奔走
岸菜町役場3階 町長室前
少し休ませて欲しいと発言した牧田が退出した後、猪又の指示で席を立った
「…………静かだな」
話し声のようなものは何も聴こえない。念のため、建物の外まで出て町長室の電気が点いているかも確認した。予想通り、部屋の照明は落とされていて真っ暗だ。
「電気は消えてる、と。見当違いじゃないか?」
猪又の判断を訝しみながら建物へ戻ろうとした。だが、機転を利かせた荒川は陸自偵察隊に協力を願った。
「はぁ。しかし、遠くの音は拾えませんが宜しいですか?」
「問題ありません。様子が分かればそれでいいんです」
偵察隊がドローンを持っていると小耳に挟んでいた荒川は、これで外から様子を窺えないかと思い付いたのだ。猪又にも事前にこの事は連絡してある。
警戒配置に就いている隊員を1名だけ貸して貰い、路肩に鎮座する軽装甲機動車の陰からドローンのカメラが映し出すコントローラーの液晶を穴が開くほど見つめた。
「では、飛ばします」
「お願いします」
ドローンは低空を這うように飛び、町長室の死角から一気に高度を上げた。道路の上からではバレる可能性があるので、町長室の直線状に位置している木の影まで移動。そこからカメラを最大望遠の状態にして町長室を映し出した。
「……寝てるように見えますが」
牧田はソファの上で横になっていた。特に携帯端末を弄っているでもなく、右半身を下にした状態で寝ている。流石に表情までは分からなかったが、相応に疲れているのが感じ取れた。
「やっぱ警視の思い違いかなぁ。この画面って写真撮らせて貰ってもいいですか?」
「いやぁこれ一応民生品じゃないんですよね。あれでしたら切り取った画像を送りましょうか? それなら構いませんが」
「あ、でしたらこちらのアドレスにお願いします」
荒川は偵察隊員に連絡先を渡し、役場庁舎まで戻った。アリバイ作りのため本当にトイレへ立ち寄り、個室で10分ばかり画像が送られて来ないか待って見る。
「……お、来た」
画像の添付されたメールが届いた。見るに耐えうる画質である事を確認し、偵察隊員にお礼のメールを送ってトイレから飛び出す。
何食わぬ顔で会議室へ戻り、「遅くなりました」と一言添えて席に着いた。役場側も今は気を抜いているようなので、携帯端末を全画面の状態にしたまま大胆にもテーブルに置き、猪又に見せた。
「副署長からメールが来ていました。確認願います」
「うん」
猪又は牧田が町長室のソファで横になっている画像を確認した。表情が一瞬だけ曇る。
「……分かった、ありがとう」
どうにも解せないらしい。猪又は刑事畑を歩んで来た人間なだけあって、自分の勘や推理にはそれなりに自信を持っていたようだ。これを読みが外れたと判断するか、まだ何か隠されていると深読みするか、荒川は口出しをするべきではないと考えていた。
上岸地区 村岡家
時刻が深夜帯へ近付くに連れて、犬の鳴き声が激しくなって来た。近くからはガラスの割れる音や怒号も聴こえており、どうやら野犬たちが空腹に耐えかねて家々に押し入っているらしい事が分かる。
「水希、祖父ちゃんの部屋の押入れから屋根裏に行きなさい。災害用の色んな物が置いてあるから、最低でも2~3日は大丈夫な筈だ。戸板は水のペットボトルか何かでしっかり重しをして、万一にでも犬が入って来れないよう塞ぎなさい」
水希はその言葉の意味が理解出来なかった。しかし、周囲で激しく響き渡る犬の鳴き声から、状況を察し始めていた。
「……お祖父ちゃん」
「ここを守りたいだけだ。ここは祖父ちゃんが若い頃を過ごした家で、お母さんの明子が育った家だ。そして、水希と健多が育った家だ。それを訳の分からないこの事件で失いたくない。この上、水希まで居なくなれば、祖父ちゃんはもう何を楽しみに生きればいいか分からない。大丈夫だ。これは万が一のためだ」
色々と準備をすれば、2人で生き残れる道は十分考えられる。しかし、何所までこの状況がそれを許してくれるかは分からなかった。不意に何所かを破られでもすれば、野犬が雪崩れ込んで来て目も当てられない事になるだろう。そうなれば、生存は絶望的となる。
「…………うん、分かった」
水希は小走りで修吾の部屋へ向かい、押入れを開けて上段から屋根裏へと登った。中くらいの段ボールがバランス良く重なっており、ガムテープにマジックで書かれた「非常食」や「防寒具」と言った文字が薄っすら見えた。
