第十六話「余花 ーよかー」②
湯気で覆われた視界は、どこか夢現のようだ。
そんなことをぼんやり考えながら、蒸し風呂のほど良い熱気に身を委ねていた。
この世界で入浴と言えば、行水と蒸し風呂だ。町の銭湯はもっぱら蒸し風呂だし、それも
温泉もあるにはあるが、その全てが神社の施しだ。湯に浸かれるのは山奥の神社を訪れる参拝客か、神社の関係者に限られる。数ある神社の本社である
世知辛い話だけど、仕方がない。
この世界における入浴は、湯船に浸る娯楽である以上に身を清める
それを始めて実感したのは、風呂場が男女で分かれていないと知った時だった。
最初は本当に驚いた。
というのも静国で一度、桜さんと蒸し風呂に入る機会があったのだ。湯けむりの中の桜さんという際どい想像をしてしまい、たちまち脳が茹で上がったものだ。
だけど、それ以上に驚いたのが、桜さんが僕の反応に首を傾げたことだ。
男女の混浴に抵抗どころか、そんな発想すらなかったという顔だった。
価値観の違いによる
『風呂場で間違いなんか起こらないわよ』
桜さんの爆弾発言は、この世界における入浴を如実に表したものだった。
入浴中は
浴場というのは、神聖な公共の場。
本から取り入れた知識を、現実の価値観として実感した瞬間だった。
(……温泉、楽しみだなぁ)
蛍ちゃんとの会話を思い出し、またもや頬が緩む。まさか視察の最中に温泉に入れるだなんて、夢にも思わなかった。
本当に、楽しみだ。
楽しみなのに、胸のざわつきが治まらない。
(………………)
湯気と共に、静かな時間が流れていく。
そして身体の毒を出すかの如く、胸の内の
『状況は全く分からないけど、早くなんとかした方がいいよ。あんたの魂』
夕焼けに染まった
逆光でよく見えなかったはずなのに、何やら険しい顔をしていたのだけは分かった。普段の表情が
(なんとかした方がいい……か)
落葉さんの言葉通りに捉えるなら、魂を癒すということだろう。落葉さんが僕に触れて、現実に引き戻してくれたように。
(でも、多分それだけじゃないよな)
何が、とは断定できない。
あの時に見た女性も、影のような人も、結局よく分からないままだ。今のところ、前の発作の時のような目立った変化も起こっていない。
一つだけ確かなのは、僕の魂に触れた上での言葉であることだ。
だからこそ一刻も早く、自分の魂の状態を確認する必要がある。一か月の猶予がどうこうなんて言っていられないのだ。
本来ならそれを花鶯さんに伝えるべきだけど、例の『変化』に関連することだったら口外できない。虹さんに口止めされているから。
(虹さんに相談するのが、一番無難だけど……)
虹さんはかつて、僕と同じく変化を経験したことがあるらしい。
それなら彼女に魂を見てもらえば、あの
だけど、その前に落葉さんの言葉の意味をはっきりさせておきたい。もちろん、変化のことは伏せた上でだけど。
そういうわけで、落葉さんに話を持ち掛けた。
そして僕は今、蒸し風呂で温まりながら落葉さんを待っている。
(まさか、こんな形で落葉さんと裸のお付き合いをするとは……)
風呂場を指定したのは、生活において必ず足を運ぶ場所だからだ。あと、日頃の接点がない落葉さんと会える場所が他に思いつかなかった。
ちなみに、二人で話せるまたとない機会ということで、物書きとしての話を聞いてみたいという淡い期待もある。純粋に興味があるのだ。
(まぁ、望みは薄いだろうけど)
落葉さんとの会話を試みて、今まで盛り上げられた試しがない。
彼の口数が少ない上に、僕も上手く言葉を出せなくなるのだ。どうも、話をしたいという気持ちばかりが先走ってしまう。
(……予行練習しておこうかな)
深呼吸を一つ。
隣に落葉さんがいる体で口を開いた。一人なので、落葉さん役も兼ねて。
「えっと、この後、時間ある?」
『別にあるけど』
「実はその、ここじゃなんだから部屋で……じゃなくて、あんまり人に聞かれたくない話だから、できれば部屋でゆっくり話がしたくて」
『じゃあ、俺の部屋来る?』
「え、いいの!? ありがとう。ちなみに、好きな小説とかってあ――」
扉が開いたのは、まさにその時だった。
「…………」
「…………」
風呂場の一人劇場を目撃されてしまった。しかも、よりによって、ご本人に。
落葉さんの冷たい目線が突き刺さる。多分、ごみを見る目だ。湯気ではっきりと目視できないのが、不幸中の幸いだった。
「…………」
(いや何か言って!)
