第12話
頭がどんよりと重たい。目を開けるとそこはもう夢の中ではなかった。部屋の中は朝にしては妙に明るすぎた。まさかと思い、時計に目をやると、すでに正午を過ぎていた。無理に身体を起こすと、ひどい頭痛で目が回りそうになった。サイドテーブルに水差しとコップが置かれている。コンコンッとドアをノックする音がして、シスターが入ってきた。
「目が覚めたのですね。気分はどうですか?」
シスターは水の入った洗面器とタオルを持っていた。
「あのー。僕、起きられなくてすみませんでした。もうこんな時間に……」
どう言い訳をしようかと考えながらしゃべってみたが、思いつかなかった。
「何を言っているのですか? あなたは風邪をひいているのですよ。熱もあるのだから寝ていなくてはいけません。早く治さなくては」
知らないうちに風邪をひいていて、しかも起きられないほど悪くなっているなんて、信じられなかった。学校に行くのも嫌だけど、こうして、『もみの木』という牢獄で一日過ごすのも苦痛だ。それならまた眠って、夢の続きを見ていた方がずっといい。
「シスター、お話ししたいことがあります」
僕はこの機会に、思い切って言おうと思った。
「何でしょう?」
「藁科さんのことについてです。あの人はここに置いておくべきではありません」
「突然何を言うのです? あの方はわたくしたちのために一生懸命働いてくれているのですよ。それなのに悪く言うなんて許しませんよ」
シスターは藁科の本性を知らない。僕の言うことを信じてはくれないだろう。そう思ったが、あいつをこのままにしておくわけにはいかない。
「彼は本当にいちゃダメなんです。他の人を雇うことは出来ないのですか?」
シスターは厳しい表情で、
「もうよしなさい。二度とこんなことを言ってはいけません」
怒って部屋を出て行った。本当のことを言っても信じてもらえない。でも、真実はいつか明らかになるだろう。きっと、そのときには遅すぎる。僕はなんて無力なんだ。ヤマトのように自信を持てない。しばらくぼーっと窓の外を眺めていた。すると、ドアがノックされて、給仕のおばさんが入ってきた。
「そろそろ、おなかが空くころでしょう? 何か食べないと元気になれないからね」
「どうもすみません。わざわざ作っていただいて」
「いやだよこの子は。そんな遠慮なんかいいんだよ。シスターは厳しい人だけど、それは子供たちのためにそうしているんだよ。シスターのいないところでは、もっと子供らしくしていていいんだよ」
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
夢の中で豪華な食事を見たせいか、すごくおなかが空いていた。熱いのもかまわず、それを一気に食べた。
「よっぽど、おなかが空いていたんだね。おかわりするかね?」
「いえ、もう結構です。ありがとうございます」
本当は、まだおなかがいっぱいでいはなかった。けれど、この人と会話をするのが面倒だった。どうして、僕を子ども扱いするのだろう? 子供は子供らしくというのだろう? 僕にはそれが分からなくて戸惑うのだ。
「そうかい。また、おなかが空いたら言ってちょうだい。病気の子は特別扱いだからね」
そう言って部屋を出ようとして、
「あっ、そうそう、これを忘れちゃだめだわ。お薬、今日お医者さんが来てくれて、食後に飲むようにって、ちゃんと飲むんだよ。でなきゃ、病気が治らないからね」
彼女は今度こそ、部屋を出て行った。今日はどうやって過ごそうか? ここにある本は全部読みつくしてしまった。また同じものを読むのは面白くない。だからと言って、今すぐに夢の続きは見られそうもない。眼が冴えてしまった。用意された水をコップに注ぎ、もらった薬を口に含み飲んだ。僕は本当に風邪をひいたのだろうか? 今は何もすることがなかった。日記さえも書くことがない。これほど退屈で、意味のない時間を過ごすことは今までになかった。身体の具合も、今はそんなに悪くない。ここにいる意味なんでない。どこか遠くへ行きたい。そんなことばかりが頭をよぎる。もし僕に、ヤマトのような行動力と、どんなことにも動じない強い精神力と、研ぎ澄まされた感覚と、戦う能力があったなら、きっとここを飛び出して、異国の地を旅しただろう。残念なことに、僕はその中のひとつも持ち合わせてはいなかった。
外では小鳥のさえずりが聞こえ、部屋には暖かな陽光が差し込む、現実の世界にいることを忘れてしまいそうなほど穏やかな時間がゆったりと流れた。不思議なことに、一瞬ヤマトの世界が見えた。彼はまだあの薄暗い場所で、セシルと話しているところだった。今のは一体何だったのだろう? それからは何も起こらなかった。
