悲劇

 夜間に起きた居眠り運転を原因とするトラックの横転事故から、早くも二週間の月日が流れていた。町は平穏そのもの。いつも通りの時間が流れている。 


 事故が起きた群馬県渋川市の岸菜町は、沼田市岩本町の隣に位置する小さな田舎町だ。上白井かみしろいと呼ばれている地域の中に新たに作られた町で、誕生から今年で40周年を迎えている。初代町長は沓沢武雄くつざわたけおという、元は地主だった男だ。現在は12代目の牧田健介まきたけんすけが町長を勤めている。

 その中でも、山を切り開いて作られた上岸地区は、初代町長沓沢が「山と共に生きる」をコンセプトに開拓した四方を森に囲まれる閑静な住宅地だった。沓沢の自宅も当時はここにあったが、現在は既に取り壊されて跡地は木材製作所になっている。11代目町長の大沼武明おおぬまたけあきが誕生してから、麓の町に独立行政法人である感染症医療研究センターが誘致されて町は活性化。上岸地区にも単身者研究員用のアパートが建てられ、高齢化が進んでいた地区は若者が増えた事で活気付いた。

 更に、山の上には研究センターの排出する医療廃棄物の処分場も建設され、雇用問題もある程度の解消が図られた。大沼はこの経済効果と地域雇用問題解決の促進を図った事で、一躍有名人となり多くの支持を得るに至った。

 しかし、上岸地区の開拓と処分場の建設に伴う森林伐採。道路を作るために山を削り取った事で進む環境破壊が次第に深刻化し、野生動物の多くが住処を追われ、人里に姿を現すようになった。これに乗じて増えたのが、無責任な飼い主たちによるペットの遺棄だ。一時期は日に10を越す犬や猫が山を削り取った事で生まれた崖下に捨てられ、住民たちから「犬捨て峠」だの「猫捨て谷」と呼ばれる存在になっていた。特にこれで野犬化して群れを形成した犬の対処に行政は追われ続け、今もなお集団の特定と捕獲が進んでいる。

 

 だが、この上岸地区で暮らしている1人の女子中学生。村岡水希むらおかみずきにとっては、来年に控える高校受験と比べればそんなのはどうでもいい事だった。いい高校に進学し、辺鄙な土地から出て広い世界に飛び出したいというのが夢の、年相応な中学生である。

 麓の中学に通う彼女は、小学五年生の弟である健多けんたの手を引いて、家路を歩いている最中だった。

「学校、今日はどうだった?」

「……うん」

「うん、じゃ分からないでしょ」

 比較的活発な性格の姉に対して、弟の健多はどうにも引っ込み思案で人見知りな子だった。家に見知らぬ人が来ればすぐ隠れてしまい、姉の後ろから出て来ない事も多い。

「……算数のテストで90点だった」

「お、えらいえらい。次は100点目指そうね」

 上岸地区へ続く山道を、2人で連れ立って歩く。もう何年も歩き慣れた道だったが、今日はどうにも様子がおかしかった。

「……何あいつら」

 道の真ん中に、野良犬が5匹ばかり屯しているのが目に飛び込んだ。ウロウロと落ち着きのない様子で、異様な雰囲気を作り出している。

「お姉ちゃん」

 その雰囲気を感じ取った健多は、姉の腕を掴んで擦り寄った。弟は自身に危害を加えそうな雰囲気を持つ存在に敏感で、本能的な防衛行動を起こしていた。しかし、ここで立ちすくんでいても始まらない。この道を通らなければ家に帰る事は出来ないのだ。

「……いい?気をしっかり持って。お前たちなんて怖くないって表情で歩くの。そうすればあいつらも襲って来ないはずだから」

 弟に言い聞かせながら足を進める。同時に、野良犬たちもこちらに距離を詰めて来た。目は血走り、口から涎を滴らせながら近付いて来る。明らかに普通の状態ではない。

「健多、行くよ」

「うん」

 野良犬たちの脇を堂々と通り抜けた。弟の手をしっかり握っていた筈だったが、何かの拍子で手がすり抜け、弟が一瞬だけ呻いた声と倒れ込むような音が同時に聴こえた。

「え?」

 振り返ると、大きな野犬が弟の背中に圧し掛かり、首筋を噛み千切る瞬間を目撃してしまった。アスファルトが血で染まっていく。その血のにおいに引き付けられるように、無数の野犬が弟に群がっていった。

「健多…健多!」

 返事は無かった。道端の石を掴んで野犬に投げるが、意に介していない。近付こうとすると別の野犬が吠え掛かって来て、牽制するような動きを見せている。こんな状況では助ける事も出来ない。とにかく誰か大人を呼ばないと、自分も危険だ。まず家に帰る事が先決と思い、助けられない悔しさと怒りで溢れる涙を拭いながら、家路をひた走った。


 左右の森が開け、この上岸地区の看板とも言える郵便局を右手に捉えながら、自宅までの道を走り続ける。ようやく見えて来た家の門へと飛び込み、息を整えながら呼び鈴を鳴らそうとした。

