異常

 修吾の通報によって急行した渋川署のパトカーは上岸地区に通ずる道端で横転した郵便局のバイクを発見。更に車を進めていくと、郵便局員が中型の野犬に噛み付かれている光景を目撃した。

 乗っていた地域課の前田まえだ巡査部長と飯沼いいぬま巡査はパトカーを停車させ、トランクからジュラルミンの大盾やさすまたを取り出して駆け寄った。

「まず犬を退かす! その隙に助けろ!」

「了解!」

 異動前は機動隊に居た前田巡査部長は、現役時代を思わせる素早い動きで郵便局員に噛み付いている野犬に接近し、腹部に大盾の角を渾身の力でぶつけて内臓にダメージを与えた。

 苦しそうに「ギャウッ」と呻って口が離れた隙に、飯沼巡査が郵便局員を引き摺って安全な位置まで移動。さすまたを手にして前田の隣で身構えた。

「どうしますコイツ」

「力の差を思い知れば抵抗しなくなるだろう、ちょいと可哀想だが痛めつけるしかない」

 果敢に吼えながら飛び掛かって来る野犬に対し、前田は顔目掛けて大盾を突き出し出鼻を挫いた。「キャウン」と痛そうな声を出すも、飯沼はそれに構わずさすまたの反対側を脇腹へ深く突き刺す。ゴリッとした感触がどうにも気持ち悪かったが、野犬はその攻撃でえづいて距離を取った。しかし、こちらを威嚇する仕草は止めようとしない。

「次の攻撃で盾ごと圧し掛かる。何とか取り押さえるから、捕縄で口を縛ってくれるか」

「やってみます。怪我しないで下さいよ」

 また野犬が飛び掛かって来た。前田は盾を横に構え、間合いに飛び込んで力任せに横へ弾き飛ばした。アスファルトに打ち付けられて体勢が崩れた隙を突き、上から盾ごと押さえ付けに掛かる。

「今だ! 来い!」

 噛まれないよう慎重に首を掴んで取り押さえ、犬の口を捕縄で縛り上げた。口が開かなくなった事で攻撃の手段を封じられた犬は、それでも暴れるのを止めず、前田と飯沼を振り解こうとしている。

 大人しくさせるのは無理でも、どうにかして動きを封じる必要性が出て来た。

「前足も縛れ、俺の捕縄を使うんだ!」

 飯沼が前田のピストルベルトから捕縄を取り出した。前田は体勢を少しずつ変え、犬の後ろ足を自身の両足で押さえ込み、顔と上半身を大盾で押さえ付けて前足を縛れるようにした。

