第9話 家族
その日は何事もなく、一人暮らしの自分のベッドで寝たはずだった。
なのに、起きて自分の目に飛び込んできた景色は、白い砂浜越しに見える群青色の海。
20歳ではなく5歳にまで縮んでしまった身体。
鏡で見る顔は、目の色こそ黒から蒼へと変わっていたが、写真の中の幼い頃の自分の顔であり、誰かに乗り移ったわけでも、転生したわけでもなかった。
どこぞの名探偵じゃあるまいし、どんなリアルな夢だと最初は思っていた。
ハルトネッヒさんに告げられたときも、実感も何もわかず、ただ話が噛み合わないこと、自分はここでは異質だということだけはよくわかった。
帰れないと言われたときは、夢であってもややショックだったが、実際本当に帰らなくていいのなら、あの人から、あの環境から、意味がわからない状況ではあるが逃げられたことにもなるんだろうかと頭の片隅に浮かび、ホッとしている自分もいた。
自分を拾ってくれたガタイのいいお兄さんと、老舗の寿司屋の大将のようなお爺さん、それからターザンくんに、一緒に寝ていたぬいぐるみにそっくりな狼、彼らと接していても自分一人がVRを装着し、他の人たちはその世界に存在しているキャラクターのような感覚に陥っていた。
どこか現実味がなく、いつこの夢が覚めるのか、そんなことばかり考えていた。
いや、そう考えなければ、受け入れることができなかったのかもしれない。一種の現実逃避だ。
自分が突然異世界に飛ばされ、二度と帰れませんと言われても、全てを受け入れ、そうですかと答えられるのは、よほどの適応力の持ち主か、感情のないものだけじゃないだろうか。
ピアサと呼ばれるものに襲われ、ハルトネッヒさんに助けられたあと、ハルトネッヒさんにうわ言のように謝った記憶はあるが、いつのまにか意識を失っていた。
畳の部屋でアドルフォと小狼に挟まれて寝ていたようで、大の字で寝るアドルフォの足の重みで目が覚めた。
アドルフォの足をどかし、二人を起こさないように、そのまま部屋の外の縁側に座った。
すでに日は沈んでおり、星と月の明かりのみで街灯など何もない。
月はこんなにも明るいのかと初めてきた時の夜思ったのを思い出した。
自分が撃たれた痛みよりも、小狼が撃たれ血を流し倒れている姿を見て、ようやくこれは夢ではないのだと実感した。
この世界でみんな生きている。VRのキャラクターでもなんでもなく、自分と同じように生きているのだと。
それを実感した途端、途方もない恐怖と消失感に襲われた。
正直、ここでの生き方がわからない。
今まで生きてきた自分の世界とあまりにも違いすぎる。
刀や銃を持っていても銃刀法違反で捕まることはない。異能力と呼ばれる人たちがいる。
ハルトネッヒさんがいうには、私は異人であり、この世界では迫害されてる上に、ピアサになる人種らしい。
自分を撃ったあの人とは思えぬ何かに、自分もなり得るのか。
ファンタジーもほどほどにしてくれと思わずにはいられない。
なんで、寝て起きたらこんなところにいるんだ。
どうやって寝たんだ。
「起きたのか」
そんなことを考えていれば横からハクの声がした。
少し驚きそちらを向けば、そのままこちらに近づいてきて私の隣にあぐらをかいて座った。
「なんで海に行ったんだ?」
「……海風の匂いがしたので、自分が最初にいた場所を、見たくなって」
「そうか」
これは怒られるのか?と思いながらも恐る恐る素直に答える。
するとハクは、前を見ながらそれだけ言って、口を閉じた。
「……なんで、気づいたんですか?」
「小狼の遠吠えを聞いたアドルフォが凄い勢いでここまで来たんだ。俺には遠吠えの違いなんざわかんねぇけど、アドルフォ曰く助けを求める遠吠えだったらしい」
気になっていたことを聞けば、どうやらあの時の遠吠えを聞いたアドが知らせてくれたようだった。
小狼もアドに向けて言ったのかもしれない。
二人はたまに狼語で会話している時もある。
「あのピアサは」
「斬った」
「……斬れるんですか?」