「灯りは……あった」
懐中電灯が置かれているのを見つけ、スイッチを入れた。まず何があるかを正確に知るため、段ボールの陣容を確認していく。
水希を見送った修吾は、妻の仏壇に線香を上げて佇んでいた。自分より先にここへ娘と孫の位牌が並ぶ事になるなど、今までの人生で思いもしなかった事を噛み締めている。
「……婆さん、やっぱりそっちに逝くかも知れん。明子と健多にはもう会えたか? もし会えているなら、優しく抱きしめてやってくれ」
そうして踵を返し、予め用意していた山刀だけでなく小型のチェーンソーも取り出した。ヘルメットを被って両腕と足にタオルや雑誌をガムテープで巻きつけ、もし噛まれても簡単には牙が届かないよう工夫する。
玄関のガラス戸に何かが当たる音がした。同時に犬の鳴き声が一層激しさを増す。
「来たか。ここは是が非でも通さんぞ」
施錠は数分前に確認済みだ。後はガラスが何時まで持つかだが、ここは攻勢に出た方が野犬たちを退けられると判断した修吾は、作業用の皮手袋を嵌めた右手で薪割の斧を掴んだ。
「ふん!」
ガラス戸に犬の顔が薄っすら見える。そこへ目掛けて斧を下から振り上げた。ガラスが割れると同時に、ザクッと言う生々しい感触が刃先から伝わって来た。ガラス戸や玄関の内側にも血が飛び散る。
「ギャン!」
どうやら下顎を叩き割ったらしい。犬が激しく暴れたため、斧がゴトンと音を鳴らして玄関の床に落ちる。それを拾おうとしたが、割れた部分から別の犬が顔を突っ込んで来たので諦めた。
だが次はその鼻先を、腰に提げている山刀で斬り付けてやった。野犬は悲痛な叫びを上げて顔を引っ込ませる。
「帰れ犬ども! ここにお前らの食い物はないぞ!」
2匹がやられた事で野犬たちは怖気づいたのか、一気に下がっていった。割ってしまったガラスはどうしようもないので、下駄箱を動かしてバリケードにする。他にも動かせる物を次々に積み上げ、下のガラスが全て割れても入って来れないようにした。
「取りあえずはいいか。しかし、救助は何時来るんだ」
住民たちがそれぞれの防戦を繰り広げる一方、国はようやくこの事態を把握していた。狂犬病の存在を十分な脅威として認め、関係各所への通達や情報の吸い上げを始めている。
そのほぼ同時刻。群馬県知事から相馬原駐屯地司令へ、災害派遣要請が出されていた。駐屯地司令は第12旅団の副旅団長こと
内々で根回しをしていたお陰で派遣部隊も迅速に決定され、野犬駆除の主戦力は長野県松本市に駐屯地を構える第13普通科連隊に決定。この部隊は山岳レンジャー訓練を行っている事で知られ、山地に置ける機動力が高いと内外でも有名である。上岸地区の制圧作戦が終了した後、他にも感染した野生動物が居ないか山中を捜索する必要性が考慮に入れられた上での選定だった、
また、狂犬病の存在と脅威に対処するため、陸上総隊直轄の中央特殊武器防護隊及び対特殊武器衛生隊の派遣も決定。制圧後の死骸除去や除染作業を行う事になった。他には救出する住民を乗せるための車両も用意され、首都圏の各部隊から96式装輪装甲車が掻き集められた。
群馬県警の要請によって関東管区警察局もこれに呼応し、関東管区機動隊第四及び第五大隊を召集。防毒マスクや拳銃を所持した完全装備の機動隊員が、約300名体制で上岸地区を包囲する警備計画を立案した。
これに加え、長野県警及び栃木県警の銃器対策部隊も陸自の支援チームとして派遣が決定。夜明けと同時に現地へ集合し、作戦に加わる事となる。
役場とテレビ会議をしていた日本検疫衛生協会東京診療所の大久保医師が発起人となり、国立感染症研究所の協力が得られた事で日本感染症学会が隣県からワクチン取り寄せの舵取りを行った。
これによって医療物資の移送もスムーズに行われ、既に現場の矢面へ立つ警察・自衛隊・消防の人員へ回す分は一通り揃った事になる。残りは住民たちのための暴露後ワクチンや製剤の集計が行われているそうだ。
こうして状況がようやく事態の解決に向けて動き出した中、犬捨て峠に居たパトロールチームは加藤陸曹長からの無線で、ある情報を受け取っていた。
「堀越だ。どうした」
『渋川署に山の上の医療廃棄物処理場から通報があった。常駐要員3名が施設内に雪崩れ込んで来た野犬によって逃げられなくなったらしい。昼間から居たそうだが、施設は鉄の塀で囲われてるから入って来る事も無いだろうと思って逃げなかったと言っている。迷惑な連中だが助けない訳にはいかない。こっちは先に向かうから急いで戻って来てくれ。以上だ』
