第4話

 ジリジリジリ。


「んっ……ああっ……朝か」


 俺は目覚めしを乱雑に止める。いつも通りの朝だ。ただ起床の時間はいつもよりも30分程早い。俺は自分の身支度を終えて、朝食を取った。


「……あら、今日は早いのね? どうしたの?」


 母親に怪訝がられた。


「ああ……ちょっとね。色々とあって」

「色々って……あんた、部活もやっていないのに何でそんなに早いの? おかしいじゃない」

「色々あるんだよ……色々」


 実の親とはいえ、余計な事は話さない方がいいだろう。幼馴染とはいえ、同級生の女子の世話係をするなどという事、知られたら何かと面倒だろう。親とはいえども、秘密にしておきたい事の一つや二つ、誰でもあるはずだ。何でもかんでも馬鹿正直に伝える必要性はないと俺は思っている。


 ◇


「はぁ……」


 俺は溜息を吐いた。不安だ。新しい事を始める時っていうのは、大抵の場合不安なものだ。


 俺は改めて、隣家である芳月家を見回した。でかい家だ。改めて思う。ここら辺はそれなりに高級な住宅街だ。坪単価も決して安いわけでもないというのに。


 ピンポーン。


 俺は玄関でチャイムを鳴らした。しかし、当然のように反応はなかった。そして、鍵がかかっていた。先に登校している可能性というのも勿論あった。ただ、香音の本当の人間性を知っている人間からすれば、そのような事が起こる可能性は微塵も信じられないのだ。


 ガチャリ。俺は玄関の鍵を開けた。俺はこの時の為に、詩音さんから合鍵を渡されていたのだ。


「失礼します」


 俺は家に上がった。幾度か来た事があるので、部屋の間取りなどは凡そ把握している。


 勿論、香音がどこで寝ているのかも知っていた。香音の部屋は二階の東側にあった。だから俺は階段を上がり、香音の部屋を目指した。


 ◇


 コンコン。


「香音……いるか?」


 俺はノックをする。しかし、返事も何もない。代わりに聞こえてきたのはジリジリジリという、目覚まし時計の音だけだ。間違いない。目覚ましのアラームは鳴っている。しかし、香音はまだ目を覚ましていないと思っていい。


「はぁ……」


 俺は溜息をした。やはり、俺が香音を起こす以外にないようだ。幼馴染とはいえ、同級生女子の部屋に入るのは、彼氏でも何でもないのに、実に犯罪的な匂いがして、気の引ける行為であった。


「香音入るぞ」


 ガチャ。


 俺はドアを開けた。部屋に入ると、何となく、女の子の良い匂いがしてきた。男子にとっては女子の部屋というのは特別だし、神聖なものだ。久しぶりの香音の部屋——そして女子の部屋に入ったが。その事に対して、感慨を抱いている余裕は俺にはなかった。


 今は朝の時間帯だ。夜と違って朝の時間というのは忙しく、そして、貴重な時間であった。流石に遅刻するわけにもいかない。朝は登校や出社で決められた時間があるが、夜の場合、寝る時間などは割と曖昧なもので、融通が利く場合が多い。だから朝の時間は特別に貴重な時間なのだ。


「ぐー……ぐー……ぐー……ぐー……」


 ジリジリジリジリ。以前として、大音量の目覚ましの音が鳴り響いている。その音量は近くにいると思わず耳を塞ぎたくなる程のものだ。これだけ多くの音量だと、でかい家でもなければ近所迷惑にもなりかねなかった。


 ――だが、これだけの騒音が鳴り響いているにも関わらず、香音は以前として熟睡していた。ぐー、ぐー、ぐー。と、可愛らしい天使のような寝顔で熟睡しきっている。香音は当然のように寝る時はパジャマに着替えていた。幼馴染とはいえ、女子のパジャマ姿を見るのはまずい事ではあるが、今はそんな事は言ってられなかった。

 

 俺は耳障りな目覚まし時計のアラームを切る。


「ほら! 起きろ! 香音!」


 俺は香音の肩を揺すり、起こす。詩音さんは毎朝こんな事をしていたのか? いちいち、こんな事をするのは大変な労力だった。乳児の世話をするのは大変だとは聞いた事はあるが、その世話が高校生にもなって続くのは可哀想な事にも思えた。


