高宮千生いつきという人間は、基本的には自分以外に関心がなく、そう意識しないと他人に注意を払えないところがあった。本当は協調性などあまりないのだが、義務で合わせていて、また努力でなまじそれが出来るだけに、周囲から期待されるところがあった。いっそ本当に周囲に合わせることのできない性分であれば、周囲も諦めてまだ楽だったかもしれない。

 千生はそういった日々が苦痛でたまらなかった。学校という、同調圧力―という語彙はまだ持たなかったが―が何よりも力を持つ社会から逃げ出したい、こんなところで終りたくない、と小学生ながら思っているような子供だった。しかし、どうすれば、そしてどこに、逃げ出せるというのだろうか?


 緑里みどりから芸能界引退のよく訳の分からない答えを聞いた小学六年生の時、千生にとっては重要な出来事が二つ、続けて起った。

 市が主催する作文コンクールで、千生は最優秀賞を取り、講堂での発表会で全校生徒から万雷の拍手を受けた。大勢の人間から称賛を浴びるという悪魔的な魅力を、千生は初めて経験したのである。実に気分が高揚し、自分が別人になったような気持がした。

 千生の文才は、おそらく母親の菜摘なつみから授かったものなのだろう。懇意にしてもらっていた教授が大学卒業後の教え子の事情を知り、菜摘に翻訳の下訳のアルバイトを何度か回してくれた。菜摘は育児をしながら完璧に仕上げ、家計を助けていたことがある。英語力はむろん、翻訳にはそれ以上に必要だと言われる卓越した日本語力が、教授から評価されていたのである。その娘である千生には小学生ながら、テクニックとしての文書構成力に加えて、きわめて冷静な客観的な見方や論理的な思考と、それに相反するようなユニークな発想力が備わっていた。また、暗記も得意で、小学校四年生の時には「百人一首」を諳んじていた。ただ、その暗記力に慢心していたのか、千生は常に、緑里と比べると勉学に少々、ムラがあった。

 姉の緑里はお転婆で、幼い頃は手のかかる子供だったが、千生は対照的に、あまり自分の要望を強く表明することのない、ほうっておくといつまでも一人で好きなことをして遊んでいるような大人しい娘だった。読書の他には、子供向けのアニメだけでなく、家にある映画のソフトもよく観ていた。お気に入りの映画は明里あさとが購入したセルDVDの「ムトゥ 踊るマハラジャ」だった。日本ではとてもお目にかかれないような原色のメイクを施し、衣装をまとったヒロインのミーナに憧れ、A・R・ラーフマン作曲の心躍るスコアに毎回心を弾ませた。そんな自分ひとりの時間の中で、独自の感性を育んでいたのだろう。

 

 同じ頃、明里の取引先の伝手で、高宮家は家族揃って、西武ドームで開催された当時誰もが知る超人気アイドルグループのコンサートを観ることが出来た。劇場で映画を観賞することとはまた違う、千生にとっては何もかもが初めての驚嘆すべきイベントだった。遥か遠くのステージを斜めから見下ろすようになった中央付近のスタジオ席からは、肉眼で観る演者たちは豆粒どころか米粒のような小ささで、表情などは全く判別のしようもない。ステージ脇に巨大スクリーンが設置され、舞台の一部始終が同時に写されていたが、千生は生のパフォーマンスにこだわって、それでも時々は細部が見たくて、モニターと演者たちを交互に慌ただしく首を振りながら見入っていた。

 観客の生理をよく把握した、緩急ところを得たセットリスト、一糸乱れずに点灯する照明群、スモークやレーザーを使った多彩な演出、それらに助けられた、黄金色のド派手な衣装を纏った演者たちの観客を魅了する力強く熱いパフォーマンス。ライブにありがちの、低音ばかりがやたらと響き、始終ファンの歓声が騒音のように鳴っている、純粋に音楽を楽しめる環境とは言い難かったが、いつしか千生は、それらを含め、会場全てが一体となった異様な熱気に呑み込まれていった。

 コンサートが終っても千生は興奮冷めやらず、放心状態だった。帰宅して床についてもその夜は寝つけないほど興奮していた。何か熱に浮かされたようだった。それから何日も余韻を反芻し、どうしてこんなに元気をもらったのだろうと考えていた。自分がステージに立って、あの夕刻の歓声に包まれてみることを妄想した。

 そして千生は確信した。カラオケボックス通い、姉の芸能活動、作文の発表…。これまでバラバラだったパーツが、ひとつのパズルのピースのように繋がったと。

 自分はアイドルになるために、これまで生きてきたのだ。――

 その一方、千生にとってはまた、アイドルへの憧れは、不如意な小学校生活という現実からの逃避行の、漸く見つけた目的地でもあった。その行き先が何故アイドルなのかと問うのは、電撃にうたれたような千生にとってはあまりにも自明で自然なことだった。そもそも、強く惹かれてしまったことに、何か、格別な理由が必要なのだろうか。

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