「了解、直ちに向かう」
加藤からの情報をパトロールチームの全員に通達した。好きなようにこき使われていると感じたのか、赤羽士長が異を唱えた。
「普通科の連中に来て貰ってから行動を起こした方がいいんじゃないですか。我々、これでも一応は機甲科ですよ」
今は事情があってこんな状態だが、普段の彼らはオートバイや偵察警戒車を使用した各種の偵察活動を主とする部隊だ。限定的な直接戦闘も行うが、普通科ほどの火力は当然備えていない。
「戦車乗り回してる連中より遥かに小銃を撃つ機会は多いさ。こうやってグレーゾーンな事態に関係機関と連携を取りつつ情報を集めるのも、偵察隊の役割だ。それに、まだどうやっても普通科は出張って来れない。ならば駆け付けている部隊が最善を尽くすべきだろう。総員直ちに乗車、来た道を戻るぞ」
堀越は赤羽の意見を一蹴して乗車を促した。銃対隊員たちも現場指揮官車に乗り込み、渋川署の3人組も2台に分乗させる。
こうしてパトロールチームは来た道を引き返し、山頂方向に伸びる道路を走り始めた。
医療廃棄物処理場前
加藤陸曹長が率いる高機動車は処理場の約20m手前まで進出。ドローンによる事前偵察を行っていた。
「何匹ぐらいが入り込んだ」
「9匹のようですね」
上岸地区を襲った野犬が合計23匹。犬捨て峠で確認された成犬の死骸が3匹と、処理場に入り込んだ9匹を合わせると岸菜町役場が確認している35匹にぴったり合致する。と言う事は、ここを制圧すれば残りの野犬は上岸地区だけだ。
「総員弾装を交換。堀越たちが到着次第、直ちに制圧行動へ入る」
突入のための準備を始めた。その数分後、山の下から上がって来たパトロールチームが合流する。
「どんな状況だ」
「9匹が入り込んだ。まだ職員たちは無事らしいが、1人が鉄塔によじ登って逃げられなくなっているそうだ。急いで救出せにゃならん」
施設は相応に広く、野犬たちがその中に点在しているとなると制圧は時間が掛かる。何か策が必要そうだった。
「野犬を一箇所に集めて、一気に制圧したい所だな」
「でしたらドローンにライトか何かを取り付けて飛ばしましょうか?」
「いや、狂犬病は病状が進行すると光源を怖がる。それは逆に野犬たちを広範囲に散らしてしまうだろう」
「普通にドローンを処理場の中に入れて誘き出すのはどうだ」
「今はそれぐらいしか出来ないか、取りあえずその案でいこう。で、一番の問題は何所から踏み入るかだが」
処理場は周囲を全高5mほどの鉄で出来た壁が覆っている。何所から野犬が入り込んだのか詳細は不明だが、正面の入り口は閉ざされていた。
「そこの入り口は入れないのか?」
「車両用の正面入り口は普段、鍵が掛かっているそうだ。裏にも通用口があるらしいが、まだ確認出来ていない」
「施設の詳細が知りたいな。中と連絡を取ろう」
渋川署を介して、処理場の連絡先を教えて貰った。業務用端末を使ってその番号に電話を掛ける。
「もしもし。陸上自衛隊の者ですが、処理場の手前まで来ています。何所からか中に入れる所はありますか」
『裏手の通用口が開いています。そこはドアノブ式なので、野犬がどうこうは出来ない筈です。中に入ると、処理場内とはまた区切られた空間になっています。野犬が暴れまわっている場所へはその先のドアから入る事が出来ます』
「分かりました。状況が状況ですので、銃器を使用します。何所か頑丈な物で覆われた空間があれば、そこで身を潜めていて下さい。それが不可能なら床に伏せるようお願いします」
『はい、ありがとうございます』
通話を終了させ、車列は処理場の裏手へと回り込んだ。ドローンで一応様子を探るが、通用口から入ると本当に処理場とは区切られた空間になっていた。
「これなら安心だな、行こう」
堀越を先頭にドアを開けて、区切られた空間に入って行った。ここで装備の最終確認を行う。
突入の正面戦力は当然だが偵察隊が務め、銃対は後方警戒と支援に就いた。ドローンも処理場の上空に待機している。
「銃対3分隊、準備よし」
「了解。御三方は外で見張りをお願いします。万一に野生動物が現れた場合は車両に乗り込み、クラクションを鳴らして危険を報せて下さい」
「分かりました、何も出て来ない事を祈ってます」