 バタバタと暴れる前足を口同様に縛り上げて道路に転がすと、犬はヨロヨロと不思議な動きを見せ始めた。

「これで取りあえず大丈夫だな。局員の人は無事か?」

「足に酷い噛み傷がありますが意識はしっかりしています。感染症の危険もありますから救急車を手配しましょう」

 郵便局員を介抱する傍ら、救急車の要請と署への報告を行う。

 救急車を待っていると、もう1台のパトカーが現れた。自分たちが乗って来たパトカーよりも手前で停車し、同じ渋川署の警官4人がワラワラと降りて来る。

「2人とも大丈夫か?」

「何とかな。それより手を貸してくれ。あの犬をガードレールに縛り付けて動きを完全に封じたいんだ」

 さっき口と前足を封じた犬を3人がかりでガードレールに押さえ付け、彼らの捕縄で縛り付けて動けないようにした。

 そうこうしている内に救急車が到着し、状況の説明を行う。

「渋川消防です、怪我人はどちらに」

「こっちです」

 ガードレールを背もたれにして休む郵便局員に救急隊員が駆け寄る。傷口を確認するため、ハサミでズボンを切って負傷した部分を露出させた。

「噛まれたのは脹脛の辺りです。意識はしっかりしていますし、肩を貸せば立ちあがれない事もないでしょう」

「了解しました。ちょっと宜しいですか」

 後から来た救急隊員が救命バッグを広げて傷の手当を行う光景を尻目に、6人の警官と1人の救急隊員は郵便局員から見えないであろう救急車の影に集まった。

「あの犬、恐らくですが狂犬病の可能性があります。噛まれた方は居ませんね?」

 後続で来た4人は大丈夫だ。しかし、最初に駆け付けた前田と飯沼はかなり危ない状況だった。2人の顔色がゆっくりと青ざめていき、堪らなくなった飯沼が質問した。

「あれって飛沫感染するんですか?」

「基本的には咬創による感染がスタンダードです。しかし、ウイルスの混じった唾液がエアロゾルとして空気中にあって、それを吸い込んで発症する例も見られています。残念ですが私もそっちの専門ではないので何とも言えませんが、お2人は念のため今直ぐに病院へ向かって感染症医師の診断を受けて下さい。暴露後ワクチンの投与に関しても早めに判断を貰うようお願いします」

 状況が急激に悪い方向へ転がり出した。これでは上岸地区に到着しても、救助活動は困難を極めるだろう。警官は6人とも拳銃を持ってはいるが、不安定な動きで接近して来る野犬に対して銃弾を当てられるかは分からなかった。

 そして、全員の頭に【狂犬病】という文字が重く圧し掛かる。もしこれが本当に狂犬病を起因とする凶暴化なら、何所まで警察の手で対処出来るか疑問だ。どうやって事を前に進めようかと思案の海に潜り掛けたその時、6人の中で最も年長の大山おおやま巡査部長が声を挙げた。

「前田と飯沼は救急車を先導して病院へ向かえ。そのまま事情を説明して診断を受けろ。斉木さいき長船ながふねはここで待機。犬の監視と道路の封鎖、周辺の警戒を怠るな。伊藤いとうは俺と一緒に上岸地区へ向かって状況の確認を行う。それでいいな?」

 名指しされた伊藤巡査は一瞬だけ嫌な顔をしたが、文句を言っていられる状況でない事を認識したのか、ホルスターから拳銃を取り出して装弾のチェックを行った。ここに残る斉木と長船の両巡査も、同じように拳銃の確認を行っている。

「では各自、行動に移ろう。前田、飯沼、まだ発症するとは決まった訳じゃない。気をしっかり持て」

「分かってますよ。ベッドに縛り付けられて再会しない事を願ってます」

 前田は気丈だが、飯沼は諦めの表情が浮かんでいた。2人が乗るパトカーは方向転換を終え、郵便局員が乗ったストレッチャーが収容されると同時にサイレンを鳴らして救急車共々走り去る。

「伊藤、行くぞ。斉木と長船はここを頼む」

 規制線の黄色いテープが道路を封鎖した。大山と伊藤が乗るパトカーは上岸地区へ向けて出発。その車内で大山自身も腰のホルスターから拳銃を取り出して、火の粉を払うための準備を終える。渋川署への報告も同時に行った。

「至急至急、渋川201から渋川PS宛て。通報のあった上岸地区へ移動中、野犬に襲われていた郵便局員1名を保護。既に救急車で搬送を終えたが、救急隊員から野犬が狂犬病を発症している可能性が示唆されたため、野犬と接触した前田と飯沼の2名を救急隊の先導に差し向けて念のため病院で診断を受けるよう指示した。現場には斉木と長船の両巡査が待機して規制線を展開。これより伊藤巡査と共に通報のあった上岸地区の状況確認に向かう。後続の係員にあっては十分な防護装備を着用の上で現着するよう通達願いたい」

 狂犬病という言葉に、渋川署の通信室は息を飲んだ。日本国内では根絶されたと言われている狂犬病がこんな山奥の田舎町で、あまつさえそれで凶暴化した野犬の群れが存在している事実を、誰しもが受け止め切れなかった。


