あたしのむすめ

鈴木満ちる

あたしのむすめ

「お母さん、この箱、何が入っているの?」

 さやかが持ち出してきたのは、古びた桐の平べったい箱だった。私自身、その小さい桐の箱を見ても、それがなんなのか、わからずにいた。

「何かしらね、開けてみて」

 むすめのさやかは今年十四歳になる。指がとても細くきれいだった。それは夫ゆずりで、まるで猫の足のように短く太い私の指とは正反対だった。

 ほっそりとした指に古びた桐の箱は不釣り合いで、私は妙な胸騒ぎがした。この箱を開けてはいけない、そんな気さえした。しかし、美しい指で箱を掲げ、開けられないかと格闘しているさやかの前で言うのはためらわれた。結局、私は口を半開きにしたまま、彼女の指の動きを目で追っていただけだった。

「ねえ、みて、お母さん。うわあ、きれい」

 さやかに促されて私は、おそるおそる箱の中身を覗き込んだ。さやかの手によって開けられた桐の箱に入っていたのは、パステルグリーンの薄紙を表紙にした小冊子と、英語で「YARDLEY」と書かれた縦長の、紫をベースにした小さなパッケージだった。さやかはそれに興味を示し手にとって、中身を取り出した。

 金色の蓋に、やや黄味がかった液体の入った香水瓶。パッケージ同様「YARDLEY」と書かれたラベルが貼られ、小さな文字で「ENGLISH LAVENDER」と書かれてある。

 さやかは蓋を取り、しゅっとスプレーを押した。少しきつめの独特の香りは、次第に清楚な、そして切なさを感じさせ、遠い記憶を喚起させるものへと変化していった。

 そうだ、この切なさ。

 世界の色が変わるかのように、ラベンダーの香りは私の心の奥底で眠らせていた過去を呼び起こした。ああ、この感情を、私はこの箱の中にこの香水瓶とともに押し込め、十七年にわたって封印してきたのだった。


 2000年、冬。年末も差し迫ろうかと言うころ、私はやたら騒がしく、うるさいくらいに浮ついた街を歩いていた。そして、その日に知らされた、自分の置かれた少しばかり悲しい状況にいささかうんざりしていた。母は今回の結果に気丈な振る舞いを見せつつ、そっと涙を拭うに違いない。その姿を想像すると、どん底に落とされた気分になった。母は私に同情していると同時に、罪悪感を抱いていた。私はそれが痛いくらいに分かっていた。だから、今回の結果に「またか」と思う一方で、母に知らせるのを躊躇した。

 冬休み中の子どもたちが、奇声をあげて、私の横を駆け抜けていく。

 ふと映画の看板が目にとまった。それほど美しくはないが、個性的でふっくらとした顔だちの黒髪の女性が、幸せそうに微笑んでいた。私の周りでも評判が高い、デンマークの監督の作品だった。

 不意に弟のことを思い出す。奔放な彼は、この映画についてどんな感想を抱くだろう? 両親の口癖は「潤が犬なら、勲は猫ね。勲はいつもどこにいるか分からないし、人の言うことに従わないもの」だった。

 特に母は目の離せなかった弟より、しっかり者だと周りから評価されていた私を頼りにしていた。私もそれに応えるのが自分の役割だと思い込んでいた。

 自分の置かれた状況に苛立っていた私は、冷やかし半分で、ぶらりと入ってみた。

 映画館はたいそうな混雑ぶりで、ほぼ、満席だった。過度なくらいのヒーターに息が詰まりそうになった。

 重たいピーコートを脱いで、紅茶のペットボトルを座席スタンドに置く。いよいよ館内が暗くなり、映画が上映されはじめた。

 映画はカリスマ的な人気を誇るアイスランドの歌姫が、無実の罪で死に追いやられる盲目の母親を演じ、大変に話題になったものだった。

 映画の中の母親は、息子のために、自己犠牲を厭わない。現実がどんどんと、弱者であるはずの主人公を追い詰め、物語はより凄惨な方向へと舵を切る。

 だが、主人公は現実の悲惨さから目を背ける瞬間にだけ、美しい色彩の中でみんなから愛され、踊り、生きていることに歓喜する。

 しかし、最後には冷徹なまでに、現実から突き放された結末を迎えてしまう。

 館内では、途中から観客のすすり泣きが聞こえてきた。しかし、私は呆然として、座席に張り付くように座っているだけだった。

 私は無償の母なる愛を映画から受け取り、心から咀嚼し、受け入れることができなかった。母親という存在に、その時の私が断絶を感じていたからかもしれない。主人公の言動を、映画の発するメッセージを理解しようとして、結局、拒絶した。そしてこの映画監督の意図するものを想像し、混乱したのだ。

 私は映画館を出た。頭が痛くて割れそうだった。少しばかり吐き気がして、女性二人組の「いい映画だったね」と言う言葉が胸に突き刺さった。耳を疑った。

 ざわざわと、映画館から出てくる人の群れに押され、大型のエレベータに乗り込んだ私は、ふうっと息をつく。

 人々の熱気がこもるエレベータの中で、とほうもなく小さな存在にされたかのような心細さを感じた。

 エレベータが地上に到着し、解放された時だった。

 ふと視線をあげると、同じエレベータに乗っていたのか、雑踏の中に見覚えのある後ろ姿を見つけた。

「池上さん?」

 黒く腰にかかるほどの艶やかな長い髪が雑踏の中で揺れ、ほっそりと整った顔がこちらに振り向いた。


 映画館からほど近い喫茶店で、私と池上瑞穂は向かい合って座っていた。純喫茶という言葉がぴったりくるシックな店内は、やや薄暗く、コーヒーの香りで満ちていた。店内に客はまばらだった。

「珍しいところで会ったね」

 池上さんはそう言って、硬い笑みをこぼした。くりっとしたアーモンドの瞳は、くるりとしたまつげで縁取られていた。池上さんは端正な顔立ちをしていた。それが、とっつきにくい雰囲気を醸し出していると私ははじめて気がついた。

「そうだね」

 私もそう口にするだけで、会話が途切れる。

 池上さんと私は、同じ大学の文学サークルに所属していた。だが、彼女がサークルに顔を出すことはほとんどなかった。池上さんがサークルに入ってきたのは二回生半ばからで、二回生同学年の私たちからも少し距離があった。サークルは同好会の形をとっており、文学好きが集まって年に何度か小冊子を出し、一冊の本をみんなで読み、それぞれの書評を述べるなどの活動をしていた。

 この映画もサークルのみんなが一斉に素晴らしい作品、母の愛だ、と泣き、称えたものだった。

「ホットコーヒー、お二つになります」

 質の良い黒のベストにパンツ、ショートポイント襟、白さがまぶしいくらい、ぴっしりとアイロンがかけられたシャツを着て、白髪まじりの口ひげをたくわえた瀟洒な雰囲気を醸し出している店のオーナーが、曳きたてのコーヒーを運んできてくれた。

「いい匂いだね」

「そうだね」

 さらさらと砂糖を、とろりとしたミルクを注ぐ私とは違って、池上さんはブラックのままのコーヒーカップに視線を落とし、口を開いた。

 咀嚼しきれない映画の後味の悪さと孤独感を誰かに共有して欲しくて池上さんに声をかけ、喫茶店まで連れてきたけれど、ぎくしゃくとした空気に私は少しばかりいたたまれなくなった。あのまま、帰ればよかったかもしれない。

「ねえ、佐原さんはあの映画、どう思ったの?」

 不意に池上さんがコーヒーをすすりながら、口を開いた。

「え…そ、そうだね。なんだか後味が悪くて……理解しづらかった」

 私はどこまで話せばいいのか、彼女との境界線を探りつつ、言葉を選んだ。

「最後のシーン、酷かったね」

 池上さんは苦みのある漆黒の液体に視線を落とし、ぽつりと呟いた。カップからはまだ湯気が立ちのぼっていた。

「あんな終わり方はなかったよね。私には、主人公のセルマが息子のジーンのことを本当に愛していたとは思えなかった」

 唐突な池上さんの言葉が私の心をひっかいた。

「どうして、そう感じたの」

「セルマの行動は自己満足にしか見えなかった。子供のために死んでいく自分に酔っているだけ」

 私はぐっと身を乗り出して、池上さんのアーモンドの形をした瞳を見つめた。この子面白い。その瞳は黒く澄み、白目との境い目がくっきりとしており、虹彩がきれいな形で円を描いていた。その瞳を見て、私はこの子ともっと話がしたくなった。その気配を察したのか、するすると池上さんの言葉は口を突いて出てきた。

「監督はあんなふうに生きて死んだセルマを見て、涙している観客を笑っているようにさえ思えた。監督は、女の人やお母さんがきっと嫌いなんだよ」

 映画の中にあるはずとされた母の愛、自己犠牲の尊さへの感動を、彼女は持っていなかった。彼女はそれを冷徹にそして完全に否定した。

 それがその時の私には妙に心地よかった。

 

 その後、池上さんとは小説や映画の話をした。徐々に二人の間にあった堅苦しさは消え、会話も弾んだ。

 連絡先を交換し、最後に手を振って別れた。その日の落ち込みを一瞬でも忘れさせてくれた池上さんに、心地良さを感じた。新しい刺激をくれる彼女は、ほかの友達とは違う感覚を抱かせてくれた。

 帰宅して風呂からあがると、

「今日は楽しかった。ありがとう」

 と、池上さんから短いメールが届いていた。

 ふと思い立って、本棚から文学サークルで自費出版している小冊子を取り出してみた。大学近辺の文房具店で両面コピーし、手作りで製本したささやかな本だ。ぺらぺらとページをめくった。

