県警
岸菜町役場 警備本部
上岸地区を取り戻してから、既に半月が経過していた。主戦力を務めた陸自第13普通科連隊第1中隊は既に撤収し、今では第2中隊の巡回チームが高機動車で役場前から出発するのが日常の風景になっていた。
現地対策本部は制圧作戦の終了後、約96時間後に解散。応援で駆け付けていた警視庁と神奈川県警、栃木長野両県警機動隊の銃器対策部隊も同様に撤収している。今ここに居るのは、13連隊2中隊長の
『こちら巡回1班、これより所定ルートを移動しつつ野生動物の検索を開始する。送れ』
「本部了解。昨日も発症したタヌキが殺処分されたばかりだ。厳重に警戒せよ」
『承知した、通信終了』
捕獲された野生動物の数は延べ50頭を超え、半数以上が発症している事が確認されたためその殆どが殺処分されていた。人間慣れしていない動物を上手く保護出来る訳もなく中には罠に掛かったまま衰弱死しているものも存在した。発症していない個体すら、野犬たちが食い散らかした物や噛まれて発症した何かしらの動物が食べたお零れを頂いている可能性もあり、慎重な対応が求められていた。
しかしながら保健所はある程度の割り切った考えで臨んでおり、林野庁の森林管理署とも協議の上で事を運んでいた。いっそ野生動物は全て殺処分し、別の場所から連れて来た個体を野に放って新たな生態系を構築する事も視野に入れているそうだ。
だが渋川市としてはそうなると長期に渡って本件の尻拭いをしなければならないため、可能であれば全ては殺さずに収めたいと言うのが本心だった。
「では、本日もよろしくお願い致します。何かあれば内線か1階の方までお越し下さい」
助役の高井がこの本部と役場の間を取り持っていた。役場は一週間ほど前から通常業務を再開し、上岸地区における家屋の被害や住民の健康状態を集計する作業に追われている。野生動物への対処は警察や自衛隊へ完全に委任している状態だった。
最も、役場職員の半数近くは体調不良や過労を訴えて休んでおり、方々へ手が回っていない事も大きな要因だった。表立って対応してくれるのであれば、任せてしまいたいと言う気持ちもあるのだろう。
そして裏を返せば、これは警察にとって大きなチャンスだった。夜になれば帰ってしまう職員たちと違い、本部には一定の人員が昼夜詰めている。これを利用し、町長室の会話を録音するため指向性マイクを取り付ける等の工作が進められた。
しかし、町長こと牧田の怪しげな会話はまだ記録されていなかった。そんな中で県警は、捜査を既に次の一手へと踏み出し始めていた。
群馬県警渋川警察署会議室 特別捜査本部
「起立!」
ここには渋川署の刑事課、交通捜査課のみならず、沼田署の係員たち、そして県警本部捜査一課の刑事たちが一堂に会していた。
上岸地区で発生した一連の事件に人為的要因が噛んでいると判断した本部班を率いる猪又警視の上申により、ここ渋川署へ極秘裏に特捜本部が設置され、今日が初の会合となったのだ。
全捜査員が立ち上がって後に一礼し、それぞれの椅子に着席していく。それが終わると首脳陣の挨拶が始まった。
「県警本部の
戸場管理官が立ち上がるのを皮切りに、全員が再び椅子から腰を上げた。
「黙祷」
署長の発言で、刑事たちは暫し目を瞑り、犠牲者への祈りを捧げた。次に発せられた「止め」の一言で全員は意識を今に戻し、椅子へと腰を戻していく。
「ありがとう。前述した通り、上岸地区は無事に奪還出来た。だが、事件はまだ終わっていない。諸君等も承知の通り、一連の事件は感染症医療研究センターからの狂犬病ウイルス漏洩が怪しまれている。この期に及んでも尚、研究センターからは何の声明も発表されておらず、沈黙を守ったままだ。全てを白日の下に晒す事で遺族の無念を晴らし、犠牲者への手向けとしたい。各捜査員の献身に期待する。以上だ」
こうして、第1回目の捜査会議が開かれた。全体への報告はまず、事態発生から収束までの憶測を含んだ一連の流れを説明する所から始まった。
「渋川署交通捜査課の宮内警部補であります。県警本部の方へは一度報告書を上げておりますが、本日に至るまで新たに入手した情報を踏まえて、再度のご説明をさせて頂きます」
机の上にある資料を手に持った宮内は事件の流れをゆっくりと話し始めた。