上岸地区 村岡家

 通報から約1時間。まだ警察はこの上岸地区に到着していなかった。家の外からは犬の呻り声が途切れる事なく聴こえて来る。何所の家かは分からなかったが、怒号と悲鳴も何回か聴こえていた。また何人かが犠牲になったのだろう。

「婆さん、もしかすると近い内に会う事になるかも知れん。怒らんでくれ」

 仏間に飾られている、先立った妻の写真を前に呟いた。

 テレビではまだこの事件についてのニュースは流れておらず、ラジオからも情報は何一つ湧いて来ない。

「……そうだ、あのリストは」

 修吾は山師を行う傍ら、役場や猟友会と連携して野犬が形勢した群れのリスト作成を手伝っているのだ。

 居間で横になって眠る水希を起こさないよう、本棚からファイルを取り出して広げる。見覚えのある野犬が目に飛び込んで来た。娘の明子を襲っていた内の1頭で、耳の垂れた茶色い雑種である。

「ナンバー14、目撃情報は一昨年からか……」

 見た目だけなら愛嬌のある顔付きだ。しかし、さっき見たコイツは目を血走らせ、正に血肉を求める狂った存在に変化した姿だった。これでは小さい犬も油断出来ない存在となるだろう。

 そもそも野犬の群れは犬捨て峠を中心に棲息しており、人の居る地域には殆ど近寄らないため、自然に凶暴化して町を襲いに来た事がどうにも解せない所である。餌が無くなったか、もしくは何か集団で凶暴化する因子が発生したのか。

 修吾の頭にも【狂犬病】の3文字は浮かんでいたが、あれはウイルスを媒介する動物が居なければ自然発生する病気ではないので、人の手が介在しない限りは有り得ない事だった。現にこの周辺でコウモリ等が生息していない事は周知の事実である。

「分からんなぁ……何が原因だ」

 ふと、遠くからサイレンが近付いて来る事に気付いた。だが警察が到着したとは言え、野犬が屯する中でどうやって救助活動をするのだろうかと、疑問を抱かずにはいられなかった。


渋川署地域課 大山巡査部長

 上岸地区へ通ずる道にパトカーを進めた直後、異様な光景が目に飛び込んだ大山はサイレンのスイッチを切った。3匹の野犬が道路の上で何かを食べているらしく、アスファルトには赤い液体が広がっている。千切れた布のような物も見えた。

 運転していた伊藤巡査もその光景を目にした事で、ゆっくりブレーキを踏んで車体を停めた。

「……伊藤、少しずつ進め」

「…………了解」

 ブレーキを緩めつつ、歩いたほうが早いぐらいの速度でパトカーは進む。野犬まで残り10mという所に接近した直後、伊藤巡査が車を停めて唸った。

「どうした」

「こ、子供です。人間の子供を食ってます―――」

 その言葉で大山は前方を凝視した。確かに子供だ。ランドセルはズタズタに引き裂かれ、教科書や筆箱も散乱している。見るも無残な姿で【肉】として貪られていたのだ。

「サイレンを最大音量で響かせるぞ。クラクションも鳴らして突っ込め。追い払った後にシートか何かを掛けるんだ」

「……分かりました」

 緊急走行時のボリュームでサイレンをがなり立てた。同時にクラクションも鳴らして野犬に向け突っ込んでいく。さすがに驚いた3匹は食べるのを止め、上岸地区へ向けて一目散に逃げ出した。

 この隙に大山と伊藤は、念のためにマスクを着けてパトカーから降車。トランクに入っている遺体保護シートを上から掛けて子供を安置した。顔色の悪くなった伊藤が小走りに木の影へ入り込んで吐き始める。

「……酷いなこれは」

 大山は目を覆うような惨状に、思わずそう呟いた。今の日本で起きていい光景ではない。

「ここ日本ですよ。これじゃ途上国のスラム街みたいじゃないですか」

 ひとしきり吐いた伊藤は若干だが顔色が戻ったようだ。ペットボトルの水でうがいをすると、完全とまではいかないまでもかなり回復したらしい。

「昼飯が全部出ました。もう何も出ないんで安心して下さい」

「いらん報告はせんでいい。先に進むぞ」

 パトカーに乗り込んで前進を再開する。両脇が森に囲まれた道を進み続けると、上岸地区の看板とも言える郵便局が見えて来た。しかし、ここでもまた異常な光景を目の当たりにする事となった。