「あった」

 池上さんの書いた話が載っていた。お風呂上がりだった私は、お気に入りのふかふかなパジャマを身にまとい、髪の毛をドライヤーで乾かしながら、文章を目で追った。

 ある出来事のせいで死ねない体になってしまったむすめが、愛する人の子供、孫、その子孫を、時を超えてずっと見守り続ける物語だった。ホラーの要素がありながらも、切ないジュブナイルの香りがする。そのむすめが私の中で、池上さんとだぶった。きっとそのむすめもくっきりとした虹彩の瞳を持っていたに違いない。


 彼女は忙しいのか、あまり大学にもきていない様子だった。それでも単位は落とさず、特に所属する英文学科ではそれなりの成績を収めていることを友達からまた聞きした。

 私は積極的に携帯で彼女にメールを送った。

 サークルにおいでよ、こんな本を読んだよ、こないだかわいい猫がいたんだよ。

 そんなたわいもないことばっかりだったけれど、池上さんは時間がかかっても返信してくれた。 

 私は少しずつ調子に乗って、池上さんとの距離を縮めていった。

 2001年初頭の冬休みを終え、サークルに顔を出しにくいと言う池上さんをなかば強引にサークルに連れていき、久しぶりに会うサークル仲間との間を取り持つなど、いらぬ世話を焼いた。

「池上さんって、あんまり顔を見せないね。協調性ないの?」

 小さな埃っぽい部屋で、珍しく顔を出した池上さんを中心にした輪ができあがりつつあったなか、ずけずけとものをいう仲間の一人が、いつもどおりのぶしつけさを発揮した。一瞬、その場の空気が凍り付く。

「そうね。バイトと勉強が忙しいから」

 池上さんは投げかけられた言葉をかわすと、すぐに無邪気にはしゃぎ、話題を変えた。まるでなにごともなかったかのように。

 

 池上さんは家のことになると、口ごもる傾向があった。言いたくない事情があるのだろう。

 池上さんの携帯に、お母さんからの電話が入ってくる回数が多いのを、私は気が付いていた。池上さんのお母さんは携帯を持っていないようで、いつも家の電話から直接かけてきた。

 ある時、二人でランチをしていると、池上さんの携帯が鳴った。私たちはおしゃべりに熱中しており、最初は着信音に気づかなかった。それでも何度も鳴るので、池上さんは仕方なく携帯を取り出し、ぷつっと電源を切った。

「でなくて大丈夫なの? お母さんからでしょ? 急用かもしれないよ」

 問いかける私に、池上さんはにやっと笑いを浮かべた。

「大丈夫、大丈夫。最近は滅多に顔を合わせないから、あれこれ詮索もされなくなってきたし。急用なら大学まで連絡してくる人だよ」

「そんな……お母さん、きっと心配しているよ」

「佐原さんのお母さんはそうだろうね。でも、うちの母親は違うの。自分が寂しくて、不安なだけなの」

 ぴしゃり、と拒絶するかのように、池上さんから言ってのけられた。

 ざわめきがあふれるフリースペースで、私は真向かいに座った池上さんの顔をじっと見つめた。

「よかったらさ、今日、うちに泊まらない?」

「え?」

 池上さんは私の提案に驚いていた。池上さんは自分のテリトリーを守りたがり、物理的にも精神的にも距離をとり、滅多に人を自分の近くに寄せ付けようとしない。

 だからこそ思い切って私は池上さんを誘った。彼女が警戒しないようにと言葉を続けた。

「昨日、実家から野菜や冷凍食品がたくさん届いたの。それに貰い物のお酒もあるし、ひとりじゃ消化しきれなくて。一緒に鍋をやってくれたら助かるなあ」

「お鍋? いいねえ。ほんとに行ってもいいの? あ、でも、バイトが終わってからになるんだけど……」

「もちろん!」

 私たちは顔を見合わせて、けたけたっと笑った。

 ギギギ……っと、池上さんの心の扉が少し開く音がした。


「わあ、すごくきれいな部屋だねえ!」

 バイトを終え、駅で待ち合わせをした池上さんは私の部屋に入るやいなや、おおげさなくらいに驚いてみせた。

「佐原さんって、きちんと整理整頓しているんだねえ。マンションも立派だし、私の部屋なんて、めちゃくちゃ汚いよ」

「そうかなあ」

「この写真、ご家族?」

 机の上には、大学に入学した当時の家族写真を飾ってあった。スーツをぴっちり着込んだ父、白いシャネルスーツを身に纏った母、学生服をだらしなく着て、少し拗ねたような顔をしている弟。そして黒のスーツにオフホワイトのブラウスの私。

「仲、良いんだね」

 羨ましげに池上さんは写真をじっと見つめた。

「そうだね……」

「こっちもだね」

 その写真は家族でピクニックに行った時のものだった。蓋付きウィッカーバスケットに母お手製のサンドウィッチ、からあげ、サラダなどが詰め込まれていた。おどけて見せる弟に、気恥ずかしげにしている父、カメラに向かって微笑みかける母、母の肩に寄り添う私。

 こと、と写真立てをおいて、池上さんは私に言った。

「こんな家族、私も欲しかったな」

 失敗した。写真は片付けておくべきだった。

「……そうでもないよ。弟は勝手だし、母は心配性だし……」

「そうなんだ。弟さん、面白そうだね」

「大変だよ。いつも連絡がつかなくて、どこにいるか、分からないの」

「へえ……でも、ほんと、いいお部屋だね」

 池上さんが私の機嫌を取るかのように、にっこり笑ってみせた。

 その笑顔を見て、私はほっとした。

 過保護とも言える親のおかげで、私の住まいは南向き、新築、オートロックのレディースマンションの十階にあった。室内はフローリングで、ゆったりと設計されたトイレとバスは別々。機能的に造られたシステムキッチンも備わっている。真っ白な壁と優れた防音性は、私も気に入っていた。壁には本棚があり、お気に入りの文庫や新書、写真集やビデオをずらりと並べていた。

 部屋をきょろきょろと見渡す池上さんの様子に嬉しくなって、私は彼女を「こっちに来て」と、バルコニーの方へ呼び寄せた。からからと窓を開け、二人で外に出てみる。十階ともなると、吹きつける風はきつく、池上さんの艶やかな黒髪が川に流れる生糸のように、ばさばさと舞い上がった。

 やや高台にあるマンションのバルコニーからは、大学のあるS市内を超えて、O市の中心街のネオンも見渡すことができた。

「夜景がきれいだろうなあ」

「うん。ここに決めたのも、景色がよかったっていうのもあったからなんだ。夏になったらここで夜景を見ながら、いっぱいやると気持ちいいよ」

「いっぱいやるって、佐原さん、おじさんみたい」

「へへ。夏になったら、Y川やT神橋の花火も見えるんだよ。そのときは、一緒に見ようね」

「楽しみにしてる」

 だんだんと池上さんと仲良くなれている。私はほんのりとした幸福感を味わった。

「ゆっくりしてて。鍋の用意するから」

「私も手伝うよ」

「そう? ありがとう。じゃあ、お野菜切ってくれるかな」

「わかった」


 その日の夕餉は、ピェンロー鍋にした。レシピは妹尾河童のエッセイから頂戴した。白菜と豚バラ、とりモモ肉、春雨をしいたけの出汁で煮こんだものだ。簡素だが野菜がたっぷりとれる。

 もらい物の安いワインやコンビニで買いだしてきたチューハイやビールと一緒に、私たちは、あつあつの鍋で舌鼓を打った。

 池上さんは細い見た目に似合わず酒豪だった。

 池上さんは意外なことに少年漫画好きだった。お兄さんの影響があったの、とはにかむが、次第にお酒が入ってくると、ある漫画の登場人物について延々と語りはじめた。

「ブローノ・ブチャラティみたいになりたい」

「ブチャラティのためになら、死ねる」

「ブチャラティは肉体が朽ちていくのを覚悟しながら、みんなのために戦ったリーダーだったんだよ……あんな先輩や上司欲しい……ついていきたい……」

と、「ブローノ・ブチャラティ」への賛辞を繰り返すだけの機械になっていた。

 私は私で、大好きな五人組アイドルグループのライブDVDを再生し、ヒットチャートに入っていた曲を二人で合唱した。

 調子に乗って、私たちはしたたかに飲み、騒ぎ、次の日には揃って、ひどい二日酔いになってしまった。

 彼女といると心がわきたった。

 彼女といると解放され、自分が好きになれる。いやなことや、喉に引っかかる骨のようにこびりついている憂さも忘れられる。

 彼女の一挙手一投足は私を振り回し、刺激を与えてくれた。彼女の視点は非常に面白く、私にとっては目が覚める思いがした。

 もっと彼女と一緒にいたい。もっと彼女の顔やしぐさを見ていたい。ふとした瞬間に彼女のすこし低い声や、細いすらりとした指を思い浮かべた。


 サークルで、ちゃんと印刷した本を出そうと言うはなしになったのは、一月末のことだった。

「せっかく文学サークルをやっているのだから、『コミティア』に出てみよう」

 ほぼ、幽霊部員となっている会長に代わって、しっかり者で知られるサークルの副会長が提案したのだ。

「六月の『コミティア』なら時間にも余裕もあるし、少部数なら印刷できるだけの部費もあるしね。各自、書きたいものとページ数を決めてきて。ちなみに締め切りは五月末日だから」

