第20話
僕はまた、こちらの世界に戻っていた。夢の中で朝を迎え、夜が来て、こちらの世界でまた朝が来る。何だか不思議な感じがした。本当は眠っていないのではないか? そんな気がするのだ。
「太郎、起きてるか?」
辰輝がそう言って部屋に入ってきた。
「ああ、今起きたところだよ。今日はやけに早いじゃない」
「まあな。先に食堂へ行ってるぜ」
彼は朝の食事の準備をしに行った。僕も着替えをして、身なりを整え、食堂へ向かった。ちびたちはだんだんに集まり、自分の席に着いた。給仕のおばさんは大忙しだ。僕と辰輝は出来上がった料理を運んだ。シスターはまだよちよち歩きの未来を連れていた。子供たちの中で未来が最年少だ。まだ二歳になったばかり。こんなちいさな子供を預けるなんてひどい親だ。オムツも取れないから、シスターはほぼ一日、未来につきっきりなのだ。
「さあ、辰輝、太郎も席に着きなさい」
僕らはいつものようにお祈りをした。未来もみんなの真似をして手を合わせる。
シスターに見送られ、下級生たちを連れて『もみの木』を出るとき、藁科が僕を睨んだ。今日はいつにもまして、その目はギラついていた。それには殺気が感じられるほどだ。殺されるかもしれない。それも、僕にはどうでもいいことだ。
「なあ、あいつ変じゃないか?」
「そうだね。でも、君がそれを口にしてはだめだ。あいつは僕を睨んでいる。君じゃない。関わってはいけない。危険な奴だから」
辰輝は心配そうに僕を見つめた。
「前を向いて歩きなよ。僕のことは気にしなくていい」
それから学校までは、黙って歩いた。それぞれが教室へ向かう。
「太郎、一人で抱え込むなよ。お前には俺がついているからな」
僕はなぜ彼がそんなことを言うのか分からなかった。僕が危険なことに巻き込まれようとしているのに、関わろうとするなんて。自分が傷つくかもしれないのに……。
「ああ、何かあったら相談するよ。ありがとう」
僕がそう言うと、彼は安心したように教室へ入っていった。
教室へ入り、
「おはよう」
と誰に向かうでもなく言った。返ってくる声はない。僕の後に入ってきた斎藤さんがおはようと言うと、返事が返ってきた。
「太郎君、おはよう」
彼女は僕に微笑んだ。
「おはよう」
僕はどんな顔で彼女にあいさつを返しているだろう? きっと自然な笑顔ではない。
学校での一日は僕にとってどうでもいいことだった。何時間目に何をやったかも。ただ、何事も起こらないように願いながら過ごすだけだ。昼を過ぎたころ、僕は急に身体が重くなり、目の前が真っ暗になった。
「ヤマト、そろそろ食事だ」
王子はヤマトに向かってそう言った。
「はい」
短い返事をして、階段を下りていく。王子もそれに続いた。食堂でおかみさんが宿泊客の食事を用意して待っていた。
「ありがとうございます。僕たちはどの席に着いたらいいでしょうか?」
ヤマトが言うと、おかみさんは、
「どこだっていいさ、客はあんたらだけだからね」
と言った。しかし、二人分の食事ではなさそうだ。
「そうですか。ではここに座らせていただきます」
ヤマトは食事の用意されているテーブルの端の方に座った。王子も彼のとなりに座った。
「他にどなたがいらっしゃるのでしょうか?」
「いや、来ないね。あたしらもここで食べるのさ」
そう言って、おかみさんは奥の部屋へ行き、三人の子供たちを連れてきた。
「あんたら、冷めないうちに食べな」
客である二人に向かって、あまりにもぞんざいな扱いだ。これにはもう我慢できないと、王子は立ち上がり部屋へと戻ってしまった。
「なんだい、あんたの連れは」
「申し訳ございません。彼は人見知りをするもので、できれば食事を部屋でとりたいのですが、よろしいでしょうか?」
「そうかい、あたしらとは一緒に飯が食えないってことだね。分かったよ、好きにしな。食事は自分で運ぶんだよ」
おかみさんは、つっけんどんに言ってから、フンッと鼻を鳴らした。
「はい、ではそうさせていただきます」
ヤマトはそんな態度に腹を立てるでもなく、黙って食事を二階へ運んだ。
「シュリ、戸を開けてください」
戸が内側から開けられ、ヤマトは中へ入った。
「なんだ、持ってこさせればよいではないか」
「僕はかまいません。さあ、食べましょう」
部屋にあるのはベッドが二つと、小さなテーブルだけで、イスはない。二人はベッドに並んで座り、窮屈な感じで食事をした。
「なあ、宿屋というのはみんなこうなのか?」
「そんなことはありません」
王子はこの宿屋が気に食わないらしい。食べ終わると、さっそくベッドに横になった。
「明日は早くここを出よう。ここの女主人は客の扱いを知らない。我慢ならない」
そう言って、彼はふてくされたように向こうを向いた。
「そうですね。そうしましょう」
