第18話 フランツは、師匠とデートする 後編


 昼食を終えた二人は、顔を見せないように距離を開けて歩いていた。

 悠久の時を生きる魔女の雰囲気はない。お互いに不安な感情をまとわりつかせている。師弟ともに心を大きく乱されていたが、仕方がないことだった。


「師匠、どこに向かっているの」

「今日はもう家に帰るんだ。そういう気分ではなくなってしまったからね」


 フランツは呼び止めようとしたが、結何も言えなかった。

 つい数時間前は溢れんばかりの幸福を感じていたのに、こんな終わりかたをしまった。後悔で腕が微かに震えたが、オリオンは決して振り返らない。


「悪かったね」


 ふと途中で立ち止まって、人通りの少ない通りで振り返らずに言った。

 フランツはすがるように顔を上げる。


「ボクが惚れ薬を飲んでいなかったら、こんなことにはならなかった」

「違う。謝るのは僕の方だよ、師匠」

「キミは間違ったことなんて何もしていない。この道を選んだのはボク自身で、他の誰にも左右できるものじゃない」


 振り返った魔女は、落ち込んだ弟子と視線を合わせる。

 穏やかな表情は見ているだけで苦しくなった。


「だが、キミを悲しませてしまったのはボクの至らなさが原因だ。師匠として恥じてるよ」

「そんなこと……!」

「でもフランツ、これだけは分かってほしいんだ」


 オリオンは続けて何かを言おうといた。

 しかし、不自然なタイミングで言葉を止めて振り返った。

 人通りの少ない南門のほうから、オリオンを睨みつけてやってくる女性の存在にフランツも遅れて気づいた。恐ろしい形相で殺気立っている。

 

「師匠」

「大丈夫、下がっていたまえ」


 フランツは彼女が、何を目的にしてオリオンのもとにやってきたのか、すぐに分かった。弟子を守るように立った魔女のほうから呼びかける。


「ボクになにか用かな」

「森の魔女……! しらばっくれて、わたしは絶対に許さないッ!!」


 荒々しい叫び声に、周囲を歩いていた街人は身をこわばらせる。

 フランツの予感は的中した。

 魔女の襟首を掴んで、そのまま捲し立ててくる。


「あんたの薬で子供が死んだ、魔法のせいで死んだんだ!」

「師匠に何をするんですか、やめてください!」


 フランツは大慌てて引き離そうとしたが、頑としてやめない。

 周囲の人間は遠巻きに見守っている。

 首元を掴まれているオリオンは抵抗することなく、静かに聞き入っていた。

 

 よりにもよって、こんな日に。

 この街には魔女を好いている人が多いが、恨みを持っている人がいないわけではない。どんなに清廉潔白でも証明する術はなく、こうしてやってくる相手は後を絶たなかった。


「一年前、この街で流行った呪いの件だね」

「そうよ! あんたの薬を飲ませたせいで、子供が苦しみながら死んだんだ!」

「助けられなかったことは、本当にすまない」


 襟首を離した女性から一歩離れたオリオンは、深々と頭を下げた。

 呪いを解けなかったのは、自分の力が至らなかったせいだ。

 せめて、こうして頭を下げることが魔女としての贖罪だ。フランツは悲しそうな表情を浮かべて魔女を見た。


「でも、これだけは信じてほしい。ボクは決して人を死に至らしめるようなものを、他人に与えたことは一度たりともない」

「いいや、わたしの息子はお前のかけた呪いのせいで死んだんだ!」


 女性は断固として認めようとしなかった。

 大切な人を失った相手には反論できない。死なせてしまったのは事実だ。せめて自分を恨むことで救われるのなら構わないと受け入れていた。

 しかし、今日はいつもと何かが違った。


「お前は嘘つきだ、わたしの息子を返せ!!」


 ヒステリックに叫び散らす彼女の言葉を聞いているうちに、普段と違う感情が込み上げてくるのを感じた。


(なんだ、これは……?)


 今までにない心の動きに戸惑った。

 女性は泣きながらオリオンの襟首を離して、枯れた声で言う。

 

「どうして、息子を助けてくれなかったの」


 崩れ落ちるように俯いた。

 オリオンの目尻に理解不能な涙が溜まっていく。

 感情が伝播したみたいに心が揺れ動き、膝をついて崩れ落ちた。


(ボクは、助けられなかったんだ)


 魔女の目から光が失われて、絶望に染まった。

 急に頭の中に今までの人生で受けた声が次々に蘇ってくる。


 出ていけ、お前が殺したんだ、どうして助けてくれなかったんだ。


 言われ慣れていたはずなのに。

 永遠の命を得た人生の中で、無数の罪を犯してきた。今になって地獄に引きずり落とされたような気持ちになって、目の前の女性の前で動けなくなった。


(ああ、そうか。今までボクは心を閉ざしていただけだったんだ)