「水希、どうしたの」

 声のした方を向くと、洗濯籠を持った母親こと明子あきこの姿があった。急に訪れる安心感と共に、切迫した事態を伝えようとするも、情報が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って上手く声にする事が出来なかった。

「健多が…健多が野良犬に――」

 涙を流しながら訴える娘の様相で、母親は異常を感じ取った。まず娘を家の中に入れようと玄関を開け、背中を抱いて押し込む瞬間、何かが足に噛み付いて力強く引き摺り倒された。水希も同様にバランスを崩して尻餅を付く。

「水希! 鍵を閉めなさい!」

 犬の鳴き声と共に、悲鳴と怒号が入り混じった母の声で水希は恐怖した。その声が意味するのは、ひとつしかない。

「早く! 家に入って!」

 振り向くと、4匹の野犬が母親に襲い掛かっていた。体を大きく動かして抵抗するも、執拗に噛み付く事で血の飛沫が飛んでいる。さっき弟に群がっていたのとは別の個体たちだ。どうやら追い掛けて来たらしい。

「お母さん!」

「来ないで! 早く家に!」

 表が騒がしい事に気付いた祖父の修吾しゅうごが、玄関から姿を現した。座り込んで泣く孫と、野犬にあちこち噛み付かれて血に塗れた娘という、信じたくない光景が広がっていた。

「明子!」

 下駄箱の脇にある竹箒を掴み、裸足のまま外に出た。こちらに背を向ける野犬に竹箒を振り下ろすが、老体の力では大した威力にならない。

「ダメお父さん! 水希を中に!!」

 体の半分もある大きな野犬に押し倒されながらも、孫を案じる娘の気迫に修吾は圧倒された。大きな病気もなく、二児の母として立派に育った娘の最後がこれなのかと、受け入れ難い現実だった。

 先に死んだ女房に申し訳が立たないと思いつつ、座り込んだままの水希を抱き起こしながら大急ぎで玄関の鍵を閉めた。居間に水希を座らせると開けっ放しの窓を閉めて回り、勝手口も施錠を確認。これで自分たちは大丈夫だ。

 しかし、娘はどうなる。まだ助けるチャンスがあるならと思い、踏み台を玄関口に置いて上にある小窓から外の様子を窺った。最後に見えたのは、野犬の群れに引きずられていく娘の足先だけだった。それも家の塀が視界を遮りすぐに見えなくなってしまう。玄関先に残った血溜まりが、無情な寂しさを強調していた。

「……明子…すまん」

 居間に戻ると、水希は放心していた。冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぎ、まずそれを飲ませた。押入れからブランケットを持ち出し、水希の肩にかける。

「大丈夫だ。頼りないかもしれないが、祖父ちゃんが守るからな」

「……健多もあいつらに」

「ああ、この状況だ。言わなくても察しが着く。よく無事だったな」

 家に居る安心感と自身の無力さから、水希は再び涙を流した。5分ばかりの時間が流れ、疲労感で眠気を覚えた水希を横たえると、すぐ寝入ってしまった。

 立ち上がった修吾は、まず警察に連絡するため受話器を持ち上げた。状況を説明していると、外から悲鳴が聴こえている事に気が付く。聴こえてきたのは隣にある家の方だ。この町は、野犬によって占拠されようとしているらしい。

『もしもし、大丈夫ですか?』

「急いで来てくれ。このままじゃ、大勢の怪我人が出る可能性がある。原因は分からんが、町を野犬が襲っているんだ」

『落ち着いて。すぐに人員を向かわせます。周りに怪我人はいますか』

「娘が……恐らくやられた。何処かへ引きずられていって、もう姿は見えない」

『署の人間が行くまで、家からは出ないで下さい。いいですね?』

「ああ、分かった。早くしてくれ」

 通報が終わると、村の全世帯に電話を掛け捲った。騒ぎを聞きつけた所もあれば、何も知らない所もあった。連絡がつかないのは、やられてしまった可能性が高い。そして修吾は、最も掛け難い相手に電話を掛けた。役場に勤める娘婿の高槻だ。


岸菜町役場 町民課

 役場で町民課長を勤める村岡高槻むらおかたかきは、帰り支度を少しずつ始めた矢先に掛かって来た自宅からの着信に、何の疑問も抱かず携帯の通話ボタンを押した。

「もしもし」

『ああ、私だ。高槻くん。時間を貰えるかな』

 掛け来たのは義父だった。既に退庁の時間は迫りつつある。ちょっとぐらいならいいだろう。

「もう少しで帰る所ですし、大丈夫ですよ」

『落ち着いて聴いてくれ。町が野犬の群れに襲われて、恐らく大勢の怪我人や死人が出ている。警察には通報した。今日は帰って来ない方がいい』

 71歳を迎え、未だ足腰もしっかりしていてボケも起こしていない義父の言葉に、高槻は困惑した。今朝まで元気だったのが、急に痴呆症や認知症を起こすなんて事があるのだろうか。どうにも判断に困っていると、同じ町で役場勤めの同僚たちが家族からの電話に次々と出ている光景を見て、信じざるを得なくなっていた。

