第19話 フランツは、深く悩む


 家に戻った頃、空は闇に包まれていた。

 フランツが地面に足をついてホウキから降りると同時に、オリオンが魔法で家の明かりを灯らせた。


「今日はとても楽しかったよ」


 普段通りの微笑みを浮かべて、一緒に飛んできた弟子に言う。

 フランツは、堪えるようにホウキを握りしめた。

 惚れ薬の効果はまだ残っているはずなのに、いまは瞳から感情の光は消えて死んだような眼に戻っていた。


「師匠、僕……」

「安心したまえ。あの薬はもう世に出さない。色々と勉強になったよ」

「ちがうよ師匠っ……!」

「明日には全て元どおりだね」


 立ち尽くしたフランツは、泣きそうな表情で顔を歪めた。

 オリオンの表情はもう揺らがない。

 師匠のそばを離れたくない。このまま別れたら二度と何も言えなくなってしまう。それなのに魔女は背を向けて部屋に去ってしまう。


「辛い思いをさせてしまって、すまなかったね」


 背を向けたまま、かすかな声で言った。

 独りで残されたフランツは動けなくなって、地面にぽつぽつと涙を落とした。


「っ、う……うぅ……」


 玄関の扉は半開きだ。

 今からでも走り寄って縋り付いて、師匠と一緒にいたいと叫びたい。

 自分でも、この気持ちをどうすればいいか分からなくなっていた。

 



 結局、追いかけることができず、言葉を交わさないまま一夜が明けた。

 フランツは普段通りの時間に目を覚ました。

 一番に窓を開けて、朝の空気を取り入れるのが日課だが、昨晩ほとんど眠れなかった。そのおかげで、爽やかな風を浴びても体調は最悪だった。


「はぁ……」


 朝の仕事を始めなければいけない。

 部屋の外に出れば、師匠を顔を合わせてしまうことになる。

 昨日の件がどうなっているのかを考えると、憂鬱で仕方がなかった。


「師匠、どうなったのかな」


 惚れ薬の効果が消えたのなら元に戻っているはずだ。

 部屋の外に出ると、全く同じタイミングで出てきた師匠と鉢合わせた。


「あっ」


 フランツは息を詰まらせる。

 こんなにもすぐに師匠の顔を見ることになるとは思っていなかったのだ。

 白衣姿のオリオンは、普段通りの死んだ目で微笑んだ。


「やあ、おはよう」


 平然とした朝の挨拶。

 普段と何も変わらない態度を見た途端に、期待と不安で揺れていたフランツの心の天秤は一気に落ち込んだ。師匠の視線に耐えることができずに顔をそらしてしまう。


「師匠、今日は早いんだね」

「昨日の遅れを取り戻さなくちゃいけないからね。キミも頑張ってくれたまえ」

「うん……」

「調子が悪そうかい? 色々とあったからね。休んでいても構わないよ」

「ううん、僕もすぐに用意するよ」

「そうかい、任せたよ」


 特別に様子を気にした様子もなく、平然と階段を降りていった。

 フランツは一人で壁にコツンと拳をぶつける。

 

「分かっていたことだろう」


 夢のような時間を過ごしてしまったせいで、心が苦しい。

 昨日のことは全部夢だったと思い込まないと、とてもやっていけなかった。




 丸一日穴を開けたため仕事が溜まっていた。

 任されている雑事を全て午前中に終わらせたフランツは、普段なら勉強に没頭するところだ。しかし今日はその足で研究室の魔女を訪ねた。


「入りたまえ」


 許しを得て部屋に入る。

 集中を乱すことなく、背を向けて作業する師匠にお願いをした。

 

