「私も、お姉ちゃんみたいに芸能活動がしたい」

 高宮千生いつきがその人生で初めて、他人から促されることもなく、そんな自身の希望を口にしたのは、西武ドームのコンサートから数日後のことだった。

 「千生もスカウトされたの?」緑里みどりのことが頭にあった明里あさとが訊ねた。

 「ううん、全然。何もかもこれから」

 「お姉ちゃんの事務所とはもう何年も関係がないから、当てには出来ないよ」

 「分ってる。そんなつもり全然ないよ。自分で何とかするから。」

 「芸能活動って、女優になりたい? それとも歌手?」

 「アイドルになりたいの」

 千生は瞳を輝かせながら、訴えかけた。

 緑里が芸能活動をしていた頃の主な仕事は女優だった。時々、ミュージカルで歌って踊ることもあったが、本格的なものではなく、あくまで演技の仕事で認められていた。当然、芸能活動ならば千生もそちらの道を夢見ているのだろうと勝手に思っていた。

 明里も菜摘なつみも、アイドルへの希望に対して、どう言葉を続けたものかと考え込むことになった。夫婦揃って、アイドルというものを些か軽んじていないと言えば、正直嘘になる。二人にとってアイドルとは、よく正体のわからない「ぬえ」のようなものだった。アイドルが何かということは、よく分かっていない。大して考えることもなく、四十年以上生きてきたのである。考えなかったのは、その必要もなかったからだった。

 「どこかのグループに入りたいの? それともソロで活動したい?」取り敢えず菜摘が口を開いた。

 「うん、私、どっちでもいい。とにかくアイドルになりたいの。…この前連れて行ってもらったコンサート、本当に凄かった。興奮して、私、心を持っていかれちゃった。あんなふうになりたい。ステージに立って、スポットライトを浴びて、大勢のお客さんの歓声に包まれたい。…夢が出来たの、自分もそうなりたいって。…いいでしょ? 私も芸能活動をして。ね、お願い」

 千生は人生初めてというくらいの勢いで一気にまくし立て、両親をたじろがせた。

 姉の緑里が五年も芸能活動を続けていたのに、妹の千生にそれを禁ずるのは理屈が通らない。高宮夫婦は、千生の芸能界への挑戦も容認、いや、応援しない訳には行かなかった。そこまではいい。しかし「アイドル」とは…

 明里も菜摘も、これまで人並にアイドルを楽しんで、「消費」してきた人間ではあった。しかし、それが直截ちょくせつ身内に関わることとなれば、また話は別なのである。

 緑里のことがなければ、「ドームでライブを開けるようなトップアイドルになるなんて、生易しいことじゃないよ」とでも諭して諦めさせていたかもしれない。何しろ、なりたいという思いだけで、何の予定が立っている訳でもないのだ。緑里がスカウトされたときは十歳だった。明里が菜摘を説得するときは偉そうなことも言ったが、一生の仕事にするわけではなく、大きくなったらやめるだろうと軽く考えていた面もあった。しかし、千生は十二歳なのである。緑里の時とは違う。

 千生の言葉は、子供らしい言い分と言えばそうかも知れない。しかし、これまであまり自分から何かを求めない娘だった千生が、この世に生を受けて十二年、両親に初めて見せた情熱が、芸能界、就中なかんずくアイドルに対する執着だった。

 娘のかつて見せたことのない強い意志表示を、夫妻は驚きや頼もしさと共に、些か複雑な思いで眺めていた。それは反対というのではなく、戸惑いであった。娘がここまでアイドルにこだわる理由が、分からなかった。芸能界はまあいい。何故、その中のアイドルなのか。家族で同じコンサートを観ていても、その受け取り方は、それぞれ大きく異なっていたのであった。

 しかし菜摘は思い直した。別に理解できないならそれでいいではないか。理解できないこと、自分の趣味に合わないことや興味を惹かないことを否定してかかるのはよろしくない。それは自分たち二人が棄てた土地の人間と同じことだ。大切なことは、自分の娘がそれを気に入って、その道に進みたいと思ったという事実ではないかと。反社会的なことでもなければ公序良俗に反するわけでもない。アイドルになって誰が迷惑を蒙るだろうか。