 その日も、池上さんはサークルには来ていなかった。だから私は副会長の告げた内容と、私からのお願いをメールにして送った。

『一緒に小説を書こう』


 しばらく池上さんからメールの返信がなかった。最近は、メールが比較的、速めに返ってくることが多かった。私は不安になった。

 彼女にとって迷惑だっただろうか。面倒だろうか。いや、きっとバイトで携帯の電源を切っているだけに違いない。忙しいだけだ。

 はらはらとした思いを抱えながら、コンビニで買い物をした。

 ピェンロー鍋をしたとき、池上さんが好んで飲んでいたピーチチューハイを買い物袋に下げてとぼとぼと家に到着したころ、不意に携帯が鳴った。池上さんからだった。

「佐原さん? 今、大丈夫?」

 駅のプラットホームからかけてきているのか、甲高い女性の声のアナウンスや、ざわめきが彼女の声の後ろから聞こえてくる。

「大丈夫だよ。それより池上さんは? まだバイト中?」

「大丈夫。ねえ、メール見たんだけれど」

 嫌がられるのか、断られるのかと私は身構えた。

 一瞬間が空いて、彼女が息を吸い込む音が携帯を通し、私の耳に届く。

「私なんかでいいの?」

 ざわっと、興奮と喜びで心が沸き立った。

「もちろんだよ!」

 電話をきったあと、私はリビングへ向かって、imacを立ち上げた。そして、早速、小説のプロットを一気に書き出した。一息ついて、興奮が覚めやらぬうちに、ピーチチューハイを開けた。

 私は沸き立つ気持ちを止められなかった。


 次の日、帰宅すると、ポストに紙袋が投函されてあった。紙袋の裏には「池上」と名前が記されてあった。

 開けてみると、数枚のCDと、手紙が入っていた。

 お鍋の時、彼女の好きなバンドのRadioheadや、thee michelle gun elephantのCDを貸して貰う約束をした。きっと口約束だろうな、と思っていたが、彼女はわざわざ、届けてくれたのだ。

 手紙には簡単な曲の説明が書かれ、最後に「小説、一緒に書けるのを楽しみにしています」と一文添えられてあった。その手紙を私はまるでお守りのように、胸にあてた。

 早速CDを聴いてみた。メイクを落とし、バレッタでまとめてあった髪をほどき、部屋着に着替え、ベッドに転がる。歌詞カードを眺めながら、歌に没頭していく。「Radiohead」のボーカル、トム・ヨークは、池上さんとの距離を縮めるきっかけになった映画で、主役のアイスランドの歌姫とデュエットしていたことを知った。彼の声は、体全体が楽器のようで、部屋中に響き渡った。

 特に「Creep」が、私の一番のお気に入りになった。

 池上さんが好きな曲には、彼女が訳した詩がついていた。「Creep」もその一つだった。

「君は羽のように浮かぶ 美しい世界を」「君にとっての特別でありたかった」「でも僕はむしけらさ ただの気持ちの悪いやつなんだ」「どうしてこんなところにいるんだろう」「ここは僕の居場所じゃないんだ」

 もの悲しいサウンドと、トム・ヨークの柔らかく頼りなげな声が、歌詞と相まって私は泣き出しそうになった。


 それから私たちはしょっちゅう私の家や、近くにあるモスバーガーやカフェで顔をつきあわせるようになった。大学のフリースペースは、いつも学生でごったがえしていた。噂話や昨晩見たテレビについて、喧噪が溢れ返っていた。雑多な空間で、人の出入りも激しい。安物のパイプ椅子やテーブルは、ガタガタと放置されていた。 

 グループになってランチをとったり、居眠りをしたりしている連中が多かった。

 小説のはなしをするのには周囲の目や耳が気になって、少し気恥ずかしかった。何より、知人や友人に割り込まれるのがいやだった。

 日が経つにつれ、私の家に池上さんの私物が増えていった。

 私も池上さんもimacを持っていたので、会えない時はテキストデータを送り合い、モスバーガーではプロットを組んだり、下書きをしたりした。清書は私がしたが、基本的には私の家にあるタンジェリンカラーのimacに交互で打ち込んだ。その間、片方はお風呂を使ったり、本を読んだりして過ごしていた。

 バイトや勉学で忙しい彼女をフォローする、と私は約束していた。

 共作と言う形だが、私がプロットを仕立て、スケジュール管理をし、リードする形で小説は進んだ。


 池上さんと一緒にいる時間が増えて、お互い、ぽつりぽつりと自分のはなしをするようになってきた。

 池上さんにはお兄さんがいるがお母さんの過干渉がひどく、恋人や友達関係にも口を出すようになり、あまりの息苦しさに遠い北海道大学に逃げてしまったこと、そしてそこで就職してしまったこと。お兄さんへの矛先が池上さんに向いてしまったこと。お父さんはSEの仕事で忙しく、お母さんの関心がすべて池上さんに集中していること。

 私は私で、家族ぐるみでクリスチャンの洗礼を受けていること、弟が先日、電柱に故意に張られたワイヤーに引っかかって自転車で転び、大けがをしたこと。子供のころ、母の裁縫箱にある小さな古ぼけたマリア像について、母が「お母さんにもいえないことがたくさんあるのよ」とつぶやいたこと。

 しかし、私の一番心の奥底にある秘めごとは、池上さんにも打ち明けることができなかった。

 

 いつもどおり、バイトを終えた池上さんは、私の家にやってきた。

 シャワーを浴び、置いてあるリネンのパジャマを着て、池上さんはすっかりリラックスしていた。

「今日はなんだか疲れた」

 家庭教師のバイトは、面倒だと言う池上さん。

「勉強だけ教えていたいのに、恋愛相談までしなきゃいけないの。勝手にやってろって思うけど、さすがに言えないしね」

 すでに勝手知ったると言ったていで買い置きのワインを空けながら、私の吸っているたばこに口をつけ、ふうっと煙を吐き出す。

 そして、imacに向かっている私のそばにすっと椅子を寄せてくる。

「ねえ、『キャスター』って、段ボールの味しない?」

「段ボールって……食べたことでもあるの?」

 私はわざと、ぐっと彼女をにらんで見せた。

 ふふっと笑う池上さん。

 私はニコ中で、池上さんはアル中だった。

 私は家以外では煙草を吸わない。親の前ではもちろん、サークルやゼミ仲間の飲み会でも、おとなしくしていた。

 あれこれ詮索されたり、自分の取り繕っているうわべを取り払われたりするのがいやだった。特に親に対しては、二重、三重にも私は猫の皮を被っていた。親を心配させたくない、と言うより、敬虔なクリスチャンの親にがっかりされたくなかったのだ。

 親はほとんど、この家に来なかったが、それでも数回、泊まりにきたことがあった。その時は、消臭剤を駆使し、びゅうびゅうと吹きすさぶ風にもめげず、窓を全開にして、煙草を吸っている形跡を消し去った。

 

 ある日、文学サークルの部室で池上さんとの共作のプロットづくりに没頭していたところ、目の前で読書にいそしんでいたサークル仲間が唐突にはなしかけてきた。

「最近、潤と池上さんってよく一緒にいるでしょ。仲がいいんだね」

「え……、まあ、そうかな……」

「二人、なんか似てきたなあって思う瞬間が多いんだよ。ほら、夫婦が年齢を重ねると、似てくるって感じ? それとも双子かな……」

「なにそれ」

 私はぷっと吹き出し笑いをして「みせ」た。ただ、仲間の言っていることが、心に突き刺さった。ふわっと浮き上がるような感覚と同時に、なぜだか、秘密を覗きみられた気恥ずかしさを覚えた。

「池上さんの下の名前って、『瑞穂』だったっけ。『みずみずしい穂』に、『うるおう』の潤。潤と瑞穂だなんて、『水』つながりじゃん。私なら縁があるって考えてしまうな」

「そういうもん?」

「あんたはそう思わないの」

 私は小首をかしげて、そんなことは思っていない、と言外に匂わせた。

「そうね、仲良くはさせて貰ってるけど、あんたがいうほど仲がいいわけじゃないよ。一緒に小説を書いているだけ」

「ふうん」

 そこではなしは途切れ、仲間はまた、本に視線を落とした。

 私は用を思い出したふりをして、サークルの部室を出た。


 帰宅しプロットを清書している最中、サークル仲間の言葉が頭から離れず、私は部屋をうろうろした。

 似ていると言われて嬉しい自分と、それを隠さなければと直感的に感じた自分が福相していた。

 サークル仲間に私たちの間へ踏み込まれたとさえ、感じた。

 とりあえず自分の気持ちを整理しようと、子どものころからつけている日記を開いて、過去のページを繰ってみた。

 映画館の出口で出会ったころから、私は池上さんについてどんどんと書き募っていた。

 池上さんがマルグリット・デュラスの本を読んでいた。

 池上さんは濃紺のワンピースを着ていた。

 池上さんとはなしをするのが楽しい。

 日記に池上さんの名前がどんどん増えていく。池上さん、池上さん、池上さん、池上さん、池上さん。

 ぱたんと日記を閉じ、私はシャワーを浴びた。素っ裸になり鏡を見てみた。比較的色白の肌、そばかすがある顔、奥二重の目、お椀型の形の良い胸、少し肉のついた二の腕や腰回り。しとどに濡れ、前髪を眉上で揃え、胸を隠すほどの長さになっている脱色した茶色い髪。

 私は自分の腹のあたりに、そっと手を当ててみた。

 同時に池上さんの姿を思い出す。彼女の裸を見たことはまだない。見たことがあるのは、すらりと伸びた手足に、ぴったりとしたハイネックのニットからも分かる、豊かな胸。位置の高い腰にまっすぐな長い足。

 彼女はどのような乳房を持ち、どのような線の背骨をしていて、あのぺたんこのお腹はどういうなだらかな曲線を描いているのだろうか。


 その日も池上さんは私の家に来た。

 ひどく雪が降っていて、ニット帽にたっぷりと白い粉雪を乗せた池上さんに、玄関でばさばさとタオルで体を拭いてもらい、すぐに風呂を使ってもらった。

 酒飲みの彼女に、体が温まるようにと熱燗をつくってやった。彼女はそれをおいしそうにふうふうと息をつきながら飲んだ。

 私のカーデガンを羽織り、こたつでほんのりと顔を赤らめている彼女に、私はさらにお酒をすすめた。いつもは飲んでもそれほど酔いはしない彼女も、妙に肩の力が抜けているようだった。

