第3話

 あの音で目が覚める時はたいてい泣いている。じりじりと暑く、顔を流れているのが汗か涙か判然としないまま起き上がる。朝飯屋に行かなければ。

 なるべく顔と頭を見ないように身支度をして、部屋を出る。ドアの鍵が壊れているが、特に盗まれるようなものもない。日はもうずいぶんと高くなっていた。


「あら、瑠璃山さん、こんにちは」

 テーブルで作業をしていたうのが顔を上げて、にっこりと笑って言った。

「もうお昼ですよ」

 彼女は客の引けた店の端で、紙ナプキンを折っていた。エプロンと角枝のカバーは畳んで椅子にかけてある。仕上がったナプキンの山は、どれも几帳面な折り目がついている。

「うのちゃーん、このオッサンだあれー」

 彼女の向かいに身を投げ出すように座っている、学生風の男が気怠そうに言った。湾曲した角枝にはオンシジウムの花が揺れている。付け花である。

「常連さん。毎朝召し上がっていかれるのよ。今日は寝坊したのかしら?」

 黙っていると、

「何か召し上がります?」

 と質問を変えた。首を振る。

「そう」

 うのは柔らかく微笑んだ。

「ふーん」

 男はつまらなさそうな顔で、不躾な視線を投げてよこした。うのは作業を再開する。と、そこへ、

「あら」

 ナプキンを折る彼女の手元へ、椿の花がひとつ、ころりと転がった。

「失礼しました」

 彼女の手よりも先に、男が花を摘まむ。

「これさ、売ったらすごい金額になんぜ。まあ、一昔前の流行りだから?全盛期よりは安いだろうけどさ、原種の椿なんて今でもレアなんだから。うのちゃん俺と組んで会社起こさね?今経営学のゼミに入ってるんだけどさあ……」

「ごめんなさい」

 うのの指が、男の手から優しく椿を奪い取る。そしてにっこりと笑う。

「この花は売り物にしないと決めてるの」

「え~勿体ねえ~」

 なおも管を巻く男とうのを残して、俺は踵を返した。

「あ、瑠璃山さん」

 振り向くと、うのは少しだけ悪戯っ子のような顔をした。

「明日は早起きしてくださいね」

 頷いて店を出る。ほとり、と、花の落ちる音がまた、きこえたような気がした。

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