「光る鱗があっただろ。そりゃ鱗光って呼ばれてんだが、それを壊せばピアサは泡になって消える」
斬った?斬ったというのは、殺したってことなんだろうかと思いながら質問すれば、私の質問の仕方がアホの子みたいだったために、別の意味で丁寧に説明してくれた。
「……すみませんでした」
「何が」
「ご迷惑おかけして」
私が言いつけを破って海に行ったことで、小狼は怪我をして、ハクとハルトネッヒさん、それからアドに迷惑をかけたことは事実だ。
時間が経つたびに申し訳なさが募ってきた。
そう思って謝ると、ハクは頭を掻きながら困った顔をした。
「迷惑、迷惑じゃねぇんだが……桜は今何考えてるんだ?」
「え?」
こちらに顔を向けそう問うハクに、この感情を言葉にして伝えるのが難しいので困ってしまう。
昔から、自分の気持ちを伝えるのは苦手な方だ。
誰かに相談したりすることもなく、大概自分の中に落としこんで解決することの方が多い。
どう言えばいいんだと思わず困った顔でハクを見る。
「俺たちに迷惑かけて申し訳ないってことだけか?違うよな?」
そう言われると確かに違う。
違うが、言ってもどうしようもないことじゃないかと思わずにはいられない。
誰かに吐き出したところで、現実は変わらない。
「今!今思ってること言ってくれ」
「……言っても、どうしようもない」
「んなの言ってみなきゃわかんねぇだろ」
「言って、帰れるわけじゃない」
今思っていることをと言われたのでそのまま言った後、後悔した。
ハクがなんとも言えない顔をしたからだ。
困らせたいわけじゃない。
自分でももうどうすればいいのかわからないのだ。
「帰りたいのか」
「わかりません」
「帰りたくないのか?」
「わかりません」
「どっちかはあるだろ」
「帰りたいけど、帰りたくないです」
そうだ、帰りたいけど、帰りたくはないんだ。
家族には会いたい。
友達にも会いたい。
このファンタジーな世界も意味がわからない。
出来ることなら向こうの世界がいい。
だけど、またあそこに戻るのも、あの人と関わらなきゃいけないのも嫌なんだ。
「なんで」
「向こうに、会いたくない人もいるから」
「その傷つけたやつか?」
「…………はい」
確信をつかれて少しドキッとした。
言おうかどうしようか悩んだが、今更嘘をつくのもめんどくさくなったので、素直に答える。
そこで気づいた。
向こうでは自分の不注意で切ったと言い続けていたから、誰かにこのことを話したのは初めてだということに。
「そりゃ、難しいな」
ハクはそういうと、腕を組み思案顔でうーん、と唸っている。
何でハクが悩んでるんだ?帰りたいが帰りたくないと言った私のめんどくさい解答に頭を悩ませてしまっただろうか、と思いながらその横顔を見ていれば、ハクがこっちを向いた。
「泣いてもいいんじゃないか?」
「へ?」
想像とは遥かに違うことを言われて思わず呆けてしまう。
ハクは本当に何を悩んでいたんだろうか。
「そいつのことは置いておいて、今わかってるのは、桜は向こうには帰れないってことと、大事なものがなくなっちまったってことだろ?」
ハクに整理するようにそう言われたことで、またチクチクと胸が痛みだした。
その通りだが、そうだと口に出していうことも、頷くことも今の私には出来なかった。
ハクから視線を外し俯く。
「だから、泣いてもいいと俺は思うけどな」
「泣いても何も変わらん」
「まぁ、そうだな」
思わず語気を強め言ってしまった私に、ハクは怒ることもなく肯定する。
泣いたって何も変わらない。
泣いて解決したことなんか今まで一度もない。
ただ、苦しいだけだ。
「でも一人でぐるぐる考えるより、吐き出した方が楽になる時あるだろ」
そう言ってハクは私の頭の上に手を置いた。
人に頭を撫でられるのなんていつぶりだと思いながら、その手の暖かさに喉の奥が苦しくなる。
ただ無言で頭を撫でるハクの優しさに、自然と口が開いた。
「……小狼が」
「小狼?」
「撃たれて、倒れて、血がたくさん出て」