窓の外から子供たちの話し声が聞こえてきた。小学生たちが帰ってきたのだ。誰かが僕を見舞ってくれるだろうか? 何もしない、何も起こらない、そんな時間がとても退屈で飽きてしまった。しばらくすると、廊下で話し声が聞こえてきた。シスターが何か言っている。辰輝の声も聞こえた。
「だめです。太郎は風邪をひいているのですよ。あなたにうつっては困りますから」
「僕は平気です。きっと退屈していると思って、学校で本を借りてきたんです。それに、太郎と少し話がしたいんだ」
「分かりました。では、ほんの少しの間ですよ」
「ありがとうございます」
ドアが開かれ、二人が入ってきた。
「やあ太郎、具合はどう?」
辰輝が手を上げて言った。
「うん、とってもいいよ」
僕が答えると、彼は二冊の本を差し出した。
「そんならよかった。これ、まだ読んでいなかっただろう?」
それは僕がシリーズで読んでいた小説の第三巻と四巻だった。
「うん。よく分かったね。早く続きを読みたかったんだ。ありがとう」
シスターが僕らの会話に割り込むように、
「あまり無理をしてはいけませんよ」
と言って、部屋を出て行った。
「顔色いいじゃない」
「まあね」
辰輝はベッドに腰かけた。
「早百合がさ、このところあまり元気がないように思うんだけど、お前、気がついていたか?」
僕も布団から出て、辰輝と並んで腰かけた。
「ああ、思春期だからだろう。難しい年頃だからね」
「大人みたいなこと言うなよ。きっと何かあったんだ。お前は知っているんじゃないか?」
彼は僕の目を覗き込んで、そこに隠された秘密を探ろうとでもしているようだ。
「何を知っているというんだ? 僕に女の子の悩みなんて分かるわけがないよ」
僕がそう言うと、興味が失せたようにしらけた感じで、
「なんだ、知らないの?」
と言った。あのことは誰にも言うつもりはない。彼女が傷つくだけだから。僕が何とかしなければ……。
「なあ、太郎。聞いてるのか?」
辰輝の声が急に近くなった。となりで僕を心配そうに見つめている。
「え?」
「お前も最近変じゃないかって言ってんの。ぼうっとしていることが多いしさ」
「ああ、物語の中に入り込んでいたりするからかな?」
「まあ、いつものことだけれど。それってちょっとやばいんじゃない? 現実逃避したって、この状況は変わらないよ。早く大人になって、自由を手にすることを考えた方がいい」
そう言って、僕の肩に手を置いた。
「辰輝はいつも前向きでいいな。僕には未来が想像できないよ」
「不思議な奴だな。空想の世界は思い描くことが出来るのに、自分のこととなると急に想像力を失うのか?」
「自分に自信が持てないんだ」
「何を言ってんだよ。お前は勉強もできて、スポーツだって得意じゃないか。俺なんて見てみろよ。成績だって中の下。運動能力だって平均並みだ。お前がうらやましいよ」
辰輝はそう言って、僕を励ましてくれた。けれど、僕からしたら、彼の持ち前の明るさと、ポジティブな性格がうらやましかった。
「な、だからさ、自信もっていいんだよ。あっ、もうこんな時間。宿題やらないとシスターに叱られる。じゃ、またあとで」
そう言って、彼は部屋を出て行った。また静けさがあたりを占める。日記を開き、今日のことを少し書くことにした。
「五月二十七日 起きた時間は正午過ぎだった。どうやら風邪をひいたらしい。学校は休むことになって、退屈だった。辰輝が見舞いに来てくれた。彼は早く大人になって自由を手にするのだという。僕にもそんな未来は来るのだろうか?」
日記を閉じ、窓の外を見た。静かに暮れなずむ、鮮やかな紅色の夕日が、だんだんと藍色に押されていく。やけに時間が経つのが早く感じられた。
「もう夕食の時間だ。今日は何だかおかしな日だ」
独りつぶやくと、ベッドから下りた。少しめまいがしたが、大丈夫そうだ。パジャマを着替えて、髪をとかした。また伸びているようだ。髪を一つに束ねてから、部屋を出た。食堂には辰輝がいて、食事を運ぶ手伝いをしていた。本当は僕の仕事なのだ。
「太郎、座ってろよ。俺がやるからさ」
「いや、それじゃ悪いよ」
「バカだな、なに遠慮してんだ?」
辰輝は僕を座らせてから、まめに働いた。シスターが入って来て言った。
「太郎、もう大丈夫なのですか? 熱は測ってみましたか?」
「いえ、測ってはいません。でも、大丈夫です」
「食欲はあるのですね?」
「はい」
「それならいいです。今日は辰輝があなたの代わりをやってくれているのですね。感謝しなければいけませんよ」
「はい、シスター。辰輝さんありがとう」
僕は彼に向かってぺこりとおじぎをした。