「師匠、やっぱり今日はお休みしてもいいかな」


 体調が著しく悪い時をのぞいて、自分から休暇を求めたのは十年の中で初めてだった。薬作りに取り組んでいたオリオンは、手元に集中したままあっさりと答える。


「ああ、いいとも」


 なぜ休みを取るのかは全く聞かなかった。

 自分がいなくても何の問題もないのだ。

 一人で生活は回っていくし、薬作りのサポートも必要ない。昨日のことが嘘のように、気にもかけていないような態度を見て悔しさを滲ませる。


「戻ってくるのは夜になると思う」

「分かった。食事はこちらで適当にとっておくよ」

「……ごめんなさい」

「謝ることはない。ゆっくりと休んでおいで」


 フランツは深くお辞儀してから、嫌な感情が出ないうちに研究室を出た。

 ホウキを持って玄関先に出る。

 空を見上げると、どんよりとした曇天だ。


「お父さん、お母さん」


 フランツは唇を噛んで、それから魔法を行使する。

 地面を蹴飛ばしてホウキで浮かび上がった。そうして空に姿を消した五分後に、魔女の家には大雨が降り注いだ。





 年に一度、フランツは村を訪れている。

 かつての故郷は今は廃村となり、家は半壊していた。畑も背の高い雑草で覆われていて、価値のあるものは何ひとつ残っていない。

 一人で生き残った少年の体は、雨でずぶ濡れになっていた。

 フランツの声は、虚しく雨の音でかき消えた。


「ただいま」


 何十もの丸形の石が安置されている場所がある。

 廃村の寂れた様子に反して、そこだけは綺麗に手入れがなされていた。

 名前が刻まれている石碑はすべて村人のもの。

 魔女とともに作った墓石だった。

 毎年必ずここに来て、両親や世話になった人に参りにきていた。


「命日でもない日に来て、ごめんなさい」


 以前に添えた花は枯れていたが、代わりはない。

 突発的に出て来たために、手向けを添えられないことをフランツは謝った。

 顔中ずぶ濡れで、顎からは水滴がとめどなく滴っている。

 ぬぐうこともせずに、明るい声を出した。


「お父さん、お母さん。僕は魔女の家を出ることになったよ」


 フランツは報告しにきた。

 将来のことをきっと知りたがると思って、土の下で眠る両親に伝える。


「これからは魔法薬師として隣の国に雇われるんだ。憧れる人が多くて、給料も凄い仕事なんだって。村だって元に戻せるくらいのお金が手に入るんだ」


 周辺国での魔法薬師は、魔女とフランツの二人だ。

 子供の頃は分からなかったが、騎士団よりもずっと希少で求められる仕事だったらしい。いつの間にか、他人に憧れられるような立場に立っていた。

 すごい出世を果たしているはずなのに、徐々に声がすぼんでいく。


「それでね、僕は……」


 喉を詰まらせた。

 雨が強くなっていく。声が震える。

 服からは絶え間なく水が滴り落ちて、きっと風邪を引いてしまう。

 目尻にだけは温かい液体が溜まっていた。


「ここまで来れたのは、師匠のおかげだ。本当に凄い人なんだよ」


 今では字も読めるし、薬の調合は一通りできる。

 村を壊滅させた呪いを自力で解くことだってできる。

 枯れ尽くしたと思った涙が頬を伝い、雨に紛れて滴り落ちる。


「お父さんに育ててもらって、お母さんに教えてもらったおかげなんだ」


 無残な姿で力尽きてしまった両親の無念を果たすため、必死にやってきた。

 今はその夢を概ね叶えている。しかし夢の道筋を歩んでいくうちに、フランツには同じか、それ以上に大切なものができてしまった。


「師匠が、好きなんだ。でも出ていかなきゃいけないんだ」


 自分自身の顔を腕で覆って、故郷の大地にひざまずく。

 孤独に生きてきた少年には、この世にいない両親にすがるほかなかった。


『どうして出ていくことになったんだい、フランツ』


 墓石は返事を返さない。

 しかしフランツは、亡き両親の声を聞いた気がした。

 曲げると、墓石の前に立っている両親の亡霊に見下ろされていた。

 これはフランツが見ている幻覚だ。大雨の中で自分の胸を抱えながら再び蹲り、心の中の声をしぼりだす。


「お姉ちゃんは僕を大切にしてくれているんだ。だから、苦しい思いをさせるわけにはいかないって……」

『あなたはどうしたいの』

「僕は、ぼくは……」


 死んだ人が助けてくれるはずがない。

 そんなことは分かっているけれど、唯一の肉親に縋らずにはいられない。


「お父さん、お母さん。助けて」


 どうすることもできずに、弱々しく助けを求めた。

 雨の音が響く。


「ごめんね、こんなの分かるわけないよね」


 孤独に取り残されたフランツは、やがて涙を拭った。

 このままでは寒さで死んでしまう。

 こんなことを誰かが答えてくれるはずがない。

 諦めて墓地に背を向けて、置きっぱなしのホウキを取りに戻ろうとした。


『お前が決めるんだ、フランツ』

『きっと後悔のないように選ぶのよ』


 声が、確かに聞こえた。

 振り返っても人の気配はない。

 静まりかえった墓場と、見捨てられた村の景色があるだけだ。


「お父さん、お母さん」

 

 胸に手をあてがってみる。

 ずぶ濡れになった服の下で、確かに心臓が動いている。

 朦朧とした意識の中でのことだったので、きっと全ては幻聴だったのだろう。

 しかし、泣き顔ばかり見せていた少年の気持ちが、変わり始めていた。

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