「お義父さんは大丈夫ですか」

『私は大丈夫だ。だが、明子と健多はやられてしまった。水希は取りあえず無事だが、目の前で2人が襲われる光景を見たせいで、酷く疲れている』

 耳を疑うような事実が義父の口から発せられた。しかし、同僚の何人かが項垂れたり、声を捲くし立てて家族の安否を気遣う光景から、現実に起きている事なのだと否応にでも受け入れるしかなかった。

「…………そんな、バカな」

 目の前が暗転するような感覚と意識が遠のくのを感じた。妻である明子には、父親ゆえ娘に口出し出来ない所をいつもカバーして貰っていた。健多だって、再来年には中学生になるはずだったのだ。与り知らぬ所で奪われた妻の命と、将来を閉ざされた息子の命を思うと、ひたすらに無念が募った。思わず手から携帯が滑り落ちそうになる。

『高槻くん、聴こえるか』

「ああ、すいません。急に目眩が――」

『無理もない。私だって、冷静を装っているがそれは水希を不安にさせないためだ。内心はとても焦っているし、行き場のない悔しさが渦巻いている。だが、どうしたらいいかは分からない。取りあえず、これ以上は誰も失いたくない。帰って来るんじゃないぞ』

 電話越しに、気丈に振舞う義父の姿が見えた。となれば、自分もクヨクヨしてはいられない。

「分かりました。電話には常に出られるようにしておきます。食べ物は大丈夫ですか」

『幸い、明子が昼間に買い物をしてくれていた。2~3日は大丈夫だと思う』

 その後、幾許かのやり取りをして通話を終えた。役場ではこの異常な事態に緊急の対策本部が設置され、情報の収集が始まっている。


 修吾は自身の仕事道具である山刀を取り出し、最悪の事態に備えた。冷蔵庫を覗き、食事の配分も考えている。最悪でも、孫だけが何とか生き延びればそれで十分だ。この期に及んで水希まで失っては、残りの人生を絶望して生きるしかない。ならば、自分が囮になってでも守らなければと、内に強い意志を宿し始めた。


 野犬たちが上岸地区の奥へ雪崩れ込んでいく頃、ペットのテツを散歩させていた清水恒平しみずこうへいはある家の前に差し掛かっていた。

「お、元気か」

「あー、テツと兄ちゃんだ」

 ここは地区長の家である。玄関先では地区長の孫がアスファルトに石で絵を描いていた。

 恒平がふと左を見やったその時、首輪をしていない薄汚れた犬がフラフラと近付いているのが分かった。この辺で飼われている犬はテツだけだ。それが周知の事実なだけに、恒平はとてつもない違和感を覚えた。

「何だ、あいつは」

 テツがその犬に向けて激しく吠えた。普段は温厚なテツにしては珍しく敵意を剥き出しにしている。

 だが犬は構う事なく近付いて来た。それ所か次第に足を速めて走り出す。口の周りが血で汚れている事に気付いた恒平は、体が硬直してしまった。そして後ろから接近しているもう1匹に気付く筈もなかった。

「ぐぅ!」

 人間の呻き声に驚いて振り返ると、地区長の笠木かさぎが孫を抱き上げていた。足には違う犬が噛み付いている。しかもサイズはかなり大きい。笠木のサンダルには、ゆっくりと血が滴り出していた。

「早く逃げろ!」

 その一声で恒平は吠えるテツを無理やり従わせて走り出した。後ろから聞こえる悲鳴や鳴き声に構わず、自宅へ向けて全力疾走する。

 しかし家の前に辿り着くも、そこには別の犬数匹が屯していた。家は塀で囲まれているからそこ以外に出入り出来る場所は無い。どうするか迷っていると、犬たちがこちらを睨み付けて来た。

「ガウ!」

 大きく吠えると同時にテツは犬たちへ向けて突進していった。力が抜けていた手からリードが離れる。

「やめろテツ!」

 テツは自身を取り囲む犬数匹を物ともせずに渡り合った。これがチャンスだと気付いた恒平は玄関まで走り、急いで鍵を開ける事に成功する。

 後ろからテツの悲痛な声がした。今度はこっちが助ける番だ。玄関を開けて下駄箱の工具入れを取り出し、中身を犬たちに向けてぶち撒ける。これに驚いた犬たちはテツから口を放して距離を取った。その隙にテツを玄関先まで引き入れて鍵を閉める。

「……テツ」

 テツは座り込んだまま、動かなくなってしまった。あちこちに酷い咬傷がある。一部からは血が止めどなく流れ出ていた。何が起きたのかよく分かっていない両親や兄を押しのけ、風呂場から持って来たバスタオルでテツを包む。

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