第15話

 事故の瞬間ははっきりと見ていない。運転席に父が、助手席に母が座り、わたしは後部座席にいた。突然、あっと叫んだ父がすごい勢いでハンドルを切る。と同時に、フロントガラスが光で埋め尽くされた。激しい衝撃とともに車体が横倒しになるほど傾いたかと思うと、大きな水音がして、車がどこかの水中に落ちたのがわかった。

 車内は暗くて何も見えない。シートベルトをしていたわたしは、衝突の勢いで胸を強く締めつけられ、しばしあえいでいた。やがて足元に水が入り込んでいるのを、靴の先の感触で知った。

「痛い、痛い!」

 母の声がする。あとでわかったことだが、わたしたちの車はぶつかった衝撃で左前方が大きくゆがみ、そのせいで助手席の母は下半身を押しつぶされていた。

 父がわたしの名前を呼んでいるのに気づいたので、返事をした。それで意識があるとわかったのだろう。父はわたしに、車から出ろ、と叫んだ。わたしはシートベルトを外し、ドアを押したが、開かなかった。水圧のせいだ。

 開かない、と叫ぶと、窓ガラスを割れ、と言われた。わたしはこぶしひじでガラスをたたいたが、十一歳の少女の力で割れるものではない。その間も、母は火がついたように泣き叫んでいる。

 父の体が助手席側に移動した。一瞬、母を助けるのかと思ったが、そうではなかった。父はダッシュボードを無理やり開けた。下半身に余計な圧力が加わったのか、母の悲鳴が大きくなる。母は暴れ、父の背中を何度も殴る。背中を殴られながらも父はダッシュボードの中からお目当てのものを見つけ、わたしに手渡した。脱出用のハンマーだった。

 これを渡してしまったら、両親はどうするのだろう、とわたしは考えた。でも、それどころではなかった。水は膝のあたりまで来ていたし、母は半狂乱になっている。

「出ろ、早く!」

「痛い、痛い、痛い!」

 それが、わたしの聞いたふたりの最期の言葉だ。すぐにハンマーで窓ガラスを割ると、いくらかの水が流れ込んできたが、車の後方はまだ水の上にあった。わたしは窓から這い出して泳ぎ、岸辺の草をどうにか摑んだ。そこで初めて振り返ると、すでに車は黒い水の中で見えなくなっていた。

 わたしは水から上がろうとしたが、川底の泥がぬかるんで思うようにいかなかった。そのとき、わたしの腕をだれかが摑んだ。顔を上げると、知らない中年の男が立っていた。

「大丈夫か、がんばれ」

 男は叫んでいた。きっと近所の人なのだろう、とわたしは思った。男に支えられて堤防の上に登ると、そこにはまた何人か集まっていて、ずぶれのわたしに気づいただれかがバスタオルのようなものを取ってきてくれた。やがて救急隊が駆けつけたが、その頃にはもう車は完全に水没していて、その夜は見つけることさえできなかった。

 事故の状況がはっきりわかったのは、ずっとあとのことだ。当時、川沿いの堤防道路を走っていた父の車の前に、車線を大きくはみ出した対向車が現れた。父はとっさにハンドルを右へ切ったが、対向車はそのまま突っ込んできた。車は大きくすべり、川に落ちた。午後まで降っていた雨の影響で、川は増水していた。

 両親は車の中から遺体で見つかった。

 わたしは、事故を起こした犯人を憎んだ。そんな人間は死刑になるべきだ、と思った。わたしを引き取った母方の夫婦は、事故についてのニュースがわたしの目に触れないよう気を配っていたが、そんなことは関係なかった。わたしはもう中学生になっていた。

 でも、わたしの期待に反して、犯人は死刑にはならなかった。刑務所に入ることさえなく、執行猶予となった。

 あの夜、わたしを川の中から救い出した男が、その犯人だった。彼は近所の高校の教師で、あの夜は不登校の生徒を家庭訪問した帰りだったという。神経質な保護者との会話に疲れ、ちょうど残業が続いていたこともあり、睡魔に襲われた彼は一瞬、ハンドル操作を誤った。判決文は終始、その男に同情的だった。

 だったら、わたしが殺してやろうと思った。男の住所と名前はすでに調べてあった。当時のインターネットはまだぎりぎりアンダーグラウンドな空気が残っていたから、事故を起こした高校教師などはすぐに特定されて、とある匿名の掲示板に個人情報が書き込まれていた。殺人の方法も知りたかったが、さすがにそれはインターネットに書いてなかった。過去の猟奇殺人や連続殺人について調べてみても、最後は殺人犯が捕まって終わる。だれにも見つからない完全犯罪など絵空事だとわかった。

 わたしはカッターナイフを持ち歩くようになった。犯人の家の前まで実際に行ってみたこともある。門は閉まっていて、ちょうど留守だったのか、とっくに引っ越したのかはわからなかった。もし本人がいたらどうする気だったのかもわからなかった。とにかく、動き回らずにはいられなかった。

 両親の声が耳から離れなかった。あの夜、真っ暗な川の中で聞いた絶叫と悲鳴。両親とは明るい話も楽しい話もしたはずなのに、少しも思い出せなくなっていたことに気づいた。叫び声が何もかも上書きしていった。

 痛い痛い痛い出ろ早く出ろ助けて助けてお願い助けて急げ痛い痛い怖い痛い痛い。

 幽霊が出てくればいいのに、と思った。祖父のように、父も母も幽霊になってくれればいい。そしてあの犯人を呪い殺してくれたらいい。そうでなければ、わたしを一緒に連れて行ってほしい。

 お守り代わりのカッターナイフを、わたしはときどき自分の肌にも当てた。

 死んだ祖父のことを思い出した。母は、死んだ祖父が帰ってきたのだと言った。わたしはもうそんなことを信じていなかった。すべてはあやふやな記憶の中の出来事だ。死んだ家族が会いに来るなんて、ちっとも科学的じゃない。合理性のかけらもない。

 けれど、そのあやふやさが、あの頃のわたしには何より必要だった。

 幽霊や怪談、呪いや祟り、オカルトや超常現象。インターネットで、あるいは本で、とにかくそういうものをむさぼるように読んだ。わたしにとって頼れるものはもうそんなものしか残っていなかった。お話の中では、人は簡単に幽霊になる。女性の幽霊が出たので調べてみると、そこでは昔、女性が自殺していたのでした。そんな理屈が当たり前のように書かれている。

 噓だ。事故現場の川には、あれから何度も行ったけれど、何もいなかった。ただ水がおだやかに流れていただけだ。そこには呪いも祟りも残っていなかった。わたしの両親はそんなつめあとさえ残さず、この世から消えた。そう思うと悔しくてたまらなかった。

 やがていつからか、わたしは呪いや祟りにまつわる怪談を集め始めた。人は、ただ死ぬのではない。霊障をもたらし、おんねんを刻みつけ、生者の世界を侵しながら死ぬ。そうした物語はわたしにとって救いとも思えた。祈りでもあった。しかし、怪談が集まっていくにつれて、わたしの中には別の思いも同時に芽生えた。

 もし、この中に本当のものがあったとしたら?

 人形を粗末にした者は祟られて死ぬ。では、その人形を入手できたら?

 ある家に入った者は呪われて死ぬ。その家にだれかを呼び寄せられたら?

 その魚が発する言葉を聞いた者は死ぬ。どうにかしてその魚を釣り上げられたら?

 もし、呪いや祟りが現実に存在し、ある条件のもとでそれが起動するのなら、法律などひとつも犯すことなく、あの男を殺せる。

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