 「お父さん、いいわね?」今度は菜摘が、明里に向って同意を促した。愛妻から詰められては、明里もはらくくるしかなかった。

 「え? …う、うん…。何をどうしたらいいのか分からないけど、やってみたら? 出来ることは応援するよ」

 「お願い、お姉ちゃんは当てにしないで。私、自分の力で何とかしたい」

 「それでいいの?」

 「うん」

 金であろうとコネであろうと、あるものは何でも使ってチャンスを掴むべきなのだが、本人が望むならそうしようと明里は思った。そのうちに、嫌でも分るようになるだろう。

 満足そうに自室に戻って行った千生の、その後姿うしろすがたを見送って、明里は反省したように言った。

 「こんなときに、何も考えずに子供の背中を押してやれないのは、やっぱり昭和の人間だからなのかな」

 「どうなんだろう…。何でも子供の言いなりになるのがいいことだとは思わないけど。…周りに芸能人なんていなかったもんね…」

 既に娘が一人、嘗て芸能界に籍を置いていた親とも思えぬ言い方であった。


 千生は姉のひそみに倣い、自分もスカウトを受けるべく、土日祝日、姉が掴まった109の前を中心に、センター街、東急ハンズ、パルコ、公園通りから渋谷駅というルートを何度も往復した。日を改めて原宿や新宿にも足を延ばし、およそスカウトされやすいとされる場所は大抵、それも幾度も訪れたが、何故か一度も機会に恵まれることはなかった。小平に住む千生にとっては、都心に出るのは、毎回ちょっとした遠距離通勤のようだった。しかし、電車賃も莫迦ばかにはならない。

 この期に及んでも尚、受け身の手段を取るのは、人見知りの激しい千生らしかった。菜摘はそんな千生をしたいままにさせていた。一体どれほどの覚悟があるものか、見極めようと思ったのである。

 流石に千生も悟った。

 受け身でいても駄目なのであれば、自ら行動を起す他はないのである。


 千生は、西武ドームで観た超人気アイドルグルーブが行った定期の募集に応募して、一次書類審査落選となったのを皮切りに、オーディション雑誌を購読し、募集していると知ると、それこそあらゆる芸能事務所に手当り次第に応募書類を送付した。

 2013年初頭、その年中学二年になる千生が、唯一合格を果たした芸能事務所も、即、本体に所属して活動できるという訳ではなく、そこから系列の子役養成所に配属されることになった。ていのいい、芸能スクール流しである。オーディションの上位合格者には、レッスン料の免除や減額もあったが、千生には適用されなかった。

 レッスン料、交通費、その他諸々、千生は少なくはない経済的負担を親にかけることになった。それだけの犠牲を払っても、千生がしがみつこうと思った理由はただ一つ、そこだけが、自分を合格させてくれた場所だったからであった。謂わば、芸能界という天上から千生に向って降ろされた、細い一本の蜘蛛の糸であった。

 千生が他に行くところはなかったのだ。

 

 港区西麻布にある養成所は、遠かった。学校が終ると直ぐに制服のまま西武新宿線に乗り、終点ひとつ前の高田馬場で山手線に乗り換える。原宿でまた東京メトロ千代田線に乗り換えて、乃木坂駅で降車し20分ほども歩いてようやく辿り着く。

 養成所に到着すると、レッスン着に替え、講習が始まる。汗と油性ワックスの匂いが残る教室で、瞳をギラつかせた年齢も性別もバラバラな大勢に混って、挨拶や言葉遣いといったマナーに始まり、発声、歌、ダンス、芝居を複数の講師から叩き込まれた。それは、中学生の千生にとって部活動と同じだった。ただし、周囲は友ではなく、皆ライバルなのである。チームとして切磋琢磨して共に実力を上げ高め合ってゆくのではなく、自分ひとりで実力を上げ、オーディションでは、所属する事務所の者を含むあらゆる他の応募者を蹴落とさねばならないのである。