渋川署の3人組は留守番だ。銃を持っていない状態で同行させる訳にはいかないし、仮に持っていたとしても普通の警官には荷が重い。だが丸腰のまま残すのも不安なので、偵察隊から9mm拳銃を貸し出した。あまり余計な事は教えず、安全装置を解除したら撃てる状態で渡しておく。
それが済んでから3チームは配置に就き、暗視ゴーグルを装着して突入の準備が整った。
「ドローンをゆっくり降下させろ」
「了解」
処理場の真上に居たドローンがゆっくりと降りて来る。その独特のモーター音を聞き取った野犬が少しずつ集まり始め、空を不思議そうに見つめていた。
「……野犬が中央に集まりました」
モニターを見る筒井一士がそう告げた瞬間、堀越は静かに「GO」と口走った。
ドアをゆっくり開け放ち、音もなく処理場の中へ進んで行く。全員の視界には処理場の中央に集まって空を見上げる野犬たちがしっかりと映っていた。2チームはその野犬たちを半包囲し、全員が射界に収める事に成功する。
「よーい、撃っ」
89式小銃とミニミの銃声が静寂を引き裂く。不意打ちを食らった野犬たちは次々に射抜かれ、地面にバタバタと倒れ込んで行った。
「5体逃走しました、奥へ逃げて行きます」
「このまま追うぞ。包囲陣は解くなよ」
処理場がそれなりに広いとは言え、隠れられる場所が多い訳ではない。それに半ば正気を失った野犬たちの思考が上手く回る筈もなく、狂犬病特有の不可解な行動が自身の逃走を時折り邪魔した。偵察隊はその隙を逃さずに野犬たちを仕留めていく。
「装填! 援護願います!」
「右へ逃げたぞ!」
「1体が左へ逃げました」
追い詰められた野犬は施設と処理場を覆う壁の隙間を器用に逃げ回った。その内の1体が、殿として警戒中だった銃対の前に躍り出る。
「分隊長、野犬です」
「射撃用意」
新田の号令によってMP5の銃口が野犬を睨む。セレクターは3点バーストに設定してあった。
「来ます!」
覚悟を決めたのか、口元から泡と唾液を垂れ流す野犬は銃対に向けて突っ込んで来た。しかし9mm弾の小気味良い射撃により10m手前の所で無残にも崩れ落ちてしまう。
「目標沈黙」
「警戒は続行、少し距離を取るぞ」
死んだフリから襲われでもしたら堪らないので、死骸からは十分に距離を取った。そうしている内に野犬9匹の制圧が無事終了。3チームは処理場の中央で落ち合った。
鉄塔によじ登っていた職員も救出され、堀越と加藤は当直責任者の男性から事情を訊き出している。その傍ら渋川署の3人組は処理場の中へ恐る恐る足を踏み入れ、偵察隊へ拳銃を返却した。同時に、ここが事件の発端となったトラックの目的地である事を思い出し、職員たちにバレないようこっそりと証拠集めを始めた。
恐らく車両が積載物を降ろすであろう場所に入った3人は、そこで目を疑うような光景を目にした。
「警部補、これは」
「……どうやら、この事件は相当に根が深いらしいな」
ビニールシートで覆われた一画には、犬や猫の死骸が入ったケージが幾つも鎮座していた。それも、犬捨て峠の底で目にした物と同じ種類である。中には殆ど虫の息になっている犬も複数確認出来た。
「写真撮りますか?」
「令状も何も持ってないからバレないようにな。これだけで犯罪を立証するのはまだ難しいが、大収穫と言っていいだろう。研究所が一枚噛んでいる事は間違いないな」
「あの職員たちは知ってるんですかね」
「知ってたら助けなんか求めないさ。恐らく、これを処理する別部署の人間が居る筈だ。あくまでここは一時保管の場所なんだろう」
この光景を写真を収めた3人は、何食わぬ顔でパトロールチームに合流。どうやらここから職員たちを避難させる事で落ち着いたらしく、車両へ引き返す彼らを追い掛けた。
3両に分乗したパトロールチームは一路、山の下で規制線を張っている県警機動隊第3小隊の元へ向かった。そこで職員たちを預け、再び山を登って役場への道を走り出す。ふと気付けば、時刻は夜中の2時を回ろうとしていた。流石に疲労の色が濃くなり、役場へ戻ったら報告よりもまず休息を取るべきだと意見が一致。役場の小会議室に用意された簡易ベッドの並ぶ仮眠室で、パトロールチームの全員は暫しまどろんだ。
だが渋川署から来た3人組だけはこの事を一刻も早く署に報せるため、車通りの消え失せた道を近くまで呼んだタクシーに乗って大急ぎで帰って行った。
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