こんなに痛い沈黙が他にあるだろうか。
今すぐ逃げ出したいけど、呼び出したのはこっちなのでそうはいかない。ここはもう、僕から口を開くしかないだろう。
羞恥心でのぼせそうな頭を働かせて、なんとか「アノ」と口を開いた。駄目だ。混乱し過ぎて、口がまともに動かせない。
「コノアト、ジカン――」
「いいよ」
「え?」
「人に聞かれたくないのは俺も同じだから。ここから近いし、俺の部屋でいいよ」
(全部聞かれてたああぁ!!)
恥の上塗りでのたうち回りそうだけど、話が早い。断られる可能性もあったと考えると、むしろ運が良いだろう……タイミング以外は。
「じゃあ、行こうか」
「え? でも落葉さん、今来たばかりじゃ……」
「別にいいよ。行水はもうしたし」
「そ、そうですか」
落葉さんに
急かしてしまったような居たたまれなさを感じると同時に、落葉さんとの雑談はなかなか厳しそうだと改めて痛感した。
脱衣所の前では、鹿男君が待機していた。
主人の風呂の短さに驚いた様子がないことから、落葉さんは普段から長風呂しないのだろう。時間の無駄を嫌う人なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、鹿男君に声をかけた。
「ちょっと二人きりで話がしたくて、落葉さんの部屋にお邪魔させてもらおうと思うんだ。そんなに長い時間にはならないと思うから」
「えっ!?」
なぜか、鹿男君の顔が真っ青になった。
「お、落葉様の部屋にですか……?」
「うん。駄目かな?」
「とんでもございません! すぐに準備をして参りますのでしばしお待ちを!」
言うや否や、鹿男君は背中を向けて猛ダッシュで遠ざかっていった。また三郎さんに怒られやしないかと、背中を見ているだけでひやひやする。
(ていうか、そんな大層な準備が要るのか?)
だとしたら、いきなり部屋に上がり込むのは迷惑だっただろうか。
後で謝らなければと思ったところで、落葉さんが「大丈夫」と口を開いた。
「俺の部屋、基本的に散らかってるから。片付けるだけだと思う」
「えっ?」
「足の踏み場くらいならあるよ」
「いや、あの……」
「俺が片付けると、余計散らかるから」
「それどういう状況ですか!?」
「どうって、言葉通りの状況だけど」
(どの辺が言葉通り!?)
とりあえず、落葉さんはいわゆる『片付けられない人』らしい。その口ぶりから察するに、鹿男君がいつも部屋を片付けているのだろう。
程なくして、鹿男君が戻ってきた。
そして、おたふく風邪さながらに頬がパンパンに腫れあがっていた。あぁ、恐れたことがものの数分で現実に……。
「お二方、大変お待たせいたしました! すぐにご案内いたします!」
(なんで殴られたのにキラキラ笑顔なの!?)
今すぐ土下座したい衝動に駆られたけど、倍の勢いで土下座されて互いに気まずくなるのは目に見えている。申し訳ないけど、あえて何も見えていないふりをすることにした。そうだ……僕は、何も見ていない!
