第十五話「夕桜 ーゆうざくらー」⑤

「葉月くんはれいしょの味がする人だから、私も影響受けたのかなって」

「馬鈴薯の……味?」


 そういえば、初対面の時にもそんなことを言われたような気がする。

 ちなみに馬鈴薯というのはジャガイモのことだけど……うん。全く分からない。


「意味分かんないよね。えっと……」


 蛍ちゃんがうつむき、懸命に言葉を探し出す。


「昔から、音や文字に味がするの。笛の音を聴いて『あんこの味だ』とか、本を読んでいて『梨の味だ』って……あ、もちろん本当に口に入れたりしてないよ!?」

「うん、分かってる」


 慌てる蛍ちゃんを前に、思わず笑みが零れた。


「音ってことは、声とかも?」

「うん。でも、実際にあんこや梨と同じ味じゃないの。だから葉月くんも、厳密には馬鈴薯みたいな『葉月くんの味』で……」


 知識としてそういう人がいるのは知っていたけど、それを本当の意味で理解するのは難しいし、ましてや共感なんてできないだろう。


 それでも、たどたどしい言葉と声色からは、確かな生を感じた。


 彼女が歩んできた、人生の重みを。

 今の彼女に至るまでの、軌跡を。


「それでね、次第に味でどういう人か……なんとなく分かるようになったんだ」


 顔を上げた蛍ちゃんと目が合う。

 目を合わせるのが申し訳ないくらいに澄んでいて、きらめきに満ちた瞳だ。


「葉月くんは実直で、けして努力を怠らない人の味がするの。そして、実際にその通りの人だった。このままじゃ駄目だって、もっと頑張らないと、私なんてあっという間に置いてかれちゃうって、ずっと焦ってた」

「蛍ちゃんが?」

「うん。でも、それは葉月くんも同じなんだって知って……安心しちゃった」



 蛍ちゃんの顔が、ふにゃりと緩んだ。


 見ているこっちの心まで緩めてしまう笑顔で。



(……馬鹿だなぁ、僕は)


 自分より確実に前にいる。そう思い込んでいたから、蛍ちゃんから『焦り』なんて言葉が出たことに驚きを隠せなかった。


 だけど、考えてみれば当たり前だ。彼女だって巫女になったばかりなのだ。

 僕と同じように不安だらけで、毎日を必死に足掻いて生きているんだ。


「――僕も」


 まだ重たい口を、勢いに乗せて動かす。

 この気持ちを、ちゃんと伝えたいから。



「蛍ちゃんが同じだって知って、安心した」



 蛍ちゃんと改めて目が合う。

 なんだかくすぐったくて、小さく笑い合った。


 そんな不思議と心地良い時間が風化し始める頃合いで、蛍ちゃんが「そういえば」と急に表情を明るくした。


「『春の息吹と共に』っていう小説があるんだけど、葉月くんは知ってる?」

「うん。本屋で立ち読みしたことあるよ」

「そうなんだ!」


 蛍ちゃんの顔が、いっそう明るくなった。


「昨日の夜に読み始めたばかりなんだけど、すごく面白いよね! 金平糖の甘さと酸っぱい梅の味が共存していて、世界観も凝ってて――」


 例の如く頬をりんのように赤らめているけど、そこに恥じらいは一切ない。

 いつもの朗らかな蛍ちゃんはどこへやら、息を荒くして、好きなものに熱くなっている人特有の早口で語っている。小型犬の子犬みたいだ。


 もちろんそれだけなら、全然問題ない。

 問題なのは、その小説だった。


「……蛍ちゃんは、それをどこで?」

さんがね、『淑女たるもの、このくらいは読んでおかないと時代遅れですよ』って、少女向けの本を何冊か集めてくれたの」

「そ、そうなんだ……」


 蛍ちゃんのいう『春の息吹と共に』は、いわゆるボーイズラブ小説だ。この世界では『淑女小説』なんて呼ばれている。間違っても幼気いたいけな少女向けではない。


 ちなみに僕も物語の雰囲気に惹かれて立ち読みしたものの、読み進める内に淑女系だと分かって、そっと本棚に戻した。


 この世界の本には表紙がない。そして本屋の棚はジャンル分けが大雑把というか、あまりそういう概念がないので、時折こういう罠にはまってしまうのだ。いくら物語が面白くても、男の僕にはいろいろとキツイ。


(にしても李々さん、よりにもよって蛍ちゃんに勧めるとは……)