 弟子の気持ちがわからない、などと自分でのたまっていた。

 昔はそうではなかった。

 いつの間にか、何も見ないようにしてきただけだった。

 嬉しいことなんてひとつもない。辛い道を歩くためだけに心を殺して生きてきた。だから弟子には同じ道を歩んでほしくないと拒んだのだ。


「は、はは……」


 女性の罵声は続いている。

 地面に涙が落ちる。業の重さに耐えきれず、潰されそうになる。

 生きてきた何百年か分の絶望で、心が死んでしまう――


「やめてくださいッ!!」


 叫び声。

 地面に手をついていたオリオンは、恐る恐る見上げる。

 フランツが女性と自分の間に立っていた。師匠を守るように腕を大きく広げていて、それを見た女性は怒ったように叫んだ。


「あんたは関係ないでしょう!」

「僕も魔女の弟子ですから関係あります。助けられなかったのは、僕の力不足のせいでもあるんです……」

「ッ、あんたもそうなのね! 人殺しの一味!」

「フランツ、やめたまえっ!」


 逆上していて危険だ。

 それは弟子が負うべき責任ではない。

 魔女である自分が負わなければいけないのだ。

 オリオンは震える手を伸ばして、逃がそうと背中を掴んだ。

 フランツは頑として動かなかった。


「師匠だって、みんなを助けたかったんです……!」


 悲痛な声に、オリオンは固まった。 


「あの時だって寝ずに薬を作って、やっと完成させたものを、誰よりも早く届けたんだ……!」

「それが何だっていうの! わたしの息子が死んでいるのよ!」


 だめだ、やめてくれ。

 このままでは、危険な目に遭ってしまう。

 しかし動こうとしているのに、震える膝は動かなかった。


「それでも、どうかお願いします」


 フランツは、ありえないほど深々と頭を下げた。

 女性は続け様に何かを言おうとしたが、フランツの表情に気付いて言葉を止めた。


「僕も呪いで家族を亡くしました、その辛さは分かるつもりです」

「あなたに何が分かるっていうのよ!」

「どうしてこんなことになったんだって、何度も思いました。でも、魔女も同じように苦しむ人間なんです。どうか許してください」


 両親を失っている魔女の弟子は、魔女をかばった。

 守られている魔女は涙を流した。

 女性はも言葉を失って何も言えなくなった。

 しかしそれは一瞬だけだ。


「そんな、身勝手な言葉で、息子が――」


 気がおさまるはずもなく、再度口を開こうとして止めた。

 兵士が近づいてくる鎧の音がした。通行人の誰かが衛兵を呼んだのだろう。それに先んじて気づいた女性は、途中で踵をかえして逃げ去っていく。


「おい、待てッ!」


 衛兵は逃げた女性を追いかけていった。

 取り残されたフランツは、女性を悲しそうに見つめた。

 オリオンは、尊敬している弟子を失望させてしまうような態度をとったことを深く悔いていた。

 

「情けないところを見せてしまったね」


 涙が止まらない。

 感情がぐちゃぐちゃで、どうしようもなくなっていた。

 フランツは膝をついて、孤独に永遠を生きてきた魔女の前に座る。


「そんなことないよ。僕は師匠の、お姉ちゃんの助けになりたいんだ」

「……ありがとう、フランツ」


 弟子に寄り添われていると、それだけで安心する。

 通行人は二人の様子を見ていたが、今は誰も声をかけようとはしなかった。


「明日には、心の中に沈んでしまうのかな」


 惚れ薬の効果は一日だ。

 愛おしく想う気持ちも、恐怖も、何もかも消えてしまう。

 申し訳なさと愛情に満たされる感覚が、切なく心をしめつける。


「嫌だなあ……」


 心臓の辺りに手を当てて本心を絞り出し、灰色の眼を空に向けた。

 美しい茜色の空は生まれた頃から変わらない。

 魔女であり続けたくないと思ったのは、生まれて初めてのことだった。


(ああ、こういうことだったんだね)


 商人に惚れ薬を渡したことを怒った彼の気持ちが、痛いほど分かった。

 この感情が薬で引き出されてしまうなんて嫌だ。


「嫌だよ、師匠」

「仕方ないんだ。ボクはどうしても、キミには幸せになってほしいから」


 今までで一番の切ない痛みが、オリオンの眼に涙を滲ませる。


「どうかボクを森に残して、生きていてほしい」


 孤独な森の魔女に戻る前に、無理やり微笑んで言う。

 オリオンは最後の涙を流した。

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