第14話
僕は夢の中のヤマトが倒れたとき、王子の声を耳元で聞いた気がした。それからは意識が急に薄れ、現実の世界へと戻ってきた。時計を見ると、針は六時を示していた。外は明るく、時計が狂っていなければ、午前の六時ということになる。起きる時間だ。身体を起こそうとしたが、鉛のように重い。腕も足も上げることが出来ない。
「どうしたんだろう? まさか金縛りにかかってしまったんだろうか?」
時間はまだ十分にあった。それでも、このまま身体が動かなかったらどうしよう。学校を休むわけにはいかない。なんとか指先は動いた。それから手首を回して、ひじの関節も動かせるようになってきた。身体の重さを感じるのは、体力の消耗と疲れによるものだろうか? 夢の中のヤマトと同じように、僕もひどく疲れていた。身体の感覚が戻ってきて、やっと起き上がったのは六時半だった。朝食の時間だ。急いで着替えて、髪はとかさず廊下を足早に食堂へと向かった。
「遅いですよ太郎。まあ、あなたの髪はひどく乱れています。でも、時間がありませんから、あとで直すのですよ。さあ、早く席に着きなさい」
シスターに言われ、髪に手をやった。やはり少し伸びたように感じる。気にはなったが、とにかく今は席に着くことが最優先だった。お祈りをして、静かに食事を済ませると、自室に戻って洗面の鏡を見た。
「僕の髪、こんなに長かったろうか?」
時間もあまりなかったから、髪を一つにまとめた。
「太郎、行くぞ」
部屋のドアが開き、辰輝が顔をのぞかせた。
「うん。玄関で待ってて、すぐ行くから」
歯を磨いて、部屋の中は乱れていないか確認して、身支度を済ませて部屋を出た。急いで出かけると、ときどき部屋の中の物が乱雑に置かれたままになっていたりする。シスターは、僕がいない間に部屋を見てまわるのだ。『部屋の乱れは心の乱れ』と注意されてしまう。そのあと罰を与えられるのだからたまらない。
「よし」
部屋を出るときも再度確認した。玄関には辰輝と麻衣が待っていた。学と沙智も廊下をこちらへ向かって急ぎ足でやってきた。
「そろったね。じゃ行きましょう。シスター行ってきます!」
辰輝が元気よく言うと、食後のおちびさんたちの世話をしていたシスターが玄関へ来て、
「気を付けて、いってらっしゃい」
僕らはシスターに見つめられて、あの藁科に睨まれながら送り出された。辰輝は先頭を歩きながら、ときどき最後尾の僕をちらりと振り返って見た。学校に着いてから、辰輝が僕に、
「お前、髪長くねぇ?」
と言ってきた。
「そうでもないよ」
僕は軽く受け流した。やっぱり髪が伸びていることに気がついたらしい。
「じゃ」
「おう」
それぞれの教室へと僕らは別れた。相変わらず、クラスメイトは僕を無視した。
「あら、太郎君。具合はもういいの?」
斎藤頼子だけは僕が見えているらしい。
「ああ。もう風邪は治ったみたいだ」
「よかったわ」
この斎藤さんが僕に話しかけなければ、僕はここに存在していないような気になってしまうだろう。始業のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。いつの朝、いつもと変わらない授業を受けた。僕はここにいる意味はない。けれど、これは義務だ。担任教師は見た目通りのうすのろで、知能もそこそこ。もう、うんざりだ。こんな世界なんて。
「ねえ、太郎君てば、聞いているの?」
気がつくと、斎藤さんが僕にそう話しかけていた。
「なに?」
彼女は小首をかしげて、
「給食の時間よ」
僕は周りに目を向けた。みんな、机の位置を給食の時の配置にしているところだった。
「ああ、そうだね」
「あなた、最近少し変だわ。何か悩みごとがあるなら、聞いてあげるわよ」
「いや、何でもないんだ」
斎藤さんが話しかけているのを、クラスの数人がちらちらと見ていた。彼女まで僕のように無視されるようになったら気の毒だ。そう思い、僕は彼女から離れた。
「やっぱり、変だわ」
そうつぶやいているのを、背中で聞いた。給食は班ごとに机を向かい合わせる。僕は一人、窓際に机を運んだ。一人の方が、気は楽だし、彼らもその方がいいのだ。空の青さが眩しく、すがすがしい。僕はまた一人の世界へと入っていった。目を閉じると、草原に立つ僕が見える。遠い異国の地で、僕は狩人として誰からも尊敬されている。青い草原の匂いまでしてきそうだ。目を開けると、また現実の世界に戻ってきた。学校の給食はまずくはなかった。空を見て、心の中で風とおしゃべりしながら一人で食べる。なんて最高だろう。食事が済むと片づけをして、机から本を取り出した。
小説の中の僕は、勇敢で逞しくて、常に正しかった。完璧な勇者で、精神力の強さは誰もが驚くほどだ。何があってもくじけない、絶望の淵に立たされたときでも、決して諦めなかった。今、その物語のクライマックスに差し掛かったところだ。その続きは、どうしても読みたかったが、あっという間に昼休みが終わってしまった。この後の授業なんて、受けるだけ無駄なのに。僕にとっては小説の方が重要なんだ。五時間目は算数だが、もうその内容なら、応用まで難なく解ける。クラスの連中は、まだ基礎の段階らしい。あくびが出るほど退屈な時間だった。今日の授業も終わり、やっと下校の時間になった。
