不全
野犬の群れと警察が睨み合いを始めて約20分後、下の方で規制線を張っている長船と斉木の両巡査から連絡が入った。町役場の助役が庁用車でやって来たらしく、最高責任者でなくとも誰か話しを出来る人間に会いたいとの用件だそうだ。
大山巡査部長はその車の通行を許可。伊藤巡査を引き連れて山道を下り始める。こうすれば途中で出会う事が出来るし、子供の無残な遺体を見せないようにするための配慮でもあった。
歩き始めて10分としない内に、白いミニバンが姿を現す。手信号で停車を促すと、作業着に身を包んだ中年の男性が降りて来た。
「町役場から参りました、助役の
「渋川署地域課の大山巡査部長です。そちらにも連絡が行きましたか」
「はい。既に対策本部の設置を行い、情報の収集を始めています。町長の牧田は市の懇親会で昨日から不在のため、もう1人の助役が本部を取り仕切っております。つきましては、警察消防の方々と連携する必要もありますので、庁舎の方へ代表の方かもしくはそちらの人員を寄越して頂きたいのですが」
「分かりました。一旦報告します」
この申し出は直ぐに上申され、渋川署から警備課と地域課の課長によって編成された本部班が、猪又次長指揮の下でパトカー数台と警備車両を伴って出発。本部・警察署間の連絡を繋ぐために通信指令課の人員も急行した。
岸菜町役場 3階会議室
役場の3階に設置された対策本部には、既に渋川広域消防本部からも人員が到着しており、役場との連携体制を強化していた。同じく役場からの要請で駆け付けた猟友会のハンターたちも集まっている。
「言わんこっちゃねぇ。早く連中を駆除していりゃこんな事には」
「いつか人間を襲うと何べんも言って来たのにな。あの数を減らすのはおおごとだぞ」
ハンターたちが愚痴を言いながら仕事道具の猟銃を点検している。その場に踏み込んだ渋川署次長の
作業着を着た1人の男が、あちこちに指示を飛ばしている光景が目に飛び込む。どうやら彼がもう1人の助役らしい。
「失礼、渋川署より参りました猪又警視と申します。助役の
「ああ。私が樋口です。帰り掛けだった所と存じますが、急な要請をきいて頂いてありがとうございます」
猪又率いる本部班も、渋川消防が陣取る隣で指揮連絡網の立ち上げを始めた。部下たちがバタバタと動き回る中、1人の男性が猪又の所へ近付いて来た。ノーネクタイで首からは何かの職員証をブラ下げている。
「保健所の
「私です。猪又と言います」
「消防の方々にもご説明しましたが、当該地区を占拠している野犬が狂犬病を発症している可能性があります。十分な装備を揃えて対処して下さい」
「現場から情報は入っていますので一応は大丈夫です。それで肝心なワクチンの数は」
「後ほど改めてご説明します。まず皆さんの固定概念を覆す事から始めねばなりません」
それだけ言うと、栗田は立ち去っていった。固定概念とは何の事か疑問を抱かずにはいられなかったが、今は早急的な指揮通信の構築が最優先だ。取りあえず気にしないでおく事にする。
「次長、県機から2個小隊が出動。完全装備で上岸地区の封鎖を実施出来ます」
「警ら中の沼田署管内PCから入電。騒ぎを聞き付けたため、何か手伝える事はあるかと言っています」
「沼田市方面からの上岸地区に通ずる道を封鎖してくれと要請を出せ。これで少しは被害の拡大を防げるだろう」
「了解、伝えます」
その後も続々と関係機関の人間たちが役場に押し寄せて来た。市の危機管理室からも人員が到着し、県庁危機管理課とのテレビ会議を行うための設備も持ち込まれ始めた。
「危機管理係長の
「警防部長、
「渋川署次長の猪又と申します」
「もしヘリ等を飛ばす予定がありましたら、こちらのモニター群でもその映像をリアルタイムで流せる用意がありますのでお申し付け下さい。それでは」
着々と対策本部としての陣容が整っていく。約1時間後に到着した県警機動隊長の
不在の牧田町長に代わり、助役の樋口が町長代理を務める。もう1人の助役である高井が進行役となり、全員に先んじて喋り始めた。
