第15話 魔女オリオンは、思いつく
来客があった日。
研究を終えたオリオンは、真夜中に独りで自室に戻った。
階段を登って廊下に出たところで反対側の扉を見る。同居する弟子のフランツの部屋。ドア下の隙間は真っ暗で、すでに眠ってしまったのが分かる。
「彼には悪いことをしてしまったね」
正気のない目を細めて、つぶやく。
こういうことは初めてではない。
今までも人を傷つけてしまうことはあった。
深い息をつきながら自室に戻って真っ暗な空間で指を振る。すると部屋に白い灯りがともった。蝋燭の光とは違う魔法の光だ。
「ふぅ……」
白衣を床に脱ぎ捨てて一息つく。
落ち着いてから本棚に近づき、一番左上を見上げてつぶやいた。
この土地に住み始めてから心情や出来事が綴った、人生の全てがおさめられている。これらはオリオンの記録帳だ。
その中でも他よりもくすんで、ボロボロに汚れた装丁の本があった
「あの頃のボクなら、理解できたのかな」
自嘲気味に笑みを作って、首を横に振った。
魔女として暮らし始めてもう長い。考えても仕方のないことだ。
虚しい気持ちを感じながら、最新の本を手に取ってテーブルに戻った。
そんな時のことだ。
「ん……?」
脱ぎ捨てた白衣が、僅かに輝いているのを見つけた。
ポケットから何から転がり出ていて、不思議に思って拾い上げる。
桃色の液体が詰まった薬瓶、惚れ薬の原液だ。
「ああ、すっかり戻すのを忘れていたよ」
色々なことがあって戻すのを忘れていた。
研究室に戻ろうかと思ったが、明日でもいいかとテーブルに放置して、いつものように羽ペンを走らせ始めた。今日は書き記す出来事が普段よりも多かった。
そうしてしばらく執筆を進めたあたりで、ふと視線を横に逸らしす。
妖しく輝いている薬液が、オリオンの虚な瞳を照らし出す。
「そうか、その手があった」
一人で笑みを深めて、薬瓶を手に取る。
感情が分からないことで悩んでいるのなら、引き出してしまえばいい。
天啓が降りてきた。
「ボクとしたことが、なぜ簡単なことに気付かなかったのかな」
惚れ薬は、服用者の心の中から『愛』の感情を引き出す。
取り返しがつかなくなる副作用もない。
弟子の見えている世界を見ることができるかもしれない。魔法薬を管理する者として学ぶ必要がある。自分自身に試す価値は十分にある。
「ボクが飲んだとすると、一日程度といったところかな」
ガラスの栓を外すと、果実を発酵させたような甘ったるい匂いが漂った。
おおまかに効果予想を立てつつ自らの口に薬瓶を傾ける。
濃い液体が喉を滑り、あっという間に瓶は空になった。
指先で口元を拭ったあとに記録帳を閉じる。
「さて、どうなることやら。楽しみだなあ」
思いつきにしては素晴らしいアイデアだ。
一日の仕事を終えたオリオンは、ベッドに転がってブランケットをかぶる。
それから魔法で作り出した光を消し、濁った目を瞑って眠りについた。
その日、オリオンは何十年かぶりの夢を見た。
無性に落ち着かない気持ちで起き上がると、夢の内容は覚えていなかった。
「…………」
窓の外は陽気な朝日が差し込んでいて、鳥のさえずりが聞こえる。
清々しい朝だ。
しかし夢の中にいるみたいな感覚が消えない。不思議な心地が身体を包んでいて、自分の両手を見つめて違和感を確かめた。
「どうも調子が変だな……?」
長く生きてきたあいだ、一度も経験がなかった体調の変化に首をかしげる。
座り込んでいるうちに階段を登ってくる音が聞こえた。
「師匠、朝ごはんができたよ!」
元気な弟子の呼びかけが聞こえてくる。
数年ですっかり慣れきった、いつも通りの朝が始まろうとしていた。
そのとき、動揺して身体が震えた。
「あ、あっ……なんだ?」
どうしてか、理由は分からない。
心臓がバクバクと鳴っている。体の奥からマグマが吹き出してくるような、不可解な感覚に襲われて息が詰まった。
普段なら軽く返事を返すのに、それができなかった。
「師匠?」
弟子が部屋の扉が開いた。
視線が合った瞬間、ブランケットをまとった魔女は声を出せなくなった。
動揺して、まともに言葉が出てこない。
「あ、あっ、あ……」