『もみの木』に帰ると、僕は今日の仕事をさっさと済ませ、宿題と自主学習をやった。夕食までまだ一時間もある。庭を歩いていると、早百合が藁科に腕をつかまれて、どこかへ連れて行かれるところが見えた。
「またあいつが……」
僕は奴を追いかけた。
「待てよ。僕はあなたを赦さないと言ったでしょう? 早百合から手を放しなさい」
藁科は強くつかんでいた早百合の腕を放し、
「クソガキが!」
吐き捨てるように言った。彼の手にはナイフが握られている。それで彼女を脅してここまで連れてきたのだろう。
「早百合、逃げて」
僕は解放された彼女を自分の後ろへ隠すように引き寄せた。
「なめたまねしやがって。正義の味方気取りかよ。けっ、おもしろくねぇ」
彼は持っていたナイフをちらつかせて、僕を怖がらせようとしているようだ。
「君は逃げて、僕は大丈夫だから」
彼女は無言で首を振った。恐怖と悲しみがない交ぜになったような表情で僕を見つめている。僕がここで死んでも、誰にも何にも影響はない。生きていることだって無意味だ。だから死ぬこともまた無意味なのだ。けれど彼女はここから去ろうとはしなかった。
「ここでお前を刺してもいいんだぜ」
「そう、あなたは現実が見えていない。殺人を犯せばあなたは人に罰せられる。そして、亡者どもに地獄へ引きずり込まれるだろう」
彼は黙っていた。
「そこにいるのは誰です?」
シスターの声がして、木陰から現れた。そのとき、藁科の姿はもう消えていた。
「ここで何をしているのです?」
「散歩ですよ。早百合から少し話を聞いていたんです」
シスターは訝し気な表情で僕らを交互に見た。
「ええ、太郎君に相談していたんです」
「そうですか。ですが、ここで話す必要はないでしょう。中に入りなさい、食事の時間です」
何事も起こらなかったことにほっとした。もし、シスターが来なければ、誰かの血が流れていただろう。
僕らはそのまま食堂へと向かった。藁科の危険度は増している。早く何とかしなければ、きっと最悪な事態が起こるだろう。食事のあと、僕と早百合は談話室に行った。いつもなら、自室で一人過ごすのだが、彼女のことが気がかりだった。
「八時まではここにいるよ。君も一人でいるより気がまぎれるだろう?」
バラエティ番組で、チビたちが無邪気に笑っている。
「ええ、そうね。今日はどうなるかと思って、生きた心地がしなかったわ。私のせいであなたが傷つくなんていやよ」
「大丈夫だよ。僕は傷つかない。たとえ身体に傷がついても、心までは奴にも手が出せないさ」
早百合は僕を見つめて顔を曇らせた。僕の言ったことの意味がよく分からなかったのだろう。
「気にしないで。君のことは僕が守る。信じて」
それでも彼女は不安そうに僕を見た。頼りない用心棒の僕では、守り切れないと思っているのだろう。
「とにかく、一人にならないことだよ。いつも誰かと一緒にいるんだ。僕もなるべく君から離れないようにする」
彼女はうつむいた。
「どうしたらいいか分からないわ。お母さんが私を必要としてくれているのなら帰りたい。でも不安なの……」
「分かるよ。ここにいることが幸せなのか、親元に戻る方が幸せなのか……。とにかく、母親のところがだめなら、ここへ戻ってくればいい。シスターにはそう話しておくといいよ。ここへ帰ってくれば、僕が君を守ってあげられる」
僕はなぜ彼女を守ろうとしているのか? そうすることで、僕は彼女にとって必要な存在になれるからだ。人は誰かに必要とされなければ、そこにいる意味も価値もなくなる。
「そうするわ。太郎が言ったとおり、お母さんとしばらく暮らすわ。一緒に暮らせると判断出来たら、お母さんの元に戻る。でも、それが無理だと思ったら、ここで暮らすわ」
彼女の決心が固まったようだ。僕はそれを見守るしかできない。彼女は巣立っていこうとするひな鳥だ。今は不安、迷い、戸惑いためらいが混ざり合っているのだろう。誰かに話しを聞いてもらうことで、心の整理がつくのだ。僕が彼女の心のよりどころなれたことはうれしかった。
「太郎は年下なのに、私よりも心が強いのね。何かを抱えているように思うんだけど。たまには誰かに話した方がいいよ。私が聞いてあげるわ」
「ありがとう。でも君の考えすぎだよ。僕はただの子供だ。彼らと一緒さ。何も考えてはいない」
僕はそう言って、ちびたちを指さした。
「違うわよ。ぜんぜん。あの子たちは本当に幼い子供よ。あなたとは違う。でもいいわ、あなたが本当に苦しい時、私が助けてあげるから。頼りにしてね」
笑顔を取り戻したようだ。もう無理して笑っているふうではなかった。
「さあ、もう時間ですよ。お部屋に戻りなさい」
シスターがやってきて、僕は自室に戻った。早百合はシスターに話しがあると言って連れ立って奥のシスターの部屋へ入っていった。
自室ではもうやることもなく、シャワーを浴びた。それから、ベッドへ横になると、今朝のような気だるさが戻ってきた。身体が重くベッドに沈み込んでしまうんじゃないかと思うほどだ。そのまま、夢の中へと入っていった。
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