「私も貰うね」

 熱燗をおちょこですすりつつ、私たちは黙り込んだ。

「なにか、いいたいことでもあるの?」

「え?」

「今日の佐原さんは、いつもとちょっと違うから」

 じっと虹彩の美しい瞳で、池上さんは私を射てくる。

「見抜いちゃうんだ……」

 ずっと誰かに聞いて欲しかった。今なら言えるかもしれない。

「いいよ、言ってよ。私にだけ」

 池上さんの言葉に、私は重たい口を開いた。

「母親にしか言えていないんだけれど……わたし、病気なんだ」

「うん」

「最初は、ちょっと具合が悪い感じがして……お母さんが子宮筋腫の手術をしたこともあって」

「うん」

「検査してみたの……そしたら自然妊娠は難しいって言われて……。多分、子どもはできない」

「うん」

「こないだも検査に行ってきたけど、状況は変わってなかった」

「うん」

「私は子どもが産めない」

「そうか……それはつらいね」

「……」

 心の重みがいつしか、ぽろぽろと涙になってこぼれ落ちた。

「大丈夫、大丈夫、私がいるから」

「池上さん、それ、信じていいの?」

「信じて」

「うん」

「佐原さんには、私がいるよ。一緒にいるから。ね?」

 池上さんは、そのほっそりとした指で、私の髪をなでてくれた。

「約束してくれる?」

「うん。約束する」

 私たちは小指と小指を絡ませ「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます」と、あのフレーズを口ずさみ、小指同士を揺らした。

 そして、池上さんは私の肩を抱いた。私は嗚咽をこぼし、彼女に抱きついた。ふんわりとシャンプーの匂いがし、柔らかな胸とほっそりとした腕が私を包み込む。顔を上げると、くっきりとしたアーモンドの瞳で見つめてくる池上さんと目があった。

 私は彼女の唇にキスをした。

 拒まれるかと恐れていたが、彼女はそのまま唇を押し返してきた。

 そのまま私たちはベッドに転がり込んだ。私は彼女から離れたくなかったが、彼女は私と少し距離をとり、そのかわり手を握ってくれた。私も彼女の手を握り返した。

 狭いシングルベッドの中で、隣にいる池上さんの呼吸だけが聞こえてくる。

 彼女も緊張しているのだろうか。握ってくれている手がじんわりと汗ばんでいる気がした。


 いつの間にか眠っていたらしい。光がカーテン越しに差し込んでいた。

 横を見ると池上さんはいなかった。洗面所のほうから水音がした。

「起きた?」

 池上さんが顔を拭きながら、洗面所から顔を覗かせた。まるで普段と変わらない彼女のそぶりに、私は少しまごついた。このまま何もなかったことにされるのか、いや、そうしたほうがいいのか。

「うん。……ねえ、ベッド、窮屈じゃなかった?」

「全然。大丈夫、よく眠れたよ。あ、私、もう出ないといけないんだ。ごめんね」

 服を着込み、用意をする池上さんに私は思わず声をかけた。

「待って!」

 そのまま私は彼女に抱きつき、またキスをした。池上さんも私を抱きしめ返してきた。言葉なんて要らなかった。

「もっと会いたい。もっと時間を作って」

「……分かった。いい子にしてたら、作ってあげる」

 池上さんはそう言うといつものように口角をあげ、ふざけた口調でにやっと笑った。そうして、そのままドアを開けて出て行った。


 春休みもなかばに近づく頃、私たちは小説を書き、時にキスをした。時間が許す限り、一緒にいるのが当たり前になってきた。

 池上さんはほとんど自宅に帰らなかった。私の家に来ては食事をし、小説を書き、風呂に入った。私たちはそのたび、体をなぞりふれあって、眠った。

 池上さんの肌は吸い付くようなきめの細やかさを持っていた。長い黒髪がベッドのシーツに散らばるさまは、まるで天の川のようだった。

 私にとって、池上さんは自分の背負い込んだ重荷を分かち合ってくれる人に思えた。彼女が直接承諾の言葉を口にしたわけではないが、私に対する視線の優しさ、つらいと泣く私を抱きしめてくれる瞬間が、その確信を深めさせた。

 ただ、机の上に飾ってある家族写真は池上さんとむつみ合う時はそっと知られないよう、伏せた。

 私がいい子だったのかどうかは、よく分からない。

 ただ、池上さんは時間を割いてくれた。

 休日にはお互いの服を交換し、二人で街に繰り出すこともあった。

 三月二十一日は二十回目の私の誕生日だった。池上さん、いや、瑞穂から「でかけよう」と誘いを受けた。私はそわそわと気もそぞろに一番のお気に入り、ホコモモラのオレンジのワンピースを着て出かけた。

 瑞穂はK市にある瀟洒なオーガニックレストランを予約してくれていた。

 彼女はモスグリーンのニットにタイトなベージュのパンツをあわせていて、そのスタイルの良さが際立っていた。

 私たちは食事を楽しんで、そのままK市の夜景を見にロープウェイでM山に登った。

 かなり肌寒い夜空の下、ふいに瑞穂がぶっきらぼうに大きなトートバックから、こぶりできれいな袋を取り出してきた。

「二十歳のお誕生日、おめでとう」

 袋の中にはパッケージされた小さなリングケースが入っており、開けてみると誕生石のアクアマリンが着いたシルバーの指輪がちょこんと鎮座していた。 

 きらきらと薄い青みを放つ貴石に私は心を躍らせ、体中の血が激しく巡るのを感じた。

「わあ! ありがとう! すごく嬉しい……ねえ、高かったんじゃない?」

「……そんなこと、ないよ。気にしないで。それより、せっかくだからはめてみてよ」

「ねえ、瑞穂の誕生日はいつ?」

「七月十日。『納豆の日』!」

「あはは。覚えやすい。……その時は、私がお返しするね」

「いいよ、そんなの……それより、ねえ、どう? ぴったり?」

 照れ隠しなのか、小首をかしげ、視線を外す瑞穂の前で私は指輪を右手の薬指にはめてみた。ぴったりとはまった指輪の手を空にかざして見上げてみる。

 私の指にはめられたアクアマリンの指輪は、私と瑞穂の「ずっと一緒にいる」という約束の結晶に見えた。

 

 瑞穂とは外で会うことも多かった。肌のぬくもりを感じたい私は不満を募らせもしたが、彼女を束縛して嫌われるのもこわかった。それを彼女も感じ取っていたのだろう。

 たまに時間が空くと、二人で少しばかり遠出をした。印象に残ったのは、S製作所創業記念館だ。木造二階建ての建物で、ステンドグラスが美しかった。特に気に入ったのは、花が閉じ込められた燐光管。瑞穂と二人して、顔をくっつけ、まじまじと長い時間見つめた。ふと視線を交わしあい、くすくすと笑った。

 私はその日の出来事も日記帳に書き記した。

 どんどん瑞穂の名前と瑞穂と行った場所、体験したことが増えていった。

 瑞穂と美しいもの、美味しいもの、楽しいことを共有するのが、嬉しかった。

 行きつけのカフェに行くと、瑞穂は決まってチャイラテを頼み、ファーストフードでは、チキンバーガーを頼んだ。

 行きつけのカフェ「MOON」は、大学からやや離れた小高い丘のうえにあった。古いハイツの一階を、ウッドテイストに改装した隠れ家カフェだった。やたらと靴音が響く床に、絵本がディスプレイされてある本棚。色とりどりのガラスがはめ込まれた机の上に、その日のケーキやマフィンが展示されていた。

 おかっぱで、ビンテージものの服を好んで着ている、小柄で丸めがねを掛けた女性がオーナーだ。そのオーナーの手作りケーキやスコーンが評判だった。

 だが、うちの学生はあまり寄りつかず、ちょっとした穴場になっていた。私たちはそこで紅茶やラテ、そして、あずきやアプリコットのチーズケーキ、スコーンを堪能した。「MOON」は客席同士が適度に離れており、秘密めいたはなしをするのには、うってつけだった。

 そこで私たちはああでもない、こうでもない、とストーリーについて語り合った。

 ある日、二人で街をぶらついていた時、コスメを扱っている店に入った。そこは少し高級で希少な商品を扱っている店で、見たことがない海外のブランドもおいてあった。

 テスターを試しあっているうち、ある香水が私の目をひいた。金の蓋に黄味がかった液体が入っていて、紫色のラベルのついたすらりとしたフォルムの香水瓶。私はそれを手に取って、じっくりと眺めた。

「YARDLEY……LONDON……」

「ENGLISH LAVENDERだって。ラベンダーの香りって珍しいね」

 瑞穂が後ろから覗き込んでくる。

「へえ、そうなんだ。確かにあんまり見ないよね」

 私はしゅっとスプレーを押し、自分の手首に香りを振りかけた。くん、と鼻を近づけて匂ってみると、最初はつんと鼻孔にくるが、次第にふんわりとした素朴なラベンダーの香りがしてきた。

「すごくいい匂い」

「へえ。ちょっと嗅がせて」

 私は瑞穂に手首を差し出した。瑞穂は顔を近づけて、香りを嗅ぐ。こんな瞬間に、私たちは特別な関係なのだと感じて、嬉しくなった。

「いい香りだね。潤にぴったり」

 ヒールを履いている私よりやや低い視線で、スニーカーでタイトなジーンズを身につけている瑞穂が私に微笑みかけてきた。

「わたし、この香りすき」

 私は瑞穂の目をしっかり見つめ返した。

「そう。『YARDLEY』の『ENGLISH LAVENDER』ね」

 瑞穂はすっと視線を外したが、私には分かった。彼女はきっとこのラベンダーの香水をこっそり買ってくれ、いつかプレゼントしてくれることを。この右の薬指にはまっている指輪みたいに。


