切欠

群馬県渋川市 岸菜町きしなちょう

 深夜2時。こんな時間、崖に沿った山道を走る一台のトラックがあった。その運転手を務める中村竜彦なかむらたつひこは連日の勤務で疲れ果てており、欠伸をかみ殺しながらハンドルを握っていた。

 今月に入って既に20日を越す日数を1日の休みもなく働き続けており、雇用元にはしつこくシフトを調整して休みを作って欲しいと頼んでいた。しかし上司は人手不足を理由にその頼みを断り続け「次は休ませるから、今日だけ頼むよ」と幾度となく発言。そのままなし崩し的に働かされており、中村としては十分に職を辞する決意を固める要因となっていた。

「畜生、俺しか社員が居ない訳じゃないだろ。どういうつもりで管理職やってんだよ」

 口から出るのはため息か愚痴ばかりだ。そこから生じる怒りに任せ、ハンドルを強く握り締めて眠気覚ましに利用する。何度目かも忘れた大欠伸が我慢出来なくなった中村は、少しだけ口を開けて酸素を吸い込みつつ、涙でにじんだ視界を大急ぎで拭った。

 しかし、目の前がはっきり見えたその瞬間、道路を照らすヘッドライトの中を何かが素早く横切った。これに驚いた中村は急ブレーキをかけて衝突を回避しようとする。だがそれは時既に遅く、トラックはカーブの先にある岩場に激突した。その衝撃で車体が持ち上がり、荷台のコンテナ部分が道路を寸断するような形で横たわった。ガードレールも一部破損し、コンテナ後部のドア部分が道路から崖下にはみ出ている。

 中村は完全に意識を失い、運転席の中でグッタリとしていた。衝突による破損でガソリンタンクにもヒビが入り、道路の下へ向かってガソリンが流れ始めている。ショートした電気系統からの火花がそこへ飛び込んだ瞬間、一気に炎が舞い上がってトラックを包み込んでいった。


 山の上にある産業廃棄物の処理施設に夜勤として詰めていた大野おおのは、予定時刻になってもトラックが到着しない事に疑問を抱き始めていた。10分やそこらならまだしも、既に30分も予定の時刻を過ぎている。運転手こと中村の連絡先は貰っていたので、電話を掛けてみるがこれも繋がらない。さすがに嫌な予感を覚え始めた大野は敷地内にある業務用の車を使って、山道を下へ向け走り始めた。

 走り出して5分としない内に、焦げ臭いにおいを感じ始める。窓を開けていたのが幸いし、大野は焦燥感を危機感へと変化させる事が出来た。アクセルを踏んでスピードを上げ、においが強まる方へと向けて車を急がせる。

 そうしている内に視界へ飛び込んで来たのは、暗闇の中で煌々と赤い炎に包まれて燃える、トラックの姿だった。

「おーい! 大丈夫か!」

 車から降りて呼び掛けながら近付くが、当然返事はない。急いで警察と消防に通報し、車に積んでいた消火器で初期消火を行うも焼け石に水だった。

 通報を受け取った群馬県警通信指令課は事故の発生した場所を考慮し、管轄区域の渋川署よりも隣町の沼田署が近い事から、初期対応となる第1陣を沼田署の人員で編成する事に決定。直ちにその旨が通達され、夜勤組の警官数名が現場に向かった。同時に渋川署へも通達が行き渡り、第2陣の警官たちが向かっている。

 渋川市広域消防本部でも位置取りの悪さが考慮された結果、沼田市の消防本部へ応援を要請してこれを第1陣とする事になった。渋川消防も警察同様、第2陣として現場に駆け付けるべく出動した。

 通報から30分。山奥である事も影響し、警察消防の到着には時間が掛かった。先に到着した沼田消防が放水準備を進めているも既にトラックは丸焦げ。運転手が助からないのはもう明白だ。半ば諦めの雰囲気が漂い始める中、大野は沼田署の警官による事情聴取を受けていた。

「山の上にある処理施設で夜勤をしていました。廃棄物の搬入を待っていたんですが、予定時刻を30分過ぎても来なかったので運転手に連絡しましたがこれも繋がらず、嫌な予感がして探しに来たんです」

 処理施設と聞いて、若い警官は怪訝な表情になった。そこへ中年の警官が割って入る。

「医療廃棄物の処理施設があるんだ。こんな時間までご苦労様です」

「いえいえ、それが仕事ですし」

 大野自身に関する聴取が一通り終わると、次はトラックの積荷について質問が始まった。トラックが積んでいたのは、麓にある独立行政法人の医療研究機関が排出するゴミ類で、山の上にある処理施設はこれを受け入れるために建てられたものだ。最終処理には当然、専門の資格を持った人間たちが当たる事になっている。