そんなこんなで落葉さんの部屋に案内され、用意された座布団に腰を下ろした。
僕と机を挟む形で、落葉さんも腰を下ろす。
「話って、あんたの魂の件?」
「――――っ」
思わず、息を呑んだ。
秘密主義の社で、ここまで単刀直入に切り込まれるとは思っていなかった。
「…………はい」
呼吸を整え、
「あの時、急に
「例の『発作』と関係は?」
「それは……すみません。分からないです。あの時とはだいぶ違うみたいで」
「確かに。前みたいに倒れなかったしね」
「落葉さん、僕の魂に触れた上で言いましたよね。なんとかした方がいいって。あれは、僕の魂を癒す必要があるという認識で合ってますか?」
落葉さんが口を閉じ、考える素振りを見せる。
「……半分正解、かな」
そして少しの沈黙の後、再び口を開いた。
「確かに俺は『なんとかした方がいい』と言った。だけどそれが、魂を癒すことで解決できるものかは分からない」
「僕の魂がどうなっているのかは……?」
「分からない。見た感じは普通だったよ」
「そうですか」
普通と言われても何がなんだか分からないけど、自分で見れないのに食い下がっても仕方がない。今は、落葉さんの言葉をそのまま受け入れるしかないだろう。
そう自分を納得させた矢先だったから、次の発言には度肝を抜かれた。
「ただ、あんたと同じものを俺も見聞きした」
「えっ!?」
「座敷牢の女と、黒装束の男。あとは、声のような『音』だったかな」
驚きのあまりに絶句した。
同じだ。僕が見た人たちも、声なのか音なのか判別できない『何か』まで。
「気持ち悪い音だった。まるで声の主を隠すかのような、不自然極まりない音だ」
(なるほど……)
声の主を隠すような。言い得て妙な表現だ。音にも声にも聞こえる奇妙な『何か』には、その表現がしっくりとくる。
「俺から言えるのは、一刻も早く魂を見る必要があることだけだよ。魂だけは、自分でどうにかするしかないからね」
「え? でも落葉さん、僕の――」
「人の魂に触れるのはご法度だ。同じ巫女同士であっても変わらない」
「え――――」
「だから俺は、今回の件を誰にも話していないし話せない。もちろん、あんたも」
射抜くような眼差しを、静かに向けられる。
「仮に『魂を見てほしい』と頼んだどころで――誰にも、どうにもできない」
つまり変化と関係あろうがなかろうが、誰かに相談して解決することはできない。自分で魂を見るしか、現状を知る術はないということだ。
だけど、問題はそこじゃない。
落葉さんはさらりと口にしているけど、当の本人がそのご法度を破ってしまったのだ。僕の目を、覚まさせるためだけに。
「……すみません。僕のせいで」
「別に、俺が勝手にやったことだから」
「でも……なんで?」
落葉さんが、微かに眉をひそめた。
怒りとも不快ともとれるそれは、夕暮れの中で見せた『あの顔』だった。
「臭かったから」
「え?」
「臭すぎて我慢ならなかった。それだけだよ」
「え!?」
思わず自分の脇や腕の臭いを嗅いでみたけど、よく考えたら風呂上がりだ。
落葉さんがたちまち冷たい視線を向けてきたけど、こればかりは仕方ないと思う。あまりにも言葉が足りなさすぎる。
「体臭じゃないよ。あんたの『気』の臭い。そういうのが分かる体質だから」
「あぁ、なるほど」
そういえば、初対面の時に『青臭い』って言われたような気がする。
この世界において巫女は神聖視されるけど、本来は普通ではないと人々から恐れられる『鬼』だ。落葉さんの場合は、その体質が『鬼』である
だからこそ、彼は『臭い』を無視できなかったのかもしれない。
巫女という立場でありながら、ご法度を破ってしまうほどに。
「それと、黄林には気を付けた方がいいよ」
「え、黄林さん?」
「感覚を共有するあの人の力なら、今の会話を盗聴するくらい訳ないから」
「…………」
否定できなかった。
先日、虹さんの言葉が急に途切れた時、真っ先にその可能性が頭を
「まぁ、同じ巫女相手に危害を加えることはないだろうけど、あの人はどこまでも『社の人間』みたいだから。念のため」
「……肝に銘じます」
それしか、言葉が見つからなかった。
わざわざ話題を変えてまで忠告したのだ。今の言葉に、おそらく他意はない。
だからこそ、頷くことしかできなかった。
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