頭の中が真っ白になり、それでいて弟子から目が離せなくなる。
首をかしげる弟子を見ていると高揚する。不審に思ったフランツが心配そうに近づいてきた。
「どうしたの?」
「あっいや、これはだね。別に何でもないのだよ!」
言い訳する必要なんてないのに、逃れるような言葉が口をついて出てくる。
首をかしげたが、床に放置されたままの白衣を拾い上げて言う。
「スープも作ったから。冷める前に着替えて早めに来てね」
「もちろんだとも。さあ出ていきたまえ早くはやくっ!」
「はぁ……?」
不思議そうに部屋を出ていった。
ようやく緊張が解けた。
ブランケットを落としてベッドの上に両手をつく。
「何だ、これは。ボクは一体どうしたというんだ」
体に力が入らない。我を忘れるなんて一体いつぶりだろう。
胸のあたりに手を当てて冷静に思考する。
どう考えても薬のせいだ。
副作用で、こんな大変なことになるはずがない。
「これが、愛情?」
弟子の声が頭に焼きついて離れない。
悠久の時を生きる魔女の眼に、いつにない輝きが宿っていた。
自分でも制御できない感情に操られる感覚。そんな強い情動の名前を豊富な人生経験が導き出した。
「ボクは愛情を求めているのか……フ、フフフ。そうか」
魔女は不気味に嗤う。
甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれる弟子が愛おしいのだ。
この感情を言葉で説明するのは難しいが、とにかく自分は想定通り薬の影響を受けているようだ。
なかなか不可解な気持ちだと、オリオンは自分の変化を楽しんだ。
惚れ薬の効果を感じながら、ゆったりと着替えてリビングに降りる。
「遅いよ師匠」
先に食事をとらず自分を律儀に待っているのを見て、気持ちが昂った。
口元がニヤついてしまうのを隠して食卓につく。
「スープ冷めちゃいましたよ」
「ああ、すまなかったね」
「師匠、もしかして病気じゃないの……?」
「ん?」
フランツがおそるおそる聞いてきた。
「顔が赤いし、調子も悪そうだよ。今日は寝ていたほうが……」
「ああ。そのことなら気にしないでくれたまえ。体調は何も問題ない」
部屋に鏡を置いていないので確認していなかったが、確かに顔が熱い。
なるほど、今は顔が赤いのか。
この現象も惚れ薬の効果の作用に違いない。愛情を抱くと自分でもこうなるのかと冷静に考えて、心境の変化を楽しんだ。
「それよりも食事にしようじゃないか。お腹が空いたよ」
「はあ……」
フランツは不審がっている様子だったが、それを無視して料理を口に運ぶ。
食事をして気付く。
喜びの感情が、普段よりもずっと強く浮かび上がってくる。
「ん……?」
もう一度咀嚼する。
冷静に分析したが、味は今までと何も変わっていない。
しかし得られる快感が普段より強いように思える。
料理を担当しているフランツに尋ねた。
「今日は味付けを変えたのかい」
「いえ、昨日の作り置きを温め直しただけです」
「そうかい」
ならば、これも薬の副作用だろうか。
今の自分は、普段より感覚が鋭敏になっている状態なのかもしれない。
普段より美味しく感じられるのは嬉しい誤算だった。
「美味しかったよ」
「えっ」
フランツは耳を疑った。
五歳の頃から住んできて、今まで美味しいと言ってもらったことはない。
せいぜい『暖かいものは気分が落ち着くね』という程度だった。
呆然とする弟子を残して研究室に向かう。
「師匠、今日は本当にどうしたの……?」
「どうもしないさ。ボクは研究室に篭るから、いつも通り後のことは任せたよ」
フランツは、喉を詰まらせたように声をからぶらせた。
何かを言いかけていたようだったが口を閉ざして「何でもないです」とだけ言った。
優しく微笑みながら弟子を残し、鼻歌を歌いながら扉を閉める。
研究室で一人になったあとは、楽しくて、嬉しくて仕方がなくなった。
「これは、たまらないね」
困っているようなフランツの表情を思い出して笑う。
感情を学ぶという目的は概ね達成されたと言っていいだろう。
「昨日の作業を終わらせてから、目録を作ろうかな」
そもそもの目的は、魔法薬を扱う人間として学ぶことだ。
