第1話 フランツは、故郷を失う


 何も知らなかった頃の生活は、退屈で幸せだった。

 フランツは平和な田舎の村で生まれた、ごく平凡な少年だ。

 日が昇る早朝に起きて、両親の農作業を手伝い、村の同じ年頃の仲間と遊ぶ。食事をして早寝する。ひたすらにその毎日を繰り返す。


 フランツは一生同じような生活が続くと思っていた。

 世間知らずの男児が、最初に遠い世界への憧れを抱いたきっかけは、ごくありふれたものだった。

 それは、農作物を積んだ荷車とともに村を出た時のことだ。


「フランツ、俺から離れるんじゃあないぞ」


 父親に連れられて、近くの街に来て早々に警告されたる。

 着くなり急に重々しい雰囲気を出した父親に困惑する。


「どうして?」

「街ではぐれたら二度と家族に会えなくなる。街には人攫いがいるからな、村の子供は格好の的だ」

「ひっ……」

「なに、離れなけりゃどうということはない」


 素直に信じたフランツは、怯えながら父の後を追いかけた。

 村で生産した農作物を売りさばき、必要な品物を買って帰る。そのために父はたびたび街に来ていて、幼い子供を連れてきたのは学ばせるためだった。

 仕事を終えた帰り道の道中で、街の通りに人が集まっているのを見つけた。


「お父さん、あれはなに?」


 父親の袖を引いて尋ねる。

 聞こえくるのは空気を揺らすような歓声で、異様な雰囲気だった。


「王国騎士団だな」

「きしだん?」

「魔物を討伐しにきてくださったんだろう。行ってみるか」

「いく!」


 父親と手をつなぎながら足を運んだ。

 称賛を向けられる相手を見たとき、フランツはしびれた。

 それは黄金色の繊細な装飾が施されている、見たことがないくらい綺麗な馬車に乗っている集団だった。

 腰に剣を携えた戦士が、笑顔で街の人達に手を振っている。

 きらきらと、輝いて見えた。


「すごい……!」


 力強い姿に、フランツは憧れた。

 生まれて初めて見た外の景色に魅了された。

 馬車は領主様の邸宅へと去っていく。


「フランツ行くぞ。日が暮れたら村に戻れなくなる」


 父親に強引に手を引かれるまで、その場を離れずに余韻に浸っていた。

 渋々ついていきながら聞いた。


「ぼくも、ああなれるかな」

「さっきの騎士団か? はは、俺たちのような村人には無理だぞ」


 縁遠い世界だと言い切った。

 だがフランツは、自分もあんな風になりたいと思った。

 平凡な少年の生活が少しだけ変化する。


「フランツ。あなた、またやっているの?」

「大人になったら、ぼく、ぜったい”きしだん”になるんだ」

「困ったわね……」


 毎日のように農具を剣に見立てて素振りを繰り返し、自分を鍛えるようになったのだ。

 どうせなら畑を耕してくれればいいのにと、母親にも呆れられた。

 最初は大人達も、すぐに飽きるだろうと思っていた。

 しかし日が経ってもやめない。

 フランツは良くいえば一筋で、悪く言えば頑固な性格だった。

 

「フランツ、剣に憧れるのはやめるんだ」

「どうして!」


 ある日、見かねた父親がフランツに言い聞かせた。

 だが突然、自分の憧れを否定されたフランツは黙っていられない。


「俺たちのような農民が成り上がることは絶対にできない」


 息子の夢を奪うことはしたくなかったが、ただ、父親のほうがよく現実を知っていた。諦めさせることが最善だった。


「夢を見るのはいいことだが、後で辛くなるだけだぞ」

「っ……そんなの、わからないじゃないか!」

「騎士団は貴族しか入れない。俺たちのような血筋では、どうにもならん」

「やだ、やめない!」


 子供に理屈なんてわかるはずもなく、強気で叫んで言い返す。

 父親は、なお首を横に振った。

 

「どうしてだめなの!」

「仮に武の道に進むとしてだ。そもそも、お前には剣の『才能』がない」


 残酷な現実だった。

 憧れへの道を完全否定されたフランツは、涙ぐんで泣き叫ぶ。


「おとうさんには、なにがわかるんだ!」

「お前には別の才能がある。そっちを伸ばすほうが村の役にも立つ」

「いやだ!」


 フランツは親の言うことを、意固地に受け入れなかった。

 

「お母さんのいうことを聞いて、薬を作りなさい」

「いやだ! おとうさんの、うそつき!」

「フランツ!」


 奪われて泣き叫び、現実を受け入れることもできずに、家を飛び出した。

 人生で初めて手に入れた憧れを宝物のように感じていた。

 絶対にやめないと心に誓った。

 父親も頑固な息子に、とうとう匙を投げて首を横に振った。


 フランツは全てを無視して農具を振り続けた。

 農具を振っていれば、多くの人に憧れてもらえる人間になれる。

 本気で信じていた。

 強くなれば見返すことができると思った。


 しかし数ヶ月もすれば才能がないと、自分自身でも気付いてくる。

 筋肉もなかなかつかず、農具のほうに振り回されている。

 格好良く剣を振れたことなんて一度もない。

 ……もう、やめよう。

 自分には向いていないと分かり始めたころだった。


「え……」


 突然、村が壊滅した。

 フランツは、薄暗い家で棒立ちしていた。

 