「えー、このような時間にお集りを頂き誠にありがとうございます。現在、当町内の上岸地区におきまして、緊急を要する事態が発生しております。順を追ってご説明を致します」
役場への第一報は主に上岸地区の住民たちからで、ここに勤める父兄への電話が引き金となった。その後、パトカーのサイレンを聞き付けた職員たちによって警察が動き出している事も発覚。市役所に連絡の後に県庁まで話が駆け上がり、遅い時間帯にも関わらず迅速な対策本部の設置が実現した。
「町民課の方で現在無事な住民と負傷者、及び連絡が取れない者の計上が終わっております。同課長を勤める村岡より報告になります」
作業着の上に【災害対策本部 町民課長】と書かれたゼッケンを着る中年男性が立ち上がった。見た目には分からないが、内心は絶望の淵に立たされている真っ最中だ。目の前の忙しさと気丈な義父の存在だけが自分を突き動かしている。
「町民課長、村岡です。私どもの方で上岸地区の全世帯に安否確認を行った結果、以下のような集計となりました」
樋口たちが座る後ろに備え付けられた壁掛けモニターに、パワーポイントで作成された画像が映し出された。大急ぎでこさえた物らしく、情報の見やすさだけが優先された簡素な物である。
「上岸地区の人口は全員で81名、世帯数は16です。この場に居る私どもを含めまして、無事な者は47名。重軽傷者は12名。医師の判断を挟んではおりませんが死者は―――」
死者、と口走った瞬間、村岡はまた目眩を覚えた。同時に、今朝の光景が脳内で反芻される。学校に行く2人を見送り、妻が作った弁当を受け取って家を出た、何の変哲もない何時もの光景だ。それをもう見る事が出来ないと改めて悟った瞬間、村岡の意識は遠のいた。
「村岡さん!」
隣に座っていた総務課長が、崩れ落ちていく村岡を抱き止めた。役場側の席が騒然となる。
「村岡さん! 村岡さん!!」
「医務室に運べ! 担架持って来い!」
猪又たちの隣に陣取っていた渋川消防の席から2人の救急隊員が飛び出した。村岡に集まる職員たちを押しのけて進んでいく。
「退いて下さい! 離れて!」
「通ります! 集まらないで下さい!」
救急隊員は村岡に取り付き、生体反応の確認が始まった。小脇に抱える救急バッグを広げてその場で応急処置を開始する、
「呼吸と脈あります」
「血圧が低いな、失神だろう。どなたか服薬しているお薬があるかご存知じゃありませんか」
幸い、村岡が飲んでいる薬はなかった。そのまま担ぎ上げられ、医務室へと運ばれていく光景を全員が眺める。
「息子さんと奥さん、野犬にやられちまったらしいな」
「くそ、何でこんな事に」
市や保健所の人間たちが、役場側の会話でザワつき始めた。その空気を高井が収める。
「失礼を致しました。私どもの方には、彼のように家族を失った者が居る事をご理解下さい。では課長補佐の
高井の指名を受けた中里が村岡に代わって話し始める。
「課長補佐の中里です。話を続けさせて頂きます。死者は推定で10名、所在の分からない者が2名、町の外で無事が確認された者が10名となっております」
「地区長の笠木さんは無事なのか」
樋口が問い掛けた。その言葉で中里の表情は暗くなる。
「笠木さんは、家の前で遊んでいたお孫さんを護ろうとして―――」
押し黙ってしまった中里に樋口は着席を促した。重たい空気がこの空間を支配していくが、話を進めなければならない。
「野犬の数は何匹ぐらい確認されているか」
「こちらから報告します」
別の男性が立ち上がる。【災害対策本部 生活環境課】と書かれたゼッケンを着ていた。
「生活環境課副課長、
新藤が左手に掲げる青いファイルには【岸菜町上岸地区 徘徊野生動物リスト】と書かれていた。山を削り取った谷が、いつしか「犬捨て峠」だの「猫捨て谷」と呼ばれるようになり、ペットの遺棄が多くなった頃から脈々と記録され続けたファイルである。
「宜しいですか」
ここで猪又が挙手した。樋