私たちは小説を書き進めた。

 戦乱の世も収まりつつあり、群雄割拠の時代は終わりを告げようとしていた。

 能楽師として覇を競う玉木と早瀬。

 主たる「おやかた様」に親の代から仕える美丈夫。整った顔立ち、しつけられた身のこなし。そして親に叱責されながら一歩一歩、歩んできた能の道を歩んできた玉木。

 「おやかた様」に拾われ、名を貰った漂泊民の子ども。玉木とは対照的に鼻が低く、愛嬌しかない幼い顔立ちの早瀬。

 二人は能を好む「おやかた様」の寵愛を欲するかのようにして、舞にのめり込んでいく。

 親の期待を一身に背負って鍛錬を重ねてきた玉木の目の前で、あっと言う間に舞のこつを掴み、どんどんと人々を魅了していく早熟な天才、早瀬。

 身分が低く、自分よりも経験が浅い早瀬に追い越され、焦りと苛立ちを感じはじめていく玉木。

「おやかた様」の開く能楽の座。そこで、どちらがより、優秀な能楽師であるかを、決める宴が開かれることとなった。

 そこで鼓の天才のはかなき生と、親と子の愛情を川のほとりを舞台に作りあげられた「天鼓」を軽やかに舞う早瀬。

 あまりの清らかさと、主人公「天鼓」と一体となった早瀬を見て、嫉妬心すら忘れて見とれてしまう玉木……。

 

 私たちのはなしは、ここで止まっていた。この後、玉木と早瀬をどうするか、私たちは迷っていたのだ。

 私は早瀬を瑞穂に重ね合わせていた。瑞穂には、人を蠱惑する力があった。

 サークル仲間が瑞穂につっかかったのも、そんな力を持つ彼女が羨ましくまぶしかったせいもあっただろう。

 くるりとカールしたまつげが縁取るアーモンドの瞳に、まっすぐな鼻梁、色の白い肌、小さい口。腰まで垂れる漆黒の髪、細身なのに豊かな胸。

 彼女には、傷ついている人、理解してもらいたいと願っている人を引き寄せる力があった。

 一緒に歩いていると、男性だけではなく、女性や子どもからも瑞穂に視線を送ってくる瞬間があった。

 まったく見知らぬ女性に、マクドナルドでいきなり身の上ばなしをされたこともあった。

 瑞穂は慣れた口調で、「それは大変ですね」と女性が欲しがっていた言葉を与えていた。

 私が席を外している間に、男性から連絡先を聞かれていることも一度や二度ではなかった。

 それらすべてを瑞穂は「付き合っている人がいますので」と、相手を制し、きっぱり断っていた。

 こんなにきれいで吸引力のある子と私が付き合っているなんて。

信じられない時もあった。

 その一方で、私が瑞穂にコンプレックスを抱かなかったかと言えばうそになる。

 彼女のようにすらりとした指も、高い位置の腰も、長い足も私は持っていなかった。

 だが、こんなきれいな瑞穂が私を抱きしめ、不安を慰め、耳元で「好き」とささやき、愛撫してくれていることに優越感も持った。

 さらにそんな私を満足させたのは、瑞穂の言葉だった。

「潤がわたしのお母さんだったら、よかったのに」

 ふいに彼女の口からついて出たその言葉は、私の庇護欲を心の奥深いところまでも突き刺し、揺さぶった。

 瑞穂が携帯でお母さんと言い争いをしているのを、たまたま聞いたことがあった。

 お風呂からあがり、部屋に戻ろうとしていた私の耳に、珍しく怒りに満ちた瑞穂の声が飛び込んできた。

「自分が寂しいだけでしょ! 私の気持ちなんて、どうでもいいんだ!」

「私が書いているものや、本棚を勝手に見たり、荒らしたりしないで!」

「私なんか、お兄ちゃんの代わりに過ぎないんでしょ! 私をちゃんと見てよ! 私を理解してよ! 『捨てないで』なんていわないでよ!」

 私は洗面所から、聞き耳を立ててしまった。

 瑞穂は投げやりに電話を切り、頭を抱え、何度も深呼吸を繰り返していた。長い髪がさらさらと揺れ、嗚咽をこぼしているのが分かった。

 抱きしめてあげたかったが、瑞穂はきっと私に見られたくないだろう。わざと大きな音を出して、ドライヤーを使った。そして、彼女の気が済む頃合いまで、時間を潰した。

 私なら、瑞穂を兄がわりにはしない。彼女を包み込むような、彼女の望むような「母親」になってあげられるだろう。


 玉木と早瀬について、私たちはよく語り合った。玉木と早瀬は愛憎にまみれながら実はセックスをしている、そう、私たちみたいに。とベッドの中で裏設定を語り、笑い合いもした。

 玉木は男色の気があった。母親が厳しく、期待を掛けられすぎたため、女を受け入れられなくなったのだ。母は「この国で一番の能楽師になれ」と折檻すら玉木に行った。

 そんな幼少期の玉木を救ったのは、下働きの男だった。下働きの男は鼻が低く、愛嬌があり「ぼっちゃん」と玉木を精神的にも肉体的にも癒やし、慰めた。

 その男の影を玉木は早瀬に重ねていた。しかし、早瀬は母の望む自分になるには邪魔な存在だった。それが玉木を苦しめた。そんな二次創作を私たちは作り上げていった。

 

 学年が変わっても私たちは小説を書き、無邪気にじゃれ合って過ごした。

 親から、四月頭に一度、実家へ帰るよう言われた。家族とはクリスマスやお正月、それぞれの誕生日を一緒に過ごすことになっていた。 

 だが、私は親にとっても大切な二十歳の誕生日を、瑞穂という他人と過ごした。

 私の実家はH県A市の山側にあった。閑散としたH電車の中で、瑞穂にメールを打っていた。多忙な彼女は、今頃、バイトと勉強にいそしんでいるだろう。メールを見るのは、きっと後になる。

 私が瑞穂を思っているのと同じくらいに瑞穂が私を思ってくれているのか。時々、不安になった。

 彼女に「なぜ、文学サークルに入ったのか」と聞いたことがあった。

「英語を使うのに、日本語をうまく使えないのはおかしいでしょ? そのために、文章の勉強がしたかったの」

 瑞穂は至極、真面目な顔をして答えた。彼女が一生懸命に取り組んでいる「英語」に私は嫉妬した。

 急な坂道をバスで登って、実家にたどり着く。

「ただいま」

「潤? おかえり」

 母の歳の割に若々しい声が、台所から聞こえてきた。おそらく、私の誕生日を祝うための用意をしているのだろう。

 我が家は比較的広かった。そのため、私の部屋も高校時代とほとんど変わりがなかった。部屋でベッドに寝転がっていると、台所からいい匂いがしてくる。

 不意に着信音が鳴った。

 慌てて携帯を取り出すと、瑞穂からのメールだった。

「久しぶりの実家で、はねを伸ばしてきてね」

 さりげない気遣いに満ちた文面とともに、笑い顔の絵文字が送られてきていた。

「ありがとう。瑞穂も風邪とかひかないでね」と私も嬉しそうな絵文字を送ったが、物足りなさを感じた。

 瑞穂が私に会えなくて、すねていればいいのに。


 その夜は多忙な父も早めに帰宅してくれた。父は「潤に会えて嬉しいよ」といった。自分の気持ちをきちんと言葉に出来る人だった。

 家に寄りつかない大学一回生の弟もトルコの魔除け、ナザールボンジュウのペンダントを誕生日祝いにくれた。彼はこの休みにトルコやギリシアを旅行したらしい。

 バースディケーキと母の得意料理の一つ、筑前煮という組み合わせで食卓を囲んだ。神への感謝の言葉を家族全員で唱えた。ケーキに立てられたろうそくを私は吹き消し、家族みんなが「おめでとう」と、笑顔を向けてくれた。両親も私も弟の旅行奇譚に耳を傾け、時に驚き、時に笑った。家族と一緒にいて、思いのほか、ほっとできた。

 ふと、瑞穂に思いを巡らす。

 彼女は今、どこにいるのか。いつもどおり、遅くまでバイトをしているのだろう。そして母親が寝静まるまで、ファーストフードで英語の勉強をしている姿が脳裏に浮かんだ。

 今度、彼女を家に呼ぼう。この安らぎを瑞穂にも味わって欲しかった。

 

 日曜日。私たちは家族で地元の教会に出かけた。レンガ造りの建物は古く、相変わらず、こじんまりとしていた。家族揃っての参加は久しぶりで、顔なじみの人や牧師さんからも「良く来たね」「大学は楽しい?」など、声をかけてもらった。

「潤、こっちにきて」

 賛美歌を斉唱し、牧師さんの説教が終わり、それぞれの輪ができはじめた頃、私は母に呼ばれた。

「はい」

 母の前では、煙草も吸わない賢く礼儀正しいむすめである私は、おとなしく返事をした。

「紹介したい人がいるの」

 母は思ったより力強く私の手を取り、ある男性の前に連れ出した。

「こんにちは」

「こんにちは。佐原さん……と、お嬢さんですか?」

 その男性は物腰柔らかく私たちに挨拶した。彼はハリス・ツイードのしゃれたジャケットをさりげなく着こなし、黒髪をさらりとなでつけていた。涼しい目元、すっと通った鼻梁、薄い唇がさわやかさを醸し出していた。すらりと細身で背が高く、私に視線を落としてくる。そのまなざしは、柔らかかった。

「ええ、むすめの潤です。潤、こちら山崎徹さん」

「はじめまして。佐原潤です」

「はじめまして」

 私はにこりと笑って会釈した。

 柔和な笑いを向けてくる山崎さんに対して、違和感を覚えた。それが何だか、その時の私には分からなかった。

 私は彼の指が瑞穂と同じように、すらりと長く、形がいいことに気がついた。

 山崎さんは転勤に伴い、この教会に通うようになったらしい。世話焼きの母が、何かと不便はないかと訊ねている。その間、私は彼を観察しながら、曖昧な笑みを浮かべていた。

 