「本件における最初の要因は、上岸地区から沼田市へ抜ける山道こと岸菜町横断道路にて深夜2時頃に発生した、トラックの単独事故に端を発するものであります。この時、トラックに積載されていたであろう狂犬病ウイルスを投与され実験を終えた3匹の犬が収められたケース。これがトラックの横転と共に、住民たちによって犬捨て峠、または猫捨て谷と呼ばれていた渓谷。周辺地区の開発によって生じた人工の谷へ落下しました。これによる落下の衝撃でケースの中に居た犬たちは恐らく意識を取り戻し、自分たちを取り囲む野犬の群れと何らかの争いになり、数匹に咬傷を残すもその数の多さによって、最終的には食い殺されてしまったものであると、私どもは想像を致しました。そう判断するに至った確証でありますが、上岸地区で回収された野犬の死骸の内で6頭にのみ、群れの中の個体には存在しない歯形による咬傷が検出されたためであります。この歯形でございますが、犬捨て峠で回収を致しました犬の白骨死体の中に該当するものが確認出来ました」
そこまで言った所で渋川署の係員が全員に資料の配布を始めた。そこには自衛隊によって射殺された野犬の中で、その6頭に残された咬傷を切り出した写真が載っている。
「射殺された野犬の全てに検死を実施致しました所、その殆どに群れの中で嚙み合った事を示す歯形が残されておりました。この歯形を持つ個体は全て群れの中に存在した野犬である事が判明しておりますが、前述の6頭に残された歯形を持つものの存在は確認出来ませんでした。しかしながら回収した白骨死体の中に、これに該当する歯形を持つ個体が複数認められております。これ等の情報を纏めますと、先ほど申し上げた通り、犬捨て峠に落下した犬からウイルスが伝播したものであると、そう考えて差し支えない状況が揃うと判断したものであります」
「あまり考えたくないが、野犬たちが元々から発症していた可能性は考えられないか」
戸場管理官からの鋭い追及が飛び込んだ。だがこれは同時に、研究センターとの関連性を確かめるものでもあった。
「それに関しましては、野犬たちの外見から可能な限りの追跡調査を行いました。その結果、渋川市内に存在する動物病院の内数軒より、今から遡って2~3年ほど前ですが健康診断に訪れた記録が残されていました。また狂犬病ウイルスは自然発生する病気ではなく、ウイルスを運び込む動物が居なければどうあっても発症する事がありません。現に国内では過去10年近くに渡ってその存在を確認出来ておりませんので、何所からかウイルスが持ち込まれたと考える方が理にかなっていると思われます。狂犬病ウイルスを媒介する事が多いのはコウモリと言われておりますが、岸菜町の一帯で野生のコウモリは過去十数年に渡って確認されておりません。私自身も上白井に親戚が居ります。ですがその周辺ですら、コウモリを見た事がある人間は存在しませんでした」
ここまで来れば、狂犬病ウイルスが自然発生したものではない事が裏付けられたと言えるだろう。その報告に納得した戸場管理官は、当日の時間を進める事を許可した。
「トラックの事故から約2週間。群れの中において全ての野犬が発症するには十分な時間が過ぎました。この間、恐らくですが発症した複数の野犬が周辺の野生動物を手当たり次第に襲い、中には難を逃れた個体が居た事でしょうが、噛まれた傷が原因でその多くが発症。或いは野犬たちが食い漁った死骸を口に運んだ事で感染が広まったと推測されます。自分たちの子供と伴侶の雌犬すら食い散らかし、手頃な獲物が近くに無くなった野犬たちはその後、人間が住んでいる上岸地区へ近付きました。そこで本件の最初となる痛ましい犠牲者。村岡健太くんは襲われ、次に母親の村岡明子さんと続き、多くの住民たちが亡くなられました」
所帯持ちの刑事たち全員の顔付きが険しくなった。遺体は殆ど原型を留めていないが、それでもまだマシと言えた。中には骨が露出するまで食われ、凄惨な状態になっているものもあったのだ。
「この村岡家に住んでいた村岡修吾さんは異変を察知し、孫娘である水希さんを家に居れた後に、本署へと通報されました。これによって急行した本署地域課の係員2名が上岸地区へ通ずる道を走行中、1頭の野犬に襲われている郵便局員を救護しております。被害者は現在も経過観察中で、長期に渡って治療が行われる予定です。またこの救護を行った2名も感染が危ぶまれておりますが、現状としては何も症状が出ておりません。こちらは万全の体制を持って、可能な範囲での業務に励んでおります」
その後も報告は続き、上岸地区での出来事を順に並べていった。そしてようやく、時系列は犬捨て峠で発生した小規模な銃撃戦まで進んだ。
この際に、犬捨て峠で逮捕された4人の外国人グループを取り調べた調書の報告が挟まれた。このグループのリーダーを務めるのはアバス=ウマルと言うエジプト人で、普段は都内商社に勤めている事が判明。数か月に1度、趣味の射撃を犬捨て峠の犬猫相手にしていたと証言している。