ヤマトは食器を片付けに階段を下りた。
「なんだろうねぇ。あの二人組は」
「ケシュラの国民か。一人は気位の高い少年。もう一人はやけに丁寧に話す。王家の者とその従者ではないか?」
「まさか、なんでまた、王家の者がこんなところに泊まるんだい。第一、連れているお供が子供一人だなんてさ」
「だから、お前も知っているだろう? 伝説の物語を」
「あれかい? 光と闇の戦い」
「ああ」
「あんなのはただのおとぎ話さ。あたしゃね、あのノッポが気に入らないよ。偉そうにさ」
ヤマトは階段を下りる途中で、そんな会話を聞いていた。それからわざと靴音を高く響かせて階段を下りていった。
「ごちそうさまでした」
そう言って食器を渡すと、何事もなかったように階段を上がっていった。
「聞かれたかねぇ」
おかみさんのそんな声が聞こえた。彼らは小声で話すことが出来ないのか。すべて、ヤマトに耳に届いていることには気づいていないらしい。
部屋に戻ったヤマトは、ベッドに横になった。
僕は目が覚めた時、ここがどこだか分からなかった。あのひどい宿屋ではないことは確かだろう。身体を起こすと、ひどい頭痛でくらくらした。白いカーテンで仕切られた白いベッドの上。一瞬、病院にいるのではないかと思った。白いカーテンがそっと開かれ、
「よかった、目が覚めたのね」
そう言ったのは、保健室の山本先生だった。
「あの……」
僕はどうしてここに? そう言いかけて思い出した。昼休みに僕は倒れてしまったんだ。そして、またヤマトの夢を見ていた。
「大丈夫? クラスメイトの女の子が来ているわよ」
山本先生の向こうに斎藤さんが見えた。ランドセルを背負ってイスに腰を掛けている。もう下校時刻なのだろう。
「太郎君、気がついたのね? よかった。急に倒れてしまうんだもの。びっくりしたわ。あなたのところのシスターには連絡を取ってもらったの。ちょっと手が放せないから、迎えにはこれないんですって」
僕はベッドから下りて歩いた。身体がふらふらする。
「無理しないで、もう少し休んでいてもいいのよ」
山本先生が僕を支えてイスに座らせてくれた。そのとき、ばたばたとせわしない足音がした。
「太郎、いるか?」
騒々しさを振りまいて、辰輝が保健室に入ってきた。
「なんだ、思ったより元気そうじゃん。心配して損したぜ」
「川原君のお友達?」
山本先生にそう聞かれ、
「おう、大親友さ。こいつは俺が送って帰る。同じところに住んでるしな」
と答えた。
「そうなの? じゃ、お願いね。たぶん貧血だと思うけど、ゆっくり歩いて帰るのよ」
「へい、へい。分かりました。そんじゃ、さよなら」
辰輝は僕の荷物を持って先を歩いた。
「太郎君。お大事にね」
「ありがとう」
「太郎、帰るぞ」
「うん。じゃ、また明日」
僕は斎藤さんにそう言って、辰輝を追いかけた。僕はどうして、また明日なんて言ったんだろう。明日なんて来なければいい。学校なんて行きたくないのに。
「なあ、あの女子なんだ?」
校舎を出てから辰輝が僕に聞いた。
「ああ、クラスの学級委員」
「お前に気があるようだな」
そんなことはないと否定しようとしたが、声は出なかった。
「ま、俺にはどうでもいいことだけどな」
それからしばらくは黙って歩いた。『もみの木』に着くと、シスターが玄関まで出て来て、
「太郎、あなた大丈夫ですか? 辰輝、ありがとう。荷物を部屋まで持っていってあげなさい」
「はい」
辰輝はそのまま部屋へ荷物を運んだ。
「お医者様に来ていただいています。ベッドへ横になりましょう」
部屋に入ると僕はそのままベッドに横になった。少しハゲかかった頭のこの医者は、僕が赤ちゃんのときからのかかりつけだ。
「じゃ、脈を測るよ。熱はないかな?」
医者はそう言って、二つを同時にはかった。なんだか大げさな気がする。
「大丈夫だね。どうかな、頭は痛くないかね」
「頭痛は治りましたが、めまいがします」
「そうか、貧血かな? 採血してみようか」
そう言って、カバンから注射器とゴムバンド、それから消毒の脱脂綿を取り出し、僕の袖を捲し上げ、ひじの裏の血管から血を採った。
「今日は安静にしていなさい。これを調べてくるからね。他にどこか痛いところはないかね?」
「はい。今のところは大丈夫です」
「じゃ、また何かあったら知らせておくれよ」
そう言って、医者は帰っていった。
「食欲はありますか?」
「はい」
「それなら、あとで食事を運んでもらいます。今日はゆっくり休みなさい」
シスターも部屋から出て行った。僕の部屋はいつものように静けさが戻った。空はまだ明るい。昼寝をしたのというのに、まだ眠れそうだ。布団をかぶり僕はまた、夢の中へと帰っていく。
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