 家に帰ると、母が私に声をかけてきた。

「山崎さんね、とってもいい人なの。毎回、礼拝に参加されているのよ。高校で国語を教えてらっしゃるんですって。山崎さんと潤は気が合うと思うわ」

 母は私の病気について知っている。その上で、山崎さんの名を何度も呼称するのは、彼が「子どもを望めないむすめ」であっても受け入れてくれる人だと母は判断したのだろう。

 瑞穂がいなければ、私は母のすすめを受け入れたかもしれない。

 とても感じのよい人で、私は山崎さんを気に入った。正直、異性としても意識した。

 クリスチャンとして、孫を望んでいるであろう親に対して、瑞穂との関係に罪悪感を覚えないわけではなかった。両親は正直なところ、回遊魚のようにひとところに留まらず、いつも連絡がつかない弟に対しては諦観していた。そして両親が、ひそかに孫を私に期待していたのを知っていた。子供が産めないかもしれない。そう医者から告知された時、母は私をとても気遣ってくれた。しかし、落胆の色を私は母から読み取った。

 でも私には瑞穂がいた。彼女とは「約束」を交わした仲だ。それを破るわけにはいかない。

 

 実家から帰宅した日、すぐに瑞穂を私は自宅に呼んだ。彼女が扉を開けた途端、私は抱きついた。

「会いたかった」

「私も」

 瑞穂は私を抱きしめ返した。彼女の体からはいつもどおり、良い匂いがした。

 親が持たせてくれた自家製のハーブティーを飲みながら、実家での出来事を瑞穂に話した。瑞穂は、弟のくれたペンダントをセンスがいいと褒めてくれた。

 だが、山崎さんについては黙っておいた。言わないでおくべきだと感じたからだ。それに彼から感じた違和感を、私は瑞穂に説明できるような気がしなかった。

「あのね、潤にはなしがあるんだけれど」

 瑞穂は少し言いにくそうに、口を開いた。私は山崎さんのこともあり、瑞穂の態度にぎくりとした。

「なにかな……」

「あの、潤の病気ね……。一度、別のお医者さんにかかってみたらどうかな」

「え?」

「セカンド・オピニオンってやつ。それに別の方法で解決策を提示してくれる先生がいるかもしれない」

「そんなこと、考えたこともなかった……」

 瑞穂なりに色々調べてくれたのだろう。

「潤のかかりつけの先生ってどんな人?」

「母が昔、子宮筋腫を手術した時に、診てくれた先生なの。地元のお医者さん」

「そっか。実はちょっと私も調べてみたんだけど、こっちのほうに、評判のいいお医者さんがいるよ。漢方なんかも扱っているみたい」

 メモを瑞穂は私に手渡してきた。

「潤がいいと思えるタイミングで、行ってみたらどうかな」

「ありがとう……。近いうちに行ってみるね」

 それだけ言うのに、私は涙を堪えるしかなかった。


 未婚で若い私が地元の産婦人科に行くのには、勇気が要った。誰かに見られるのも怖かった。結局、瑞穂の勧めてくれた病院に出かけたのは、四月半ばだった。

 小柄でにこにこ笑う女医さんに迎えられ、私は診察と検査を受けた。

 後日、告げられた結果は想定外のものだった。

「あなたの場合、治療すれば自然妊娠できるわよ」

 先生の言葉に私は耳を疑った。

「本当ですか……?」

「ええ。まあ、でも妊娠しにくい傾向があるのは事実ね。だから子だくさんというわけにはいかないかも。もちろん、例外もあるからね」

 病院を出て、ふらふらと私は歩いた。道のりなど、覚えていなかった。

 これまで苦しんできたことが意味がないものだったことに、衝撃を受けた。頭ががんがんし、視野がぐるぐる回った。足もとがおぼつかなかった。 

 だが次第に「母親になれる」「子どもを産める」喜びが、一気に湧き上がってきた。ただ、それはまだ確固たるものではなく、手のひらにそっと乗せられた、ふわふわとした泡のようなものだった。

 そのとき、私の脳裏に浮かんだのは、瑞穂ではなく、山崎さんだった。

 すうっと、私は顔をあげて、空を見上げた。四月の空は澄み切っていた。

 私は鞄から取り出した携帯から電話をかけた。

「あ、もしもし。お母さん? うん、ちょっとはなしたいことがあって……今から、家に帰ってもいい?」


 私は検査の結果を瑞穂に告げなかった。

 imacのメールには、彼女から小説の原稿が届いていたが、続きを書く気になれなかった。

 私は実家に帰る回数がだんだんと増えていった。日曜日には必ず教会へ出向き、山崎さんと会った。

 ちょうど十歳年上の山崎さんは、文学にも詳しかった。彼はよく笑い、私に対しても親切にしてくれた。両親と私と山崎さんで、礼拝のあと、食事をすることが増えた。

 山崎さんとは連絡先を交換し合い、時折、電話やメールをした。その回数はどんどんと増えていった。反比例するかのように、瑞穂との連絡は途絶えがちになった。

 私は度々、実家で用事がある、忙しいと、彼女と距離を置き始めた。

 瑞穂は私の変化に気がついたようだった。

「最近、どうしているの」

「病院には行った?」

 彼女からメールが来ても、なかなか返信をしなかった。できなかった。検査結果を伝えることも怖かったし、自分が今、何をやっているのかも、説明できなかったからだ。

 顔を合わせるかと思うと、大学に行くのもおっくうになった。必須科目以外はサークルにも顔を出さず、ぶらっと街に出かけて、カフェで本を読んで過ごした。

 時々、山崎さんのことを考えた。彼のことを好きかと聞かれたら「好き」と、はっきり答えられない自分がいた。

 私は戸惑っていた。「約束」をかわしたのは、瑞穂に対してだ。私は瑞穂を愛していた。私には瑞穂しかいなかった。そのはずだった。

 だけれど、と遠くから声が聞こえてくる。耳鳴りがする。

 瑞穂ではない。

 袋小路に入り込んでぐるぐると出口のないことに苦しみ、悩んだ日々を思い出していた。

 子どもを産むことができないと言われた時、深い闇の海溝に私は落ちた。息ができず、もがいた。

 ぼんやりとだが、想像していた未来像が打ち砕かれた。

 幼少期から当然のように、私は母になり、いずれは孫を抱くのだとずっと思ってきた。甘い子どもの匂い、夜泣きで疲労困憊する私と夫、あっという間にぐんと背が伸びていく我が子の後ろ姿、ぶつかり合う反抗期、そして巣立っていく瞬間。

 そんな未来への道が、ばたりと閉ざされた。もう二度と開かない扉だと、諦めようとして、諦めきれずに煩悶し、ひとりで泣いた。そんな時、必ず決まって、頭の後ろから「子どもが欲しい」と言う声ががんがん鳴り響いた。産めないと分かってから以降、私はその声にずっと悩まされ続けた。

 何度も闇の底から浮上しようとし、そして何度も暗い海溝へ落ちていった。それを繰り返すだけだった。ひどく孤独で寒かった。

 ようやく、今、私は海の底からきらきらと光がきらめき、揺れる水面を見上げる場所までやってきた。こぽこぽと、息ができはじめるのを感じていた。温かな場所だ。

 私は理解した。

 私は私の子どもに会いたい。

 私の子どもの親になるのは、山崎さんだ。

 

 瑞穂を避け続けることはできなかった。

 ゴールデンウィークが明け、実家からS市の家に帰宅すると、マンションのエントランス前で瑞穂が待っていた。

 逢魔が時、とはよくいったものだ。歩みを進め、近づくにつれ、瑞穂の顔がふっと灯りで浮かび上がった時、私は声をあげそうになった。

「なに、その態度……」

 瑞穂は形のいい眉をひそめ、私をにらみつけた。

 家にあがってもらう気になれなかった私は、近所にあるさびれた喫茶店へ、瑞穂と連れだって赴いた。

 もくもくと歩き、普段は入らない閑散とした喫茶店に、私たちは滑り込んだ。いらっしゃい、と、無愛想な店主の声がくぐもって響く。

 瑞穂はいつものチャイラテではなく、コーヒーを頼んだ。砂糖もミルクも一切入れていない。黒々としたコーヒーは、私たちの空気を表していた。

「ねえ、どういうこと。連絡しても、返信はなし。小説も続きを書かない。締め切りはもう、今月末だよ」

「……」

「なんとか言ってよ。それに病院は行ったの?」

 瑞穂が必死でいらいらしそうな口調を抑えているのが分かった。けれど、瑞穂はどんどんと早口になり、私を責めた。

「行った」

「結果は?」

「……子ども、産めるって」

 はっと目を見開く瑞穂の顔を、私は正視することができなかった。彼女はとてもさとい。私がなぜ彼女から逃げているのか、私が何をしようとしているのか、その理由までも「理解」されてしまった。

「実家にしょっちゅう帰って、私を避けているのは、わけがあるのね」

 私は目の前にある紅茶が冷めゆくのを、ただ、見つめているだけだった。早く時間が流れろと願った。もう、解放されたかった。

「好きな人でもできたの」

「…………」

「……黙っていないで。私が聞いているの。ねえ、小説はどうするの」

 瑞穂の矢継ぎばやな言葉にいたたまれなくなり、私は紅茶代をテーブルに置くと、鞄をひっつかみ、喫茶店から逃げ出した。

「ちょっと!」

 早足で、次第に駆け足になる私を、店から出てきた瑞穂が追ってきた。

「待ってよ!」

 彼女が追いつき、私の腕を掴む。ぐっと引き寄せられて、私は恐怖感すら抱いた。体が強張った。

 薄暗い路地で、私たちは顔をつきあわせることになった。夕闇はすでになく、とっぷりと暮れた空には星一つない。五月半ばにさしかかっても、まだ、少し肌寒かった。ちかっちかっと、壊れかけているのか、電灯が不規則に灯りを明滅させ、それがより、私の心を乱した。