「誰か襲われています」

 郵便局の出入口付近で、2匹の野犬が道路に寝そべる男性を襲っていた。1匹は中型だが、もう1匹は体の大きな犬だ。

 男性は襲われながらも懸命に立ち上がって野犬から逃げようとしているが、大型の野犬が力任せに引き摺り倒すため中々逃げられないでいる。

「さっきと同じ要領で突っ込め。俺が救助するから、収容したら一旦逃げるぞ」

「りょ、了解」

 あからさまに尻込みした返事をする伊藤を余所に、大山は後部座席に置いてあった小盾へ手を伸ばす。そしてホルスターに収まる拳銃を取り出し、撃鉄を起こした。あとは引き金を引けばすぐに撃てる。

「いいぞ」

「出します」

 伊藤がアクセルを踏み込むと同時にサイレンのボリュームを最大に回した。クラクションも同じく耳障りな高音を発している。

 大きい音を鳴らしながら猛スピードで突っ込む車に中型の野犬は驚くも、大型の方はそれに恐れる事なく逆に立ち向かって来た。タイミングよくボンネットの上に飛び掛かり、フロントガラスにその体を叩き付けると、縦横にヒビが入って視界が悪くなった。

「くそ!」

「ハンドルを左に切れ! 急ブレーキからバックして振り落とすんだ!」

 噛まれていた男性を轢かないよう、車を左へ滑らせる。伊藤は次に命令通り急ブレーキを行った。大急ぎでギアをバックに入れ、アクセルを一気に踏み込むと野犬がボンネットから転がり落ちていく。

「後ろのロックを開けてくれ! 救助するぞ!」

「はい!」

 伊藤が運転席側から後部座席のドアロックを解除した。その音を確認した大山は外に飛び出し、小盾を構えながら警戒しつつも倒れている民間人に駆け寄る。

「警察です! 立てますか!」

 男性の民間人は、恐らく年齢40代前後と見られた。ほぼ全身から出血し、服はあちこち破れている。腕や足は肉が抉れている箇所も確認出来た。何か言葉を発しようとしているが、余りの恐怖で声にならないらしい。

「伊藤! PCをもっと近付けろ!」

 パトカーがバックを始め、右後部のドアが間近に迫る。ドアを開け放ち、男性を担ぎ上げて中に押し込んだ。自分も乗り込もうとした直後、左足の革靴が何かに引っ張られてすっぽ抜ける。ハッとなって振り返ると、別の大型野犬が靴を加えたまま血走った目で見つめていた。

「うおっ!」

 咄嗟に顔面へ発砲。しかし兆弾する音と銃声が響いただけに終わった。だが野犬はその音に驚いて逃げ去ったため、車に乗り込んでドアを無事にロック出来た。

「出せ! 一旦逃げるぞ!」

 パトカーが方向転換しようとした直後、無数の野犬が四方八方から突撃して来た。車体にガンガンと体当たりの音が響き、野犬の吠え立てる鳴き声で伊藤がパニックに陥る。

「巡査部長! ヤバイです!」

「轢いて構わん、逃げろ! 今は安全の確保が最優先だ!」

 何回か車が大きく揺れるのを感じながら、パトカーは無事に上岸地区から脱出した。待ち構えていた応援の救急車に男性を収容し終え、車体の損傷を確認する。何箇所かは凹んでおり、相当の力でぶつかられた事が窺えた。

 増援の警官が到着し、再び上岸地区へと前進を開始。すると、野犬たちが地区の入り口に立ちはだかる光景が彼らの目に映り込んだ。まるで前進を妨害するようなその布陣に、警官たちは足を止める。長い睨み合いが始まる瞬間だった。

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