「おとうさん、おかあさん?」


 木製のベッドの上で、ぐったりとうなだれて動かなくなっている。

 肌には不気味な赤紫色の斑紋が浮かび上がっていて、呼吸の音が聞こえない。無数の羽虫が飛び交う音が聞こえる。

 無力なフランツは青ざめて、フラフラと村を彷徨った。 


「どうして。どうしてっ」


 そこら中で死の匂いが漂っていた。

 いつも遊んでいた年の近い子。

 近所に住んでいる仲の良かった大人。

 まとめ役である村長も、みんな倒れて動かなくなっていた。

 僅かに生き残っている人も、口をきくことができなくなるほど弱っていた。

 何か恐ろしいものが伝染していく。瞬く間にフランツの生きていた世界を壊していった。


「ううっ、う、うっ」

「だれか、たすけて」

「もう、おしまいじゃぁ……」


 苦痛に呻く声を聞きながら、血の匂いが漂う屋内で座り込む。

 親の言うことを聞かなかったことを後悔した。

 母親の血を濃く受け継いだフランツは手先が器用だった。頭もよくて物覚えもいい。だから母親から薬作りを習うように言われていた。


「おかあさん……っ」


 憧れに執着さえなければ、薬を作れていたはずだった。

 夢と希望もなくした少年は今になって薄い知識に必死にすがる。


「ぼくが、つくらないと」


 村を守る力を持っているのは自分だけだ。

 ぼろぼろと泣きながら、中身入りかけのすり鉢を手に取る。

 そして、無駄な薬作りを始めてから二日後のことだ。


「……ぅ、ぁ」


 集めた材料が地面に散らばった。

 地面にうつ伏せになるように、フランツは痙攣した。

 他の大人と同じく、少年の肌にも青紫色の斑紋が浮かび上がっていた。

 涙越しに窓の外の夜空が見えた。


「あ、がかっ……う、う」


 外は不気味なほど静かだった。

 徐々に霞んで月が見えなくなり、世界が灰色に染まってゆく。

 フランツの小さな体の中に宿った弱々しい命の炎が、呪いの汚泥に握り潰されて消されようとしている。

 恐怖と苦痛の中で、運命を受け入れることしかできなかった。




『大丈夫だよ』


 薄れゆく意識の中で、失意の少年は声を聞いた。

 誰かに首が持ち上げられて口元に何かが流れ込んでくる。えぐい感覚が苦いか甘いかさえ分からなくて、味を感じる余裕はなかった。


『これで大丈夫、君は生き残る。だから頑張れ』


 優しくて、暖かい、知らない声に励まされた。

 全身から命がこぼれているような耐えがたい苦痛が、少しだけ和らいだ気がした。

 呪いに殺された村の生き残りは、そこで意識を手放した。





 目覚めた時、上等な毛布に包まれていた。

 村の少年フランツは自宅ではない場所に寝かされていた。

 横になったまま周囲を見回すと、ホコリをかぶった木造の道具がそこら中に散乱している。まさか誰かの家の倉庫だろうか。

 今度は顔を反対側に向けて、窓の外の景色を見た。

 

「ここどこ……?」


 知らない景色が見えた。

 村の景色ではない。こんな高い木々に囲まれた場所は知らない。

 まさか人攫いに遭ったのだろうか。

 ぞっとしながらベッドから這い出ようとした。


「え、えっ」


 ベッドから上半身だけが床に滑り落ちた。

 体にうまく力が入らない。全身が怠くて頭もモヤモヤしている。

 訳が分からずに混乱していると、急に部屋の扉が開けられた。

 うつ伏せになっているフランツは、侵入者の顔を見ることができず怯えた。


「おやおや。まだ身体は治っていないんだから、気をつけたまえ」


 優しく身体を抱きとめてベッドに戻された。

 ようやく顔が見えた。真っ白な衣装をまとった茶髪の女性が、独特の不気味な笑顔を浮かべてフランツを見下ろしていた。

 笑顔なのに一切の感情を読み取れない。

 光を宿していない眼に見つめられて、ますます恐怖が沸き立った。

 

「だ、だれ」

「ボクは森の魔女さ。聞いたことはないかな」


 魔女とは知らない言葉だ。聞いたこともない。

 頭を撫でられながら、大人しく不気味な目の大人の言葉を聞いた。


「キミを村から連れてきた」

「お姉ちゃんはひとさらい……?」

「違うよ。あの場所に置いておくわけにもいかなかったから仕方なくね」

「村のみんなはどこ」

「残念だけれど、間に合わなかった」


 何が起きたのか、ぼんやりした頭の中で徐々に理解していく。

 フランツの目尻から、涙が滑り落ちる。


「おとうさんと、おかあさんは」

「間に合わなかったよ」


 フランツは、羽虫にたかられた両親を見た。

 瞳をかすませて死んでいる姿がフラッシュバックする。

 自分の腕を見ると、薄くなった青紫色の斑紋の痕が残っていた。

 村で過ごしてきた記憶が、走馬灯のように蘇る。

 あれは、全部、夢なんかじゃなかった。


「ボクはまた来るからね。この部屋は好きに使って構わない」


 魔女は気を使って部屋を去っていく。

 体に力が入らないのに、しだいに呻き声だけが出てきて膨らんでいく。

 嗚咽をこぼして、悲鳴をあげて、泣き叫んだ。



 この日、フランツは、生まれ持った命以外の全てを失った。

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