撃ち殺して減った分は外国人労働者のネットワークを通じて裏取引を行い、こっそりと補充していたそうだ。猟友会からの情報提供によると、急に3頭ばかりの姿が確認出来なくなると同時に、見知らぬ個体が間隔をおいて1~2頭増えているとの証言から、その謎がこれで明らかになった。またアバスの供述によれば、犬1頭を捕獲して牧田に明け渡す事で十数万の小遣いが稼げていたそうだ。アバス自身もその金を元手に人を集め、他の外国人労働者に小遣い程度の報酬を渡していたらしい。更に補充する犬や猫の裏取引に使用する金もこれで賄っていた事が分かった。
「これで牧田が噛んでいる事は確実となった訳だが、背後関係はどうだ」
「研究センター長の
アバス達の捕獲した犬が牧田へ渡り、そこから研究センターで使用する実験サンプルへ移り変わっていく流れはこれで判明した。残るは、どのような経緯でこの関係性が出来上がったのかを調べる事である。
「犬猫の引き渡しは主に深夜。場所は渋川IC付近、利根川の高架橋下が多かったそうです」
「アバスを泳がせますか? 牧田は恐らく、彼らが身柄を抑えられている事を知らない筈です」
「いや、これだけ連絡の付かない期間が長いと、牧田も感付いている可能性が高い。まず重要参考人として呼び出し、そこからアバスたちの存在を臭わせればもう逃げ場は無いだろう」
この時、既に牧田と笹川には監視チームが張り付いていた。万が一にでも県外、或いは国外逃亡を図る可能性を考慮しての采配だった。
会議が2人の逮捕、或いは任意同行へ向けて話が加速し始めた矢先、本署次長の猪又警視が特捜本部を訪れた。
「失礼を致します。管理官、少々お話が」
「何でしょう」
猪又は戸場を廊下に連れ出し、階段の踊り場まで来てから喋り出した。
「本件でありますが、今の段階では本人たちが吐かない限りは立証する事が難しいでしょう。ですので、内部の者からも証言を得られれば確実に逮捕へ踏み切れるかと」
「……内部の者とは?」
「上岸地区には研究センターに勤務する独身者向けの賃貸住宅があります。そこを足掛かりにすれば、まだ見えて来ない部分も明らかになると考えます。場合によっては司法取引を持ち掛けるのも手でしょう」
戸場管理官は腕を組んで暫し考え込んだ。現状で分からないのは、笹川と牧田の関係性が出来上がるまでの経緯。役場と研究センター内に居る人間の何所までがこの件を知っているのか。本来であれば安楽死させる事が義務付けられている実験動物が何故、落下の衝撃で目覚めるような状態だったのか。また、処理施設にあった虫の息になっている犬猫。主にはこれ等である。
アバスたちと牧田の関係性は取り調べれば更に分かる事だ。だがそのままでは、牧田と笹川の関係性を含む前述した部分は見えて来ない。捕獲した動物を明け渡すだけの関係なのであれば、本件の深い所までは関与していないだろう。
「……やって見ますか」
「ですが同時に、処理施設の内偵も進めるべきかと。もしあそこへ廃棄物を運んでいる業者もグルだった場合、芋づる式に大量の関係者が浮かび上がるかも知れません」
「全員が何もかも知った上での関係だった、と言う事ですか」
「加え、前町長も関係している可能性があります。この事件は、我々が考えているよりも隠された部分が多そうです。お気持ちは分かりますが、今すぐに牧田と笹川を逮捕するのは正解だと思えません」
「なるほど、それは確かにそうですね。分かりました。慎重に事を運びましょう」
「ありがとうございます」
猪又は、猟友会代表の小松氏から提供された情報を鑑み、可能なら事件の関係者全員を一網打尽にしたいと考えていた。この事件がただのウイルス漏洩に端を発する事故ではなく、隠された人災の上に成り立った犯罪である事を何としても証明したかったのだ。
そうする事で、理不尽にもその後の人生を奪われた多くの住民たちと、これまでの思い出を引き裂かれた遺族たちが少しでも報われればと、願わずにはいられなかった。
戸場管理官はまず、役場と研究センターに張り付いている監視チームを増強。24時間体制で牧田と笹川の動向を探ると共に、役場警備本部との連携も強化。更に医療廃棄物処理施設へも監視チームを送り込む事を決定した。そして上岸地区に住む独身研究員たちを極秘に聴取して協力を募り、内情を知るための足掛かりとした。
こうして特捜本部は事件の裏側に潜む未だ闇に包まれた部分を暴くため、ひっそりと行動を開始し始めたのであった。
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