 蛍ちゃんが大人の階段を上る姿を想像してみたけど、居たたまれない気持ちになるだけなので止めておいた。これ以上触れてはいけない領域だ。


 話があらぬ方向へ展開しない内にどうにか終わらせようと、夢中で物語について語る蛍ちゃんに「あの」と声をかけた。


「蛍ちゃん。それは――」




 叩きつけるような鋭い音が、耳に突き刺さる。


 その音で蛍ちゃんの話も瞬時に止み、二人してふすまの方を見た。




「…………」


 花鶯さんが、両手で襖を開いた状態のまま静止していた。もの凄く怖い顔で。

 

 気を見なくても分かる。これは、めちゃくちゃ怒ってる時の顔だ。

 そしてこの顔を見るのは、先日、李々さんと一触即発になりかけた時以来だ。


(もう嫌な予感しかしない……!)


「…………蛍」

「は、はい!!」


 地獄の底からうごめくような声を出す師匠を前に、蛍ちゃんが身をすくめる。


「その本」

「え?」

「『春の息吹と共に』。誰に渡されたの?」

「えっと、李々さんですけど」

「そう……」


 花鶯さんは一言呟くと、僕たちに背を向けた。


「今から授業を再開する予定だったけど、もう少し休んでていいわよ」

「姫さ……花鶯さん、何かあったんですか?」


 おどおどと尋ねる弟子に対し、花鶯さんが「まぁね」と手短に答える。


「主従をわきまえない無礼者におきゅうえるだけよ。すぐ終わるから待ってなさい」


 それだけ言うと、花鶯さんは部屋にも入らず早足で立ち去っていった。

 傍にいた侍女が、開いたままの襖を「失礼いたしました」としとやかに閉める。



 訓練の場には、変な空気だけが残された。



「花鶯さん、大丈夫かな?」

「大丈夫だと思うよ……多分」


 心から心配している蛍ちゃんを騙しているようで、申し訳ない気持ちになった。蛍ちゃんを安心させたかったけど、これはさすがに無理だ。


(怪我人が出ないといいけど……)


 修羅場の再来としか思えない展開に、僕はただ無事と平穏を祈るばかりだった。






   ***






 訓練が終わる頃には、外が見事なまでに鮮やかな茜色で彩られていた。


 今日は黄林さんの授業がない分、第三の眼の訓練に一日を費やした。つまり数時間もの間、ずっと視覚と聴覚を封印していたのだ。


「め、目がぁ……」


 そんな状態で無用心に空を見た結果、一瞬にして夕焼けに目を潰された。


「失礼いたします」


 菜飯さんの声と共に、まぶたの外に影が差し込む。

 恐る恐る瞼を開くと、目の前に傘が広がっていた。どうやら、菜飯さんが横から傘を差し出してくれたらしい。


(あれ? でも今日、雨降ったっけ?)


「ありがとうございます。それ、いつも持ち歩いてるんですか?」

「いえ。今日の訓練は日中を通してと伺いましたので、念のためでございます」

「つまり、日除けのためにわざわざ……?」

「えぇ。お役に立てたようで何よりです」


(ザ・有能な大人だ……!)


 滑らか過ぎるエスコートに、何かと要領の悪い子供の僕はただただ感服した。桜さんが手放しで褒めるのも頷ける。


「ところで、体調の方はいかがですか?」

「え?」

「近頃の花鶯様は、しきりに葉月様の御体を気にしておられます。桜さんの代役としてはもちろん、あの方の従者としても、貴方様の状態を把握するべきかと思いまして。あくまで、私の独断でございますが」