「ちゃんとはなしをして!」

「……結婚したい人がいる」

 瑞穂の言葉を遮って、私は告げた。

「え……?」

 瑞穂の大きな目がよりいっそう、くるり、と見開かれ、私を射貫いてきた。

「子どもを産みたい。その人と結婚する。もう小説は、書かない」

「……」

「わたしは、ははおやに、なりたい。私の、『本能』が、そういっている」

「……なにを、……言っているの」

「だから、ごめんなさい」

 一瞬の間があった。

「いやだ!」

 瑞穂の金切り声が響きわたった。

「私がいるから。あなたが誰の子供を産んでも構わない! 一緒に育てよう! 私が支えるから!」

「無理だよ……」

「そうやっている人は、たくさんいる。養子だっていいじゃない!」

「私には、その選択肢はない」

「それに『約束』したじゃない……ねえ、ずっと一緒にいるんじゃなかったの」

「無理」

「何が無理なの!」

「私には現実的じゃないんだよ、瑞穂……」

「その人の子どもを作れるかどうか、分からないじゃない」

「それでも、彼なの。山崎さんなの」

 瑞穂は髪を振り乱して、私の肩をゆすった。私は顔を伏せることしかできなかった。

「『山崎さん』? 誰それ。ねえ、私の気持ちはどうなるの? あなたの『本能』とやらに振り回されて、私たちは終わるの? 私との『約束』を簡単に破るの? 潤のほうこそ、おかしいじゃない。あなたは動物なの? 理性は無いの? 人間じゃないの? こんなことなら、病院なんか教えるんじゃなかった!」

「私は子どもを産みたい。もう決めたの」

 一瞬、瑞穂はびくっとして、がくん、としゃがみ込む。

「いやだ、いやだ!」

 ぽたぽたぽた、と、瑞穂の形の良いアーモンドの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちて、アスファルトにしみを作る。つややかな黒髪はぐしゃぐしゃになり、涙に濡れた顔に張り付いていた。

 私はこんなふうに、取り乱す瑞穂を見たことがなかった。あまりのことに驚き、声も出なかった。そして彼女を見おろすことしかできなかった。

「捨てないで! 見捨てないで! お願いだから」

 私の腕に瑞穂は縋った。きらきらしていた虹彩が真っ赤になり、淀む瞳をこちらに向ける瑞穂。しかし、私は頭を横に振るしかできなかった。

 うわあああ、と、彼女は膝を付き、天を仰いで慟哭しはじめる。そんな瑞穂を見ても、私は周りの目が気になるだけだった。誰もいない、裏通りでよかった。

 泣き続ける瑞穂をおいて、腕を振り払い、私はすたすたと立ち去った。彼女の泣き声が、だんだんと遠くなっていく。ひたすら前に進む私の足に視線を落とす。自分でも驚くほどに冷静で、涙の一滴も出なかった。

 

 がくがくと膝が震えていることに気がついたのは、帰宅し、ベッドに座ってからだった。吐き気がする。トイレに駆け込み、おえっとえずくが、胃液以外、何も出てこなかった。

「人間じゃない」

「『約束』を簡単に破るの?」

「いやだ、いやだ!」

 瑞穂の言葉が、心をえぐった。

 私は酷い人間なのだ。いや、瑞穂の言うとおり、人間以下だ。頭の中でトム・ヨークが歌っている。薄気味が悪い。身の毛もよだつ。そうだ、私が一番「ただの気持ちの悪い」やつなんだ。

「人間以下」その言葉を口に出すと、ぞっとした。私はなんてことをしているのだろう。あんなに一緒にいようと言ってくれた瑞穂を捨てようとしている。

 でも、それが私の選ぼうとしている道なのだ。


 母から、山崎さんから正式に「結婚を前提にしたお付き合いがしたい」旨、申し込みがあったと連絡を受けたのは、そのすぐ後だった。母の声は明らかに浮かれ、喜びに満ちていた。

「お母さん。山崎さんに『ブライダルチェック』受けてもらえるよう、ちゃんと話を通しておいて」

「あ、ああ、そうね。潤もちゃんと病院を受診したものね……」

 母は打って変わって、戸惑いを声に乗せてきたが、私は無視した。

 私は、すぐにでも結婚したかった。結婚で欲しいのは、安心や経済力ではない。それはすでに親から与えられていた。私は恵まれたむすめだ。瑞穂とは違う。

 欲しいものがある。ずっと欲しかったものだ。だからこそ、「手に入らない」と、もがいた時間を無駄にしたくなかった。

 それを山崎さんが与えてくれなかったら、私は躊躇なく、山崎さんも捨てるだろう。

 

 五月も末に近づいた頃、瑞穂からPCにメールが来た。

「最後まできたのだから、小説は仕上げましょう。みんなにも迷惑がかかります。最後はあなたが書いてください」

 と短い一文だけ。添付してあったテキストファイルを私は恐る恐る開いた。


 早瀬に嫉妬した玉木は「おやかた様」が城主の側室として差し出すため、養女にしていた、若く美しいむすめを顔を隠して犯す。むすめは絶望して、身投げをしてしまう。

 そして玉木は「おやかた様」に「実は早瀬がむすめを連れ込むのを見てしまい……」「その時は、このようなことになるとは思いもよらず、申し訳ありません」とすべて見てきたかのように密告する。自分の犯した罪を早瀬になすりつけ、「おやかた様」は玉木の讒言を受け入れる。

 激昂した「おやかた様」にひどい折檻を受けるが、早瀬は一切の弁明をしない。

 早瀬は、折檻で痛めつけられた挙げ句、ついには首を落とされることになった。

 皆の前に引きずり出される早瀬。

処刑人によって首を落とされる寸前、早瀬の瞳が玉木を射貫く。その瞳は無垢な透き通った硝子玉のようだった。


 もうやめてしまいたかった。こんなひどい小説の続きなんか書きたくなかった。瑞穂の一文字一文字、その文字で編み出された物語に私はぶたれているようなものだった。

 それでも私はのろのろとimacの前に座り、キーボードを叩いた。

 すべてを終わらせる。そのためだけに。

 

 玉木は胴体から切り離され、さらされた早瀬の首を見て、心の底からほっとする。もうこれで自分を脅かすものはいない。この国一番の能楽師になれと自分を厳しく責め立てた母も、もう死んだ。

 そして玉木はようやく「おやかた様」にとって一番の能楽師になれた。

 しかし、玉木は毎夜、早瀬の硝子玉のような虹彩の美しい瞳を繰り返し夢に見るようになった。悪夢にうなされる玉木。眠ることができなくなっていく。床につくと、あちこちから早瀬の瞳がじっと玉木を見つめているのだ。

 玉木はどんどんと病んでいく。結果的に自分が殺したむすめの幻影までも、真っ昼間から見る有様。

 ある日、身投げをしたむすめの代わりに、急遽、連れてこられた別の美しく若いむすめと、城主との祝言が行われた。

 「おやかた様」の所望により、「高砂」を舞うことになった玉木。

 鼓、笛の音が鳴り始め、囃子方が謡いはじめる。

 玉木は静かに橋掛かりから本舞台へ進み、扇を持った右手を差し出そうとした。

 だが、足も手も動かない。動かしかたが分からない。どうやっていたのか、まったく思い出せない。

 がくがくと震える玉木。ぽつぽつぽつ、と汗がしたたり落ちる。

 でくのぼうのように、ただ、突っ立っているだけの玉木に皆が異変を感じとる。

 即座に後見が玉木を舞台から引きずり下ろし、代役を務める。

 呆然と面をつけたまま、舞台袖で座り込む玉木。

 玉木はその瞬間「見つけて」しまった。

 自分が早瀬によって生かされていたことを。

 早瀬がいたからこそ、能を舞えていたことを。

 早瀬を憎悪し、嫉妬することで舞台に立てていたことを。

 早瀬に憧れ、早瀬のようになりたいと願ったことを。

 結局のところ、自分の人生など早瀬なしではありえなかったことを。

 その後、玉木の行く末を知るものは誰もいない。

 

 すべてが終わった。玉木と早瀬の物語も。私と瑞穂の関係も。

 テキストファイルを瑞穂に送り、私は深い吐息をついた。

 疲れ果て、ぐったりしてしまった。少しだけやけになって、瑞穂のために買って放置してあったピーチチューハイの缶を開けた。

 ぐびぐびと飲み干すが、酔いは回らない。気持ちが悪いだけだ。

 そうだ。私が「玉木」なのだ。「早瀬」、そう、瑞穂を裏切り、殺し、捨てた。

 でも、もう、これで終わり。これで許されると私は信じたかった。

 

 その夜、瑞穂から携帯にメールが来た。

「お疲れ様でした。私のものはお手数ですが、まとめて着払いで送ってください」

 冷たい敬語の文面が、無機質な携帯画面を通して、目に飛び込んできた。

 私はメールを削除し、携帯をほおりなげた。そして鬱々とした気持ちを抱えながら「池上さん」の洋服や本を整理して、段ボール箱に梱包し、封をした。

 部屋が少しだけ、がらんとして見えた。


 その後、私と山崎さんは婚約した。婚姻届の提出や結婚式は私の卒業を待って行うことになった。

 両家の顔合わせ、結婚式の証人のお願い、式の計画、新居探しなどで、慌ただしく日々は過ぎていった。

 私の右手薬指からアクアマリンの指輪は消え、そのかわり、左手の薬指にティファニーのエンゲージリングが収まった。

 小説は締め切りに間に合い、「コミティア」に出展したらしい。と、言うのも、私はあれからほとんどサークルに出ていなかったからだ。

 大学には通っていたが、卒業に必要な単位は二回生までにほとんど取っていたので、最低限の出席ですんだ。

 山崎さんからのお願いで、卒業すると同時に私は専業主婦になることになった。落ち着いたら、山崎さんのつてで、小さな出版社でバイトをすることにもなっていた。そのため、就職活動の必要はなかった。

