は悠久の時を生きている。
しかし、そうなるより前にそんなことがあったなんて知らなかった。
フランツは半生以上を一緒に生きてきたが、過去を知るのはこれが初めてだ。
「ここに呼んだのはね、キミに頼みがあったからなんだ」
「でも僕にできることなんてあるかな……」
「今回の件もキミは正しかったじゃないか。もっと自信を持っていいんだよ」
フランツはいたたまれない気持ちになった。
自分は全てレールを敷いてもらって、その上を歩いてきただけだ。
文字を読み書きできるのも、魔法薬を作れるのも師匠のおかげだ。
「キミはもうすぐここを去るだろう」
「…………」
頷かなかった。
「そんな相手に、こんなお願いをするのは良くないかもしれない」
「…………?」
「ボクの傍にいる必要はない。でも、たまに会いに来てくれないかい」
「えっ」
フランツは灰色の瞳の魔女を見た。
かすかに瞳に光を戻したオリオンは、艶かしく胸元を押さえた。
「出ていく方がいいと言っておきながら矛盾することを言っているのは分かっている。キミが嫌でなければ、これからも時間を少しだけ分けてほしいんだ」
「嫌なはずがないよ。でも、どうして……?」
出て行ったら、もう会えない。
そう思っていたのに、師匠の方から言われると思っていなかった。
「惚れ薬の効果は終わったはずなのに、キミを想う気持ちが消えないんだ」
感情の読めない薄い笑顔は、剥がれていた。
オリオンは一日中、同じ気持ちを抱えていた。
元々あった感情を引き出されて、効果が切れた後も忘れられなくなってしまった。魔女とは思えない小娘のような弱々しい雰囲気を見せた。
「このままじゃ耐えられそうにないんだ。この気持ちを捨てるのは、嫌だ」
「師匠」
「永遠に終わりが来ない日々に耐えられない。助けられなかった人の顔を思い出すと夜も眠れない。一人は辛いんだよ、フランツ」
孤高だった魔女は、瞳に涙を溜めていた。
オリオンは魔女になると決めて活動を続けてきて数々の成果を出してきた。
その過程で感情を殺してきたが、消えるはずがなかった。見ないふりをして、苦痛が当たり前になっていただけだったと気付いてしまった。
信じた道を歩んできたのに、こんなにも追い込まれていた。
「師匠、僕は」
あなたと一緒に生きたい。
口にしかけて、言葉が喉にとどまる。
フランツは溜まった感情をギリギリで抑えた。お互いにそれを望んでいるのに、一度拒まれたことが頭をよぎって選ぶことができなかった。
『お前が決めるんだ、フランツ』
『きっと後悔のないように選ぶのよ』
何も言えずにいると、脳裏に大雨の中で聞いた両親の声が蘇ってくる。
その声に、すくんでいた背を押された。
「僕は、師匠のようになりたい」
どうすればいいかなんて、本当はちゃんと分かっている。
自分自身の憧れを伝えると、抱えていた不安がひいて迷いがなくなった。
「師匠に命を救われてから、呪いで誰も苦しまない世界にしたいって思った」
「フランツ、キミは……」
「うん。ボクの夢は、お姉ちゃんと一緒なんだ」
言葉にするたびに勇気が溢れてくる。
これが誰よりも魔女に憧れて生きてきた、少年の人生のすべてだ。
言い訳でも何でもない。
果てしない道を一緒に駆け抜けたい。
同じ目的を持つ魔女から離れる理由なんて何一つなかった。
「僕はずっと師匠のところから離れないよ」
魔女の申し出を、真っ向から拒んだ。
こんなにもはっきりと拒んだのは生まれて初めてだった。
呆然とする魔女に言った瞬間、胸のつかえが全てとれて楽になった。
「ああ、キミは本当に……」
オリオンは泣きそうな顔でうつむいた。
目に光を戻した孤高の魔女は、薄い笑みを浮かべて弟子の頭を撫でる。その手つきはフランツの存在を確かめるようなものだった。
「本当に、立派に育ったんだねえ」
フランツは毛布を外して、オリオンと手を重ねる。
「十年も一緒に過ごしたんだ。永遠にボクと一緒にいるとどうなるか、どれほど辛いことかは知っているはずなのに」
「僕がいればもっと人を救える。夢も叶えられる。いつかは呪いだって無くせる。だから師匠の側で一緒に夢を追わせてほしいんだ」
「ああ、キミというやつは」
オリオンは泣きながらも、感情の分かりやすい笑顔を浮かべていた。
「……今の言葉でどれほどボクが救われたか、分かっているのかな」
フランツは、心の底から温かい感情が込み上げてくるのを感じる。
二人の間に矛盾はなくなった。
「ボクも、キミと一緒に夢を叶えたい」
少年の目指す道は魔女オリオンとともにある。
百年、千年役目を追うことになったとしても怖くない。
なぜならそれは自分で選んだ道であり、ずっと大好きな人を支えられるから。
「ボクと一緒に生きてほしい、フランツ」
「はい、師匠」
銀色の月が、二人を見下ろしている。
優しく毛布に触れるように手が伸びて、師弟は肩を寄せ合った。
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