「積荷の一覧みたいな物はありますか?」

「施設に戻ればありますが、こう燃えてしまっては余り意味がないかと――」

 それもそうだ。夜中の事故、それもこんな場所でだ。下へ流れたガソリンに沿って炎が燃えた形跡も残っている。誰の目にも、居眠りしていてブレーキが間に合わず、岩場に激突して横転。漏れ出たガソリンに電気系統が引火して出火したのだと思うだろう。

「いや、怪しい物が無ければ結構です。ブレーキ痕やこの状況から察するに居眠り運転でしょうし、火災もガソリンによるものと思われます。物損の保険などに関してはそちらでやり取りして頂いて、我々はトラックを回収次第に撤収します」

 消火が終わるも、横転したトラックは完全に燃えカス同然となり、何も残っていないに等しかった。朝になってからトレーラーとクレーン車が現れ、道路を寸断していたトラックを回収して事後処理が行われる。

 寸断されていた道路は再び通れるようになり、後片付けをする警官を尻目に1台のトラックが通行。山の上にある処理施設へ向けて走って行った。これもまた、研究機関の出すゴミを積んでいる。車体には会社名や連絡先が表記されており、環境省が規定している産業廃棄物収集運搬車である事の表示義務も満たしていた。


沼田警察署 交通・地域課フロア

 夜中に事故処理へ出発した交通課の連中が戻って来るのを、彼らと同じく夜勤組だった地域課の奥田おくだ巡査が眺めている。どうやら火災を伴っていたらしく、制服には煤と思われる黒い汚れが着いていた。

「お疲れ様です。どんな事故でした」

 奥田より数年先輩の交通課警官、柄本えもと巡査部長は煤を払いながら喋った、

「居眠り運転で岩場に激突、そっから火事になって運転手もトラックも丸焦げ。場所も時間も悪かったな。それに管轄外だから引継ぎが面倒で面倒で」

「柄本、報告書任せるぞ。俺は少し横にならせて貰う」

 彼とコンビを組む中年警官の永井ながい警部補は疲れ切った表情で、もう限界というオーラを全開にして制服の煤を払うと仮眠室へ消えていった。しかし、気になる事があった柄本は永井を追いかけ、仮眠室に首だけ突っ込んで問い掛けた。

「積荷一覧の件、渋川署の連中に何も教えてませんけど本当に良かったんですか」

「あそこまで延焼しちゃ何も残ってないだろ。道路のブレーキ痕だってガッツリとついてたじゃないか。どう見たってただの事故だよありゃ」

 永井は大きな欠伸をしつつ、仮眠室のベッドに寝転んだ。柄本の声を遮るように布団を被ると、すぐに寝息が聞こえ始める。

「……やっぱ歳を取ると思考力って下がるんだな」

 嫌味のように小さく言い放ちながらデスクへと戻った。奥田が淹れてくれたコーヒーを啜り、まだ眠気に襲われる前に報告書へとペンを走らせていく。


同日夕刻

岸菜町・上岸地区かみぎしちく

 横転事故を起こしたトラックが通った道の途中に、森の中へと通ずる一本の林道が存在した。道の先には周囲を森に囲まれた閑静な住宅地があり、岸菜町上岸地区として渋川市に地域登録されている。

 その上岸地区にある唯一の小さな公園に今、2人の女子高生と1人の男、1匹の犬の姿があった。

「おいで、テツ」

「テツ、チーズ食べる?」

 女子高生の2人は制服姿のまま、大きなシェパード犬を可愛がっていた。テツと呼ばれるこの犬は体のサイズに見合わず大人しく、愛嬌も良いため上岸地区で知らぬ者は居ない存在である。

 撫でている方とは別にもう片方が取り出したチーズをテツは嬉しそうに咀嚼した。食べさせているのは無論、犬用のチーズである。

「家で飯食わなくなるからあんまりやるなよ」

「おやつとかあげてないの?」

「こいつも若くないんだ。人間で言えばもう60代だし」

「そういう考え方すると急に老けて見えるね」

「動物は全部そうだよ。猫とかもな」

 3人は小1時間ほどをそこで過ごし、公園から出た。途中の道で男とテツが立ち止まる。

「じゃあねテツ、恒平こうへい

「おーう」

「ばいばい、テツ」

 テツは一吠えして2人に答える。そのまま恒平と共に帰っていった。暫く歩く続けた2人も次の角で別れる事となる。

「また明日ね、水希みずき。放課後は委員会だから忘れないでね」

「はーい。さゆりも遅れないようにお願いします」

 手を振って別れ、それぞれの自宅に向けて歩き出した。この上岸地区にも横転事故の件は行き届いているが、直接的な被害は何も無いため穏やかな時間が流れている。

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