経験したことは全て書き留めておく必要がある。
しかしそれは、今日の作業を終わらせてからでも構わないだろう。昨日の来客で作業時間が狂い、作りかけのまま放置していた薬液を取り出した。
追加材料の、乾燥薬草を手にした状態でオリオンは固まった。
「……?」
棚から材料を取り出して用意を進めるうちに、徐々に違和感に気付き始める。
薬作りに集中できない。
なぜか普段よりも気が散って、普段の半分の作業効率だ。
首を横に振って、素材をすりつぶす作業から始めた。
「だめだね。早く済ませてしまわないと」
しかしそれからまた数分後に、手が止まる。
今度はさっきよりも深刻だ。
目の前に、雑に処理してしまった薬草が残っていた。
これでは使い物にならない。
「嘘だろう。こんな単純な失敗を、このボクが……?」
オリオンは今までにないほどに動揺した。
長い間薬作りを続けていて、こんな情けない失敗をしたことはなかい。
手を見ると、小さく震えている。
呆然としているときに研究室の扉が開いた。
清掃を終えた研究道具を持ったフランツが、片付けのために入ってきたのだ。
「ここに置いておきますね……師匠、どうしたの?」
異変に気付いて近づいてきた。
フランツも、使えなくなった薬草を見て目を丸くした。
「これって……あっ、大丈夫!?」
オリオンはめまいを抑えるように、机に手をついた。
フランツが慌てて駆け寄って背中に触れる。
「やっぱり調子が悪いんだよ、休まないと!」
「ああ……キミの言う通り、どうも調子が悪いみたいだ」
存外にショックだったらしく、動揺が収まらない。
フラフラと部屋を出ていくと、フランツが慌てて後ろをついてくる。
「すまないけれど素材の廃棄をやっておいてくれ。今日は仕事にならないようだ」
「そ、それはいいけど、あっ待って!」
背中を支えられるだけで心が落ち着いてしまう。
落ち込んでいたはずなのに、やっぱり今日の自分はおかしい。
弟子に部屋まで連れて行ってもらう。ベッドに腰掛けたオリオンに濡れタオルを持ってきて、それを心配そうに差し出した。
「余計な心配をかけて悪いね」
「ううん。師匠は無理をしすぎたんだよ。たまには休まないと」
「じっとしているのは、落ち着かないんだけれどねえ……」
睡眠と食事以外では、常に薬を作り続けてきた。
最後に休暇を取ったのも数年前。
フランツと一緒に街を巡った時が最後だ。
別に体調が悪いわけでもない。原因がわかっているのに、急に真昼から眠れるはずもなく、そわそわとした心地に襲われる。
「休んでるより、他のことをしていたいな」
フランツは困ったように腕を組んだ。
「体調が悪いときは寝てないと」
「病気でも呪いでもないんだ。そこは心配しなくていいよ。ただ集中力を切らしてしまっただけさ」
体の調子は何も悪くないと立ち上がって示した。
医学をかじっているフランツも、疑ってはいたものの分かったらしい。
心の調子が悪くなったのだろうと判断して、提案する。
「それなら、街に出てみるのはどうかな」
「それは、どういうことだい」
「僕は行き詰まっとき、気分転換に街に行っているんだ。それで師匠の息抜きになればいいんだけど……」
自分では思いつかなかったアイデアだ。
そういえば、最近のフランツは一人で出かけることがある。
弟子は自力で飛べるようになったので、どこにでも行けるわけだが、街に出かけていたのかと納得した。
「うん。普段と違うことをしてみるのも、今ならよさそうだ」
薬を作ることができないのは辛い。
しかし睡眠で無駄にするよりも、弟子と一緒に過ごすほうがいい。
少なくとも今日という時間は無駄にならないだろう。
「では行こうか」
ベッドに座っていたオリオンは立ち上がり、弟子の腕を引いて歩き出す。
「今すぐ? え、待って師匠。僕、まだ仕事が残ってて……」
「そんなものどうとでもなるだろう。さあ出かけるよ!」
有無を言わせずにフランツを家から連れ出した。
こんなことは初めてだった。
弟子に惚れた師匠と、師匠に好意を抱く弟子の休日。
大切な一日が幕を開けた。
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