ばかばっか

キングスマン

ばかばっか


 1+1=15

 馬鹿確定。

 優秀な市民の義務として対象を確保。

 女は男の手首を掴む。

 やはり間違っていなかったと、自分の勘の鋭さに気をよくするも、さてどうしたものかと少々当惑する。


 出社途中、前方に自分と同世代だと思われる二十代半ばの男が歩いていた。

 道行く人は周囲に大勢いたが、その男にだけ引っかかるものを覚えた理由は、彼だけがスーツ姿ではなく、上はキリンの顔がプリントされたTシャツで、下はザリガニに仕立ててもらったみたいに切り刻まれたジーンズだったから──というだけではなくて、言葉では説明できない、非科学的ではあるものの、本能のようなものが自分に告げてきたからだ。

 つまり、彼は──バカである可能性が高いと。

 相手に近づき背中から肩をノックして振り向いた彼に『1+1=』と書いた紙とペンをわたす。

 不思議そうに首をかしげた彼だったが、素直に紙を受けとり素早く問題を解いた。

『15』と。

 まぎれもなく、この男はバカである。


 かつて、バカと呼ばれる概念、あるいは状態があった。

 その定義は複雑で多岐にわたっていたけれども、大まかにいってしまえば、極端に知能が劣っているものを、そう呼んでいたのだという。

 かつて世の中はバカであふれ、優秀なものはごくわずかであったと記録されている。

 少数の優秀なものたちは世界をよりよくするために、あらゆる生命の知能を飛躍的に向上させる光を世界中に放った。

 その試みは成功した。が、全ての知能が向上したわけではなかった。

 全体のおよそ0.01%には効果がなく、それどころかむしろ知能が低下してしまい、つまりバカになってしまったのだ。

 人類のあやまちの全てはバカの手によって引き起こされてきたという。

 二度と愚かなことを繰り返してはならないと、優秀な市民にはバカを見つけて役所に報告することが義務づけられていた。

 バカの見分け方は簡単だ。

 バカは数字に弱いため、簡単な算数の問題を出してやればいい。

 バカは必ず間違える。

 優秀な市民の報告により駆けつけた係員にバカは引き取られ、どこかに連れていかれる。

 それがどこであるかなど気にする必要はない。

 バカがいなくなるのだ。悪いことではない。


 バカな男の手首を掴んだまま、女の当惑はつづく。

 携帯電話を忘れてしまっていたのだ。これでは役所に通報できない。

「ちょっとここで待ってて」

 そういって女は男の手をはなした。近くにいる誰かに携帯電話をかりようとしたのだ。

 だが、次の瞬間、全速力で男は女から離れる。

「──あ!」

 っという間に男は遠くに。

 悲劇を街中に感電させるように駆ける誰かの悲鳴。

 見ると、視界の先には横断歩道の中央で転んだ少女と、その少女をくことを躊躇ためらわない速度で接近する乗用車。

 乗用車の運転手の目線は前方ではなく手に持つスマートフォンに向けられていることが確認できる。

 女は無意識に──誰か!──と祈る。

 幸運にもそれは誰かに届いた。

 バカな男が道路に飛び出し、少女をかかえ、横転を繰り返し、歩道まで転がり込む。

 間一髪の救出劇。

 目前で起きたことを手にしていたそれで撮影してネットにアップすればさぞや人気者になれたであろう、車の運転手はそんなことなど露知つゆしらず、目を正面に向け、走り去った。

 人々からの賞賛を浴びる男に対して、女は不可解な感情を隠すことができなかった。

 信じられない。

 一歩間違えたら自分も死んでいたかもしれないのに、命の危険をかえりみずに道路に飛び込むなんて、優秀な人間であれば間違ってもやらないことだ。

 やはりバカ。バカの考えていることはわからない。だけど──。

 女は感情の置き場がわからない。

 だけど、だったら彼は間違ったことをしたのだろうか?

 男に命を救われた少女は男の手を引き、笑顔でどこかに連れていく。

 一定の距離を保ち、女は二人のあとを追う。


 動物のたくさんいる自然公園にやってきた。

 ここには動物の他にも、いくつかの遊具とテーブルがある。

 テーブルにはチェスが設置され、自由に使っていいことになっていた。

 少女は自分の対面に男を座らせ、チェスを指しはじめた。

 遠目でながめながら、女は首をかしげる。

 少女の駒の動かし方がでたらめだったせいだ。

 ただこれは、少女がバカである可能性が高いというより、単に知識を持ちあわせていないからだろう。

 一方、男の駒の動かし方もでたらめで、これは彼がバカだからだ。

 順番も何もかもいい加減で、一体どうやって決着がつくのかと思っていると、にわかに男は頭を抱え、降参を申し出た。

 少女は両手をあげて、めいっぱい喜びの感情を表現している。

 ほほえましい、以外の感想の出てこない壮観そうかんといえる。

 推測するまでもなく、男がわざと負けてあげたのだ。

 手をふって少女は帰っていく。


 少女と入れ替わるように、男の前に女が立ちはだかる。

 彼女を見るなり、彼は、ああさっきの人だ、という顔をした。

 女は思う。

 あなたはバカだから、これからしかるべき手順を踏み、しかるべき場所まで連れていかれます。

 そう告げるのが、優秀な市民の義務だ。

 きっと彼は不思議そうな顔をするだろう。

 バカは自分のことをバカだと思っていないから。

 すぐそばに公衆電話が見える。まるであれを使えと神から指示されているかのように。

 だが、女は動かない、動けない。

 感情が彼女を引き留めている。その正しさは本当に正しいのかと。

 このバカを通報すると、まるで自分がバカになってしまうような気がした。

「────」

 感情と正義の激しい綱引きの結果、彼女は彼にこう告げた。

「またね」と。

 一瞬、男はきょとんとしたものの「うん」と、どこか嬉しそうにうなずいてみせた。

 あらゆる生命の知能が飛躍的に向上した現代。

 しかし、全体の0.01%だけは、そうなれなかった。

 その中の一人を見逃したところで、明日世界が滅びるわけでもないだろう。

 これでいいんだと、女は口元をゆるめる。

「あの、ところで、一ついいですか?」男はたずねる。

「なに?」

「ちょっと、これ解いてもらっていいですか?」

 男は女に紙とペンをわたす。そこには『1+1=』と書かれている。

 女は苦笑して、ささっと解答を記入して紙を返す。

 そこには『60014』と数字が並んでいた。

「馬鹿確定」冷たい声で男は宣言して「確保」と女の手首を掴む。

「え? え? どういうこと?」

 女は混乱する。

 男はポケットの中から携帯電話を取りだし、耳にあてた。

「僕です。バカをみつけましたので、応援をお願いします。場所は──馬のたくさんいる二丁目の自然公園です。はい、わかりました。これからそこまで移動します。よし、いくぞ」

 男は女の手を引き、きびきび歩く。

「まって、お願いよ。何かの間違いでしょ? ねえ!」

 女の声が、むなしく公園に散った。


 ずっと近くでその応酬を見ていた動物がため息を吐く。

「だからさあ、俺は馬じゃなくて鹿なんだけどなあ……」

 どこかあきらめた様子で、鹿はつづける。

「本当に人間って、バカばっか」



 まめ知識

 地球上に存在する全ての生命に対する人類の割合はおよそ0.01%である。


 おしまい

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