「池上さん」とのことがあって以来、大学に行きにくかった私にとってはありがたかった。


 七月の頭、前期試験が終わった頃だった。

「池上さん」から、一通のメールが携帯に届いた。

「『MOON』で明日、午後三時に待っています」

 そのメールに私は動揺した。もう終わったのではないか、解放してくれ、と思った。その反面、彼女に会いたい気持ちも残っているのが、自分で分かった。もしかすると、優しい言葉をかけてもらえるのではないか、と期待する裏腹な感情が入り交じって、その日の夜はほとんど眠れなかった。


 次の日、私はUNITED ARROWSのサマーワンピースを着て、きちんと髪をシニヨンにまとめ、オレンジのミュールを履いて出かけた。季節はすっかり夏で、日差しもきつく、逃げ水が見えた。

 不安と期待に高鳴る胸を抑えながら、「MOON」を訪れた。

 ぐるりと店内を見渡したが、「池上さん」の姿は見当たらない。客がひとりいるだけだ。もう午後三時も過ぎようとしているのに。

「佐原さん」

 懐かしい声がした。私は恐る恐る、その声のほうへ振り向いた。

「こんにちは」

 ベリーショートに茶色い髪。そしてそこにあったのは、白い端正なほっそりした顔立ち。アーモンドの形をした美しい虹彩の瞳。

「みずほ……?」

「分からなかった?」

 にこり、と細くて長い足を強調するスキニージーンズに、少し襟を立てたシャツスタイルの瑞穂が微笑んだ。


 私たちは向き合っていつもの場所に座った。瑞穂はホットコーヒーのブラック、私はアイスココアを頼んだ。

 目の前にいる女性が瑞穂だと私には信じられなかった。まじまじと見つめても、黒々とした髪を持ち、とっつきにくい雰囲気を漂わせていた瑞穂はそこにいなかった。

 ここにいるのは、こざっぱりとしていて、まるで、憑きものが落ちたかのような「瑞穂」だった。

「婚約したのね」

 私の左手薬指に、瑞穂は視線を送った。指輪を見られないよう、私はそっと右手を左手に重ねた。

 だが、瑞穂はあんなに取り乱したことが嘘のように、そんな私を見てくすりと笑った。

「来てくれてありがとう」

「そんなこと、気にしないでいいのに……」

 私は見た目も態度もすっかり変わってしまった瑞穂に、調子を狂わされっぱなしだった。

「今日は、あなたに渡したいものがあったの」

 瑞穂はそういうと、青いサマーバッグから薄葉紙で包装したものを出してきた。

「開けて」

「うん……」

 私はエンゲージリングをあまり見せないように、その包みをほどく。すると桐の薄平べったい箱が出てきた。そっとその箱を開けると、パステルグリーンの薄紙を表紙にした小冊子と「YARDLEY」と書かれた紫のパッケージがあった。

「これ……」

「欲しいって言ってたでしょ。『YARDLEY』の『ENGLISH LAVENDER』」

 パステルグリーンの薄紙の小冊子は、内側にグラシン紙が中表紙として丁寧に付けられていた。

 ほんの十ページにも満たない小冊子を開くと、そこには私たちが作った玉木と早瀬の「その後」の物語が、瑞穂のやや神経質な手書きの字で書かれてあった。

 私はその文字を目で追う。

 あの世。それは地獄かもしれない。極楽かもしれない。どちらにせよ、玉木と早瀬は楽しそうに謡い、舞を舞っている。競うように、笑うかのように。

 その時間は輪廻も転生もない、閉ざされた空間で永遠に続いた。ただ、ただ、二人だけで。

 最後まで、誤字脱字や訂正したあとは一切、なかった。

 ぐっと目頭が熱くなった。涙が自然と頬を伝った。

 瑞穂は、どんな思いでここまで書き上げたのだろう。どんな気持ちで「ENGLISH LAVENDER」をあの店まで求めに行ったのだろう。

「瑞穂。……私、あなたを失いたくない」

 腹の底から言葉が出た。私じゃない私がしゃべっているみたいだった。言葉が留まることを知らず、どんどんと溢れてくる。

「これからも一緒にいたい」

「……」

「本当はあなたしかいないの」

「それは無理」

 にっこりと爽快なまでに瑞穂は笑った。

「もうすぐね、カナダに行くの。大学の留学生制度の資格試験に受かったの」

「え……」

「最初は一年間。うまく向こうの大学に編入出来たら、四年は帰ってこられない」

「じゃあ、ずっとバイトして勉強していたのは、そのためだったの?」

「そうよ」

「私と付き合っている最中も留学を考えていたの?」

「そう」

「私のこと、どうでも良かったの。……あんなに一緒だったのに、あんなに、瑞穂、捨てないでって言ったのに……あんなに泣いたのに……? 全部、嘘なの?」

「あれは嘘じゃない。潤に捨てられるの、怖かった。死ぬほうがましだった。体がちぎれるみたいだった。すごく、ものすごく、苦しかったよ。……私、潤のこと、本当に好きだった。だから留学のこと、迷った時もあった。でも、あなたは四年も待てないよね。それに『あなたしかいない』って口に出せる人は、別の人にも言えるの。それがよく分かった。だからこれで良かったの」

 あ。私だ。私の方が捨てられるんだ。

「ありがとう。さようなら。あなたといられて嬉しかった。いいお母さんになってね」

 それだけを告げると、伝票を持って、瑞穂は席を立つ。

 くるりと私に背を向け、彼女は一切、振り返ることもせず、カフェを出て行った。

 そっとカフェのオーナーが、キャスケットの下から私を同情のまなざしで見つめていた。

 からんからん、と扉のチャイムがむなしく響く。

 はっと私は我に返り、カフェを飛び出して、瑞穂に追いすがろうとして立ちすくんだ。すたすたと姿勢良く歩く、瑞穂の背中はもう遠くに見えるだけだった。

 いつの間にか、夕暮れが迫っていた。オレンジ色の空の下、私は思い返していた。夏にベランダから花火を見よう、そんな「約束」すら、私は破った。

 瑞穂の誕生日が迫っていることに、私は気が付いた。もうあと数日もない。

 けれど、私は瑞穂の誕生日に一緒にいられない。何も瑞穂に返せない。私はなにも瑞穂に贈ってあげなかった。いや、もう、贈ってはいけないのだ。

 私は最後まで瑞穂に貰ってばかりだった。彼女に貰っていたのは、アクアマリンの指輪や、「ENGLISH LAVENDER」だけではない。

 美しい装丁の、美しい小説。

 ほんの数ページの、瑞穂の手書きの文字の数々。

 私はずっと彼女の痛々しいまでの、まるでダイヤモンドのように硬質で貴重なかけがえのない愛情を、貰い続けていたのだ。

 どくん、と槍で突き刺されたように胸が痛む。動悸がして、体をくの字に曲げ深く呼吸をする。低い姿勢から前を見ると、瑞穂の姿はもう視界から消えていた。

 胸に痛みを抱えたまま、私は体を立て直す。

 かばんから香水を取り出し、そっと底の部分を両手で支えた。スプレーを頭の上あたりに向かって押してみる。しゅっと音がして、飛沫が私を覆う。

 少しきつめのトップノートの香りが、次第に甘く入眠を誘うような、優しい香りに変わった。それが夕闇の空のした、風に吹かれてかき消えていく。


「おかあさん、どうかしたの?」

 不意にさやかの声で、私は十七年前の世界から引き戻された。

「あ、ああ、ごめんね。ちょっと色々思い出しちゃって……」

 嘘だ。

 私はあれだけ強く愛して貰ったのに、夫と結婚し、さやかを宿し、産み、育てていた間、そう、今の今まで、まったく瑞穂のことなど脳裏にもよぎらなかった。名前すら忘れていた。

「おかあさん、大丈夫?」

 夫そっくりな涼しい目元、すっと通った鼻梁、小さくかわいらしい口のさやかが私の顔を覗き込み、そのほっそりとした手で、私の顔を包み込んでくる。

「大丈夫、大丈夫」

 私はさやかの手に自分の手を重ねた。美しいほっそりとしたさやかの手は、ひんやりしていて気持ちが良い。

「それならいいんだけど……私ね、この香り、すごくすき」

「そう。それなら、さやかが持っていてくれる?」

「いいの?」

「ええ。そのほうが、お母さんも嬉しいな」

「じゃあ、その綺麗なペーパーの冊子はお母さんにあげる。大切にしなきゃね」

「そうね。大切に、するわ……」

 パステルグリーンの薄紙を私はそっと手のひらでなぞった。

 ここで、玉木と早瀬が永遠の時の中、踊り続けているのだろう。

 さやかはもう一度、スプレーを押して、香りを部屋に振りまいた。そして楽しそうにくるくると目の前で、回っている。

 ああ、なんてかわいいんだろう。なんて愛おしいんだろう。

 この子に会えてよかった。

 この子のためなら、どんなことだってしてやれる。

 さやかの姿を見て、私は笑おうとした。しかし、ラベンダーの香りで空間が満ちた時、自分がぽろぽろと涙をこぼしていることに気が付いた。

 涙は留まることを知らず、ぽたぽたと私のシャツやスカート、そして手にしていたパステルグリーンの薄紙の上にしみをつくっていく。

「おかあさん、おかあさん、ねえ、おかあさん、聞こえてる……?」

 さやかの声が、まるで音楽のように脳裏で鳴り響くだけで、私は何もできなかった。

 その後の瑞穂の消息を、私は一切知らない。


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あたしのむすめ 鈴木満ちる @suzukimichiru

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