 詩音さんの苦労を俺は思いやった。


「うっ……ううっ」


 やっとの事、香音は目を覚ます。


「ふう……やっと起きたか」


「こうちゃん……久しぶり。どうしたの? こんな朝から」


 香音は目はまだ虚ろだった。目が覚めたばかりの時、大抵の場合頭が働かないものだ。


「お前のお母さんの詩音さんから聞いてなかったのか? 詩音さんが海外出張で家を留守にするから、お前の世話役を俺がする事になったんだよ」


「へぇ……そうなんだ。そういえば、お母さん、そんなような事を言っていたような」


 段々と香音の頭にも血が巡ってきたようだ。はぁ……よかった。俺は溜息を吐く。


 俺は時計を見る。余裕を持って、芳月家を訪問したつもりがそれでも余計に時間を取られてしまっている事に気づく。まずい……急がないと。


「……香音。そろそろ学校に向かわないとまずい。着替えないと」

「着替え?」


 香音は呆けたような顔をする。なんだ、その顔は。朝起きたら制服に着替えるのが当たり前の事だろうが。

 だが、生活能力破綻者の事だ。どうやって着替えていたのか、想像するに難しくない。


「ちなみに、香音」

「なに? こうちゃん」


 そのこうちゃんっていうのはやめてくれと言いたかった。高校生にもなって、なんだ、その呼び方は。いつまでも子供の頃みたいに。とも思ったが、今はそのような事を言っている余裕がなかった。時間が迫ってきているのだ。


「普段、香音は朝起きて制服に着替える時、どうやって着替えていた? 自分で着替えていたか?」


 普通、こんな質問は現役の女子高生にはしないものだ。普通は朝自分で起きて、着替えを用意して、自分で着替える。普通の高校生にはそれくらいの事は当然のようにできた。


 ――しかし、当然のように香音にその当然のような前提は通用しなかった。


「朝、起きたらお母さんに着替えを用意して貰って、それで着替えさせて貰ってるよ」

「はぁ……」


 臆する事なく、香音はそう答えた。それが香音にとっての常識なのだろう。常識は人によって異なるのだから。自分の常識を相手に押し付けるのはどうかと思ったが。予想通り過ぎて、思わず頭を抱えざるを得ない。


「ちなみに、その着替えはどこにあるんだ? それくらいはわかるか?」

「うん、あそこのクローゼットの中」


 香音はクローゼットを指指す。詩音さんが前日に片付けておいてくれたおかげで、香音の部屋は一応は綺麗に整頓されていた。香音を放置していたら、ゴミや洋服がそこら中に散らばって、きっとゴミ屋敷のようになっていただろう。そうに違いない。


「……開けて良いのか?」

「うん。開けないと制服出せないでしょ。何を言っているのよ」


 当たり前のように指摘をされる。なぜ、自分の身の周りの世話も満足にできないくせに、当たり前のように諭されなければならないのか。なぜ、当たり前の日常生活すら送れない、生活破綻者(ダメ人間)に、当たり前を諭されなければならない。あまりに理不尽ではないか。


「いいのか?」

「……何が?」


 香音は首を傾げる。


「そ、その……必然的にお前の服を俺が見てしまう事に」


 俺はしどろもどろで言う。


「仕方ないじゃない。そうしないと、服を着れないんだから。私、自分で服を着た事がないのよ……」


 問答するだけ無駄だ。こいつは間違いなく、箱入りのお嬢様なのだ。俺達、一般庶民の常識などでは語れない。


 大体、本当の意味で完璧な人間などいないのではないだろうか。有名な科学者が偉大な功績を打ち立てる為に、家族関係を蔑ろにして一家が離散してしまう、なんて場合もある。


 時間や資源は有限だ。何かを手に入れる為には何かを捨てなければならないのは確かだ。こいつもまた、外の世界で完璧な人間と評される為に、それ相応のものを捨てているのだ。それの結果としてこいつには生活能力が完全に破綻しているのだ。


「はぁ……」


 俺は何度目かもわからない溜息を吐く。普通の感覚であるならば、異性に着替えを手伝わせるなど、ないはずだ。あり得る事ではない。まともな異性だと思われていれば、間違いなく、そんな事ができるはずがない。

 ――つまりはこいつにとっては俺は異性ではないんだろう。ただの幼馴染のままだ。男女の関係だとは目されていないのだ。


 それは悲しい事なのか、嬉しい事なのか、今の俺にはわからなかった。


 まあいい、とにかく、金を貰って引き受けている以上、依頼は全うしなければならないだろう。俺は覚悟を決めてクローゼットに手をかけた。






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