「体調ですか。そうですね……」


 独断で動いたのは、花鶯さんの心労を察してのことだろう。そしておそらく、花鶯さんの耳にもそれとなく入れるはずだ。


 その可能性を踏まえて、花鶯さん本人に伝えるつもりで言葉を探す。


「……花鶯さんに注意されたんですけど、自主練をやり過ぎて疲れを引きずっていたみたいです。でも、体調自体は日に日に回復しています」

「それは何よりでございます」


 菜飯さんは深く追及することなく、柔和な微笑みでただ耳を傾けていた。彼は彼で、花鶯さんの耳としての役割に徹しているのかもしれない。


 主人の心情を察し、陰ながらそっと支える。真面目で使命感の強すぎる花鶯さんとは、主従として相性が良さそうだ。


 だからこそ、代役とはいえ任されたのだろう。

 何かと不安定な僕の身を案じ、見守る役目を。


「すみません。自分で思っている以上に、花鶯さんに迷惑かけていたのかも……」

「ご心配には及びません。単純に、花鶯様が世話焼きでいらっしゃるだけです。その上、御身を削られるほどに真面目でございますから」

「確かに」


 蛍ちゃんの与太話で血相を変えた花鶯さんを思い出し、ふふと笑みがこぼれた。


「でも、花鶯さんのそういうところが好きです。あの人が教育係だから、ここまで頑張れるんだと思います。あ、異性としてではないですけど」

「えぇ、分かります。私も同じですから」


 菜飯さんの笑みが、いっそう柔らかくなった。


「かつて行く当てがなかった私に、花鶯様は御手を差し伸べてくださりました。あのまま彷徨さまよっていたら、私はとっくに野垂れ死にしていたことでしょう。今こうして生きていられるのは、他でもないあの御方のおかげです」

「そうですか……」


 さぞかし過酷な過去だろうに、少しも悲痛な響きがない。ただただ、美しい思い出を紡いでいる人の微笑みだ。本当にかわいそ――――




 違和感で、思考が固まった。




(…………可哀そう?)


 何が起きたのか、全く分からない。

 この状況であり得ない感情が、頭をよぎった。


(あ、れ……?)


 菜飯さんの立ち姿が歪んだ。視界が、たちまち暗転していていく。


 また眩暈めまいかと思ったけど、何かが違う。

 何が違うのかさえも分からず困惑している内に、視界が戻っていく。


(――――――え)




 視界は、確かに戻った。


 だけどそこに存在するのは、暗闇と女性だ。




(…………誰?)


 薄汚れた着物をまとう女性が、鉄格子の向こう側に座り込んでいる。暗くてよく見えないけど、女性が腰を下ろしているのは座敷だ。


(……座敷牢?)


 灯火か何かで照らされているのか、辛うじて女性の顔が見えた。


 女性は、震えていた。

 目を見開き、膝に爪を食い込ませる姿は、見ているだけで痛々し――――


(あれ?)


 よく見ると、鉄格子の傍にもう一人いた。

 間違いなく人だけど、場所のせいか、周囲の暗闇と同化しているように見える。



『――――て―――――――ら」



 どこからか、音が聞こえる。


 いや、声だろうか。ちゃんと聞こえているはずなのに、それが何なのか分からない。辛うじて『音』だと認識できているだけだ。


 ふと、灯火のような光が、鉄格子の傍らにいた人を照ら――――


「葉月様!!」

「――――っ!」




 視界が、一瞬で明るくなった。




 目の前には、見慣れた廊下と夕焼けが広がっている。鉄格子の向こうに座る女性も、暗闇に溶け込んでいた人も、そこにはいない。


 状況が呑み込めず、声がした方を見た。


「大丈夫ですか?」

「…………」


 菜飯さんだ。柔和な物腰は変わらないけど、顔には動揺の色が見て取れる。


(……倒れては、いない?)


 その事実が分かって、ひとまず安心した。

 そして、肩に手が置かれていることに気付いた。菜飯さんじゃない。



 細い指先を視線で追い、後ろを振り返る。



「気が付いた?」


 落葉さんだ。僕の肩に手を置いたまま、静かにこちらを見つめている。


「今のが、例の発作?」

「……分からないです」

「そう」


 何をどう納得したのか分からないけど、ようやく肩から落葉さんの手が離れた。


 逆光で顔がよく見えないからだろうか。夕焼けを背に立つ彼は、いつもと違う、どこか背筋の凍るような雰囲気をまとっていた。


「あの……」

「菜飯の声がして、見に来たらあんたが突っ立ってた。呼びかけても心ここに在らずって感じだったから、あんたの魂に触れさせてもらった」

「えっ?」

「あんたが今習ってる、第三の眼を使っただけだよ。どうなるか分からなかったけど、とりあえず引き戻せたみたいだね」


 魂を通して、身体の症状を和らげることができる。花鶯さんが言っていたことだ。それを、落葉さんがしてくれたのだろう。


「……すみません。ありがとうございます」

「別に。じゃあ、俺はもう行くから」

「はい」


 落葉さんが、いつもと変わらない素っ気なさと共に僕の横を通り過ぎていく――と思いきや、足を止めて振り返った。




 再び、僕を見据えてくる。


 夕焼けに染まった、どこか不機嫌な顔で。




「……状況は全く分からないけど、早くなんとかした方がいいよ」

「何が、ですか?」

「あんたの魂」


 吐き捨てるように言うと、落葉さんは何事もなかったかのように歩き出した。


「……たましい」


 声に出してみても、全く分からない。

 遠くなっていく背中を見つめながら、同じ言葉を頭の中で繰り返した。

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