「いえ、どういたしまして」
辰輝もまじめな顔でそう言った。これも儀式だ。シスターは気が済んだのか、食堂から調理場へと入っていった。それを見届けてから、辰輝は僕にウインクをした。それから小さな声で、
「めんどくせーな」
と一言だけ言った。あとは黙々と準備を続けた。ちびたちがばらばらとやってきて、それぞれの席に着くと、シスターが例の儀式を始める。
食事のあと、自室に戻ろうとしたとき、早百合が僕に向かって手招きした。僕が彼女に近づくと、
「談話室で話さない?」
と言ってきた。
「いいよ」
何か話したいことがあるのだろう。ちびたちもアニメを見たくて談話室に集まる。そこなら、シスターが監視することもない。未就学児は、きゃっきゃとはしゃぎながら入って行った。僕と早百合は部屋の隅に座った。
「また、何かあったの?」
「ううん。そうじゃないけど、私ここから出たいと思っているの。シスターは厳しい人だけどいい人だわ。問題はあの男。私、近くにあんな人がいるなんて耐えられない。太郎が守ってくれると言ったけど、あなたが傷つくのは見たくないのよ。お母さんの元に戻ろうかな?」
「それが君の幸せならそうすればいい。でも、君のお母さんは、その……。あまりいい人ではなさそうだし、かえって君が傷つくのなら賛成できないよ」
彼女はうつむいてどちらがいいのか考えているようだった。早百合は二年前にここへ連れてこられた。連れてきたのは児童福祉施設の職員だった。詳しい事情は聞いていないが、どうやら、母親の内縁の夫から虐待を受けていたようだ。母はそれを知っていて、彼女を助けようとはしなかったらしい。僕は大人の男はみんな信用できない。そう思った。
「お母さん、先週来てくれて、あの人とは別れたって、言っていたの。私もお母さんと二人なら幸せに暮らせると思う。だけど、本当に分かれたのかな?」
「それを確かめる手立ては一つしかないよ。君がお母さんの元に戻って、しばらく一緒に暮らしてみることだね。だけど、心配だな。僕は君についていってあげられないから」
「シスターに相談してみるわ」
早百合はそう言って、談話室を出て行った。彼女に本当の幸せが来ればいい。僕は強くそう願った。
早百合と入れ違いに辰輝が入ってきた。
「あれ? なに、早百合と密会でもしていたのか?」
「冗談でそういうことを言わないでよ」
そう言って僕は、早百合の後姿をちらりと見た。
「わりい。だって、俺だけのけ者じゃ皮肉の一つも言いたくなるぜ。どうせ、秘密なんだろ?」
「いや、彼女は家に帰れるかもしれないって。ここへ連れてこられた事情は、君も知っていると思うけど、その原因となった男が家を出たらしい」
「そりゃよかったじゃん」
「でも、それが本当かは分からないよ。彼女のお母さん、その男にだいぶ執着しているようだし。僕はそういう女を何人か見ている。だめな女をね」
ここに連れてこられる子供たちの母親は男にだらしない人ばかりだ。母親でいるより、一人の女として生きたがる。それには子供がじゃまだとさえ言う。そんな薄情な女たちは、男に対する執念とも言えるような狂った愛情を示すのだ。僕はそれを醜いと思う。
「お前の思うとおりとは限らないさ。で、早百合はどうするって?」
「シスターに相談するって」
「まっ、だめなら戻ってくればいいじゃん」
他人事のように簡単に言う。けれど、彼はいつでも楽観的で前向きだ。物事を良い方へと考える。それが時として力になるような気がする。
「そうだね。おやすみ」
「俺は見たいテレビがあるからもう少しここにいるよ。おい、お前ら、俺にもテレビを見せろって」
辰輝はテレビの前を占領しているちびたちを押しのけて、チャンネルを変えた。
「えーっ。まだ見たいのにー」
一年生の学が文句を言っている。
「ちびは早く寝なさい。今からは大人の時間なんだから」
辰輝もまだ子供じゃないか。時刻はちょうど八時になったところだった。僕は立ち上がり自室に向かう。まだ、ちびたちが、キャッキャッとじゃれあう声が聞こえた。そろそろ、シスターに叱られる頃だろう。今日は何だか気だるい一日だった。寝すぎたからからだろうか? それとも風邪のせいだろうか? 自室に戻ってベッドに腰かけた。まだ早い時間だけれど、もう横になった方がよさそうだ。微熱があったからシャワーもやめておこう。パジャマに着替えようと思っていたが、そのまま横になってみると、もう動くことさえできなかった。身体が自分のものじゃないみたいに自由が利かなくなったのだ。そのまま、また夢の世界へと入っていった。
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