 レッスンと並行して、オーディションの連絡が毎日のようになされた。そのまめさは、さすがに大手事務所の系列だけのことはある。それに、弱小の事務所から受けるよりは、多少なりとも有利に働いて然るべきだった。

 しかし、その特典もまた、千生には無縁のものだった。千生は蹴落とす側ではなく、常に蹴落とされる側だった。

 そのような日々に、千生はスマホに毎日転送した動画を入れて、電車の中で視聴し、元気を貰っていた。当時一世を風靡していた朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が、同級生の間では大人気で、千生も毎日夢中になっていた。岩手県の北三陸からアイドルを目指して上京した主人公天野アキが、自分たちのグループの正式なデビューまでは、先輩アイドルグループのアンダーメンバーとして、舞台の奈落でいつでも代役に立てるように毎日稽古している姿を、まるで自分のことのように見ていた。


  暦の上ではディセンバー でもハートはサバイバー

  去年の私はリメンバー ただよう心はロンリー

  歩き疲れて 膝が笑うわ


 千生はこの歌をよく口ずさんだ。


 ようやく養成所に通い始めて、芸能活動を始めた千生だが、半年たってもそれ以上の進展がなく、肥後県人らしく短気な明里は、日々、苛々が募っていた。

 「どうして緑里の時とこんなに差があるんだ。千生の何がダメだっていうんだ」と、その夜はとくにご機嫌斜めだった。

 リビングで晩酌のビールにつき合いながら、相槌を打つのにも疲れた菜摘は、些か呆れ顔で「明里、あなた分ってないのよ。緑里みたいに順調なのはどんなにレアケースなのかっていうことが。性格の問題もあるし、運やめぐりあいって、重要なことなのよ、人生と同じで。緑里の場合は奇跡的にみんなうまく回ったの」

 「運やめぐりあい…」明里は自分の生まれ育った家や土地を思い浮かべた。千生には、親が持つその運の悪さが付き纏ってしまったのだろうか…

 「千生だってそんなに不遇とは言えないんだからね。とにかく、一度はオーディションに合格して、養成所に通ってるんだから」夫の感慨など気にもかけずに菜摘は続けた。

 「千生が可哀想で、もう見てられないんだ。あんなに何かに懸命な千生は見たことないよ。ステージに立ってスポットライトを浴びたいって、眼をギラギラさせてる。…毎日養成所やオーディションに通って、きっといろいろあっても、僕たちには辛い表情は見せないようにしていて…。親として何か出来ることはないんだろうか…。金で何とかなるんだったら…」

 「そんなお金、家にはないわよ」

 「会社の金を使い込んだっていいよ」

 「やめてよね。アイドルの親が犯罪者だなんて洒落にもならないから」一体夫はどこまで本気なのか、妻には判りかねた。大体、どこの誰に幾ら渡すというのだろうか。

 「本当に、緑里がいた事務所に頼む訳にはいかないかな。なんとかなるんじゃないかな…」

とそこまで言ったときに、脱兎のごとく飛び込んできたのは千生だった。

 「それは絶対やめてよ! そんなことしたら、パパのこと嫌いになるから。二度と口きかないから」

 「千生…。どこから聞いてた?」

 「お姉ちゃんの事務所っていう言葉が聞こえたの。それだけは本当にやめてよね。自分の力で掴み取りたいんだから。お願いよ」


 養成所に入って一年弱、応募回数がそろそろ三桁に届こうという頃、ようやく、舞台の仕事が千生にひとつ決まった。むろん端役ではあったが、公演のポスターにはきちんと名前入りの写真が載った。

 オーディションとは落ちるもの、という哀しい観念が出来始めていた千生の安堵はいかばかりのものだったろうか。――

 今回の起用を足掛かりに、これからは着実に仕事が入るだろうと千生は信じた。むろん、今度の舞台で結果を残すことが必須ではあるが、そのための努力を惜しむつもりはなかった。

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