「ジジイの言霊でもう治ってる。さっきアドルフォと鬼ごっこしてたしな」
「夢じゃないって思った」
頭を撫でるのをやめ、小狼はもう元気だと明るく言ってくれるハクに少し安心しながらも、下を向いたまま話す。
「ファンタジーみたいな世界だけど、ここでちゃんと生きてる人がいるから、夢で片付けじゃいけないって思ったんです。みんな生きてる。ちゃんと生きてる」
「そうだな」
「それを受け入れたら今度は、全部なくなったことを受け入れなきゃいけない」
話していて、だんだんと目の淵に涙が溜まってきていることに自分で気づく。
「家族も、友達も、向こうで生きてきたこと全部もう、ない。……ない」
そう自分で言葉にすればするほど、実感は強まる。
自分にはもうない。
家族には二度と会えない。
友達にも二度と会えない。
お母さんと最後に話したのはなんだったか。
目の淵に溜まっていた涙のダムが決壊したのを最後に、涙が溢れて止まらなくなった。
◇
ない、そう言ったあと泣き出した桜に、あの日墓の前で泣いた自分自身が重なった。
突然奪われた当たり前の幸せに、人間の感情はついていかない。
下唇を噛み、声を押し殺しながらポロポロ涙をこぼす桜に俺は何が出来るのか、何をしてやれるのか考えても答えは出てこない。
せめて父ちゃんがしてくれたようにと、泣いてる桜を膝に乗せ抱きしめた。
子どものあやしかたなんてわからないが、気が済むまで泣いてくれたらいいと、桜が泣き止むまでそのままでいた。
桜が少し落ち着いた頃、昼間言われたジジイの言葉を思い出した。
桜を一人にしないためにはどうすればいいのかと考える。
向こうでは家族や友達がいて……家族……。
「桜」
「?」
「俺と家族にならないか」
チラリと俺を見上げた桜にニカッと笑いながらそう言えば、涙で濡れた目をパチクリとさせ、ぽかんと口を開けた。
「俺が桜の家族になる。そしたら桜はもう一人じゃない」
「家族は、そうやって、なるもの……?」
我ながらいい案だと思いながら言えば、不思議そうな顔で至極真っ当なことを言われた。
「違うかもしれねぇけど、血のつながりだけが家族じゃないだろ?」
そういえば小さく頷く桜。
「だから俺が桜のこの世界での父親になる。どうだ」
「……娘?」
「おう」
桜を見ながらそう断言すれば、自分を指差し呟いた。
何やら少し考えている。
「……殴らん?」
「なんだその確認。殴らん」
「自分より強い男の人は、ちょっと怖い」
素っ頓狂な質問をする桜に即答する。
自分より強い男、なんとなくそんな気はしていたが、やっぱりそうだったのかと納得する。
自分より強いというよりも、あの最初の怯え方からして恐らく男が苦手なんじゃないだろうか。
首の傷をつけたやつがもしかすると男なのかもしれない。
俺の憶測でしかないが。
「わかった!約束しよう。俺は桜に酷いことはしない」
そういって小指を差し出せば、俺の顔とその指を交互に見て、遠慮がちに桜も小指を差し出した。
その小さい小指に自分のを絡ませ指切りをする。
「俺は約束は守る男だからそこは信用してくれ」
「……自分でいうと信用性は少し下がる」
「たまに冷たいよな……」
自信を持ってそういえば、とても冷たく返された。
5歳児だよな?冷静にツッコむのは俺の心に刺さるので控えめでお願いしたい。
「桜、俺と家族になろう。俺が桜の父親になる」
改めてそういえば桜はコクリと頷いた。
心がじわじわと暖かくなっていく。
喜びが顔に出てしまうのを隠さず笑えば、桜も俺を見て笑った。
俺と桜が家族になった日は、満月が綺麗な夜のことだった。
◇
次の日の朝。
「起きたかたわけ!」
「……近いな」
「ワン!」
起きて早々アドルフォにデコを突き合わせ怒られている桜。
状況把握が追いついていないのか寝ぼけ眼で呟く桜と桜をバカにするな!とでもいうようにアドルフォに吠えている小狼。
そんな三人を横目に、朝飯を作っているジジイに桜と家族になったことを報告した。
「そうか」
「そんだけかよ」
実にあっさりした返答にもっと何かないのかという視線を送るも、無視された。
ないのかよ。
「桜って酒飲んで大丈夫だと思うか?」
「たわけ、何歳じゃと思っとる」
家族になった証に盃を交わさなければと考えていたのだが、5歳児に酒を飲ませていいものなのか悩みどころであったためジジイに聞けば、ダメだった。
だよな、と思いながらも盃を交わしたい気持ちはある。
「家族になった証に、盃交わすだろ」
「中身はなんでもかまわん。そもそもお互いが家族だと思っておるならそれで十分じゃろうが」
確かにな、と納得する答えが返ってきた。俺は酒飲んで桜はオレンジジュースでやるか。
そうだ、今日の夕飯は豪華にしよう。そうと決まれば狩りと漁に行かなければ。
そんなことを考えていればジジイが火を止め、桜がいる畳の部屋に向かった。
「桜」
なぜかアドルフォと小狼が、ガウガウと狼語で喧嘩をしており桜は布団を畳もうとしてシーツに足を取られてひっくり返っているところだった。
ジジイに名前を呼ばれたので、起き上がりジジイを見上げる桜。
するとジジイは桜の前に座り、何かを差し出した。
「笛……?」
桜は姿勢を正し、ジジイの手から受け取った。
どうやら紐がついた木でできた笛のようだ。
ここ数日木を彫り作っていたのは、その笛だったらしい。
「防犯用の笛じゃ。肌身離さず持っておれ。今度何かあった時はそれを吹けばよい。お主は大声で助けを呼べるような人間ではないからな」
ジジイの言葉に納得する。
桜は、というよりも人によるかもしれないが、咄嗟に大声を出せる人間は少ない。
桜もそちら側の人間だ。
俺も鈍臭い桜には防犯用に何か渡したほうがいいのでは?と考えていたのでちょうどよかった。
ジジイの言葉に頷いた桜がヒモを首にかけた。
「俺が吹いていいか」
「ダメ」
「貸せよ!いてぇ!」
ジジイの笛に興味が向いたのか、笛をマジマジと見ながら言うアドルフォから隠すように笛を握り拒否する桜。
それに怒って奪おうとしたアドルフォの脳天にジジイの手刀が入った。
試しに桜が笛を吹けば、耳から聞こえる音はそこまで大きくないはずなのに、やたら脳内にその音が響いた。なんだこれ。
「その笛はどこにいようとワシとハクには聞こえるようになっておる。居場所もわかる」
「ジジイの言霊か。すげぇ響いた」
「居場所も?」
「あぁ。その笛の音そのものもピアサにとっては不快な音になっておる。遭遇した時は躊躇わずに吹け。逃げる隙ぐらいは作れる」
ジジイの言葉を聞いてさっきのやたら響いた笛の音の正体が判明した。
ジジイの言葉におぉ……!と感心する桜とアドルフォ。
桜の居場所も分かりピアサにも有効な、なんとも優れものな笛のようだ。
その笛があるのは俺としても安心だ。
相変わらず言霊はなんでもありである。
「ハルトネッヒさん」
「なんじゃ」
「ここでお世話になってもいいですか?」
笛を握りしめた桜がジジイを呼び、真剣な顔でジジイの目を見てそう言った。
ここでの生き方を見つけるまではということが引っかかっていたのか、改めてジジイに聞く桜。
俺としては了承以外ありえないが、ジジイのことだ。
嫌味を言わないとも限らない。
「好きにせい。生きるのなら何も言わん」
「ありがとうございます」
「ひひ!よかったな!」
「うん」
俺の予想は大きく外れ、桜に対して優しく肯定の意を示すジジイ。
桜はホッとした顔でジジイに礼を言い、笑いかけるアドルフォに笑顔で応えている。
「やっぱりジジイ桜に甘いよな」
「貴様は酸素を吸うな。二酸化炭素を吸え」
「植物じゃねぇんだよ」
どことなく感じていた俺との扱いの差を突けば、さっきまでの桜への優しさは何処へやら。
立ち上がりまた台所に戻りながら、俺に向かって毒を吐くジジイ。
少しはさっきの優しさを俺に分けて欲しいものである。
その日の夜、俺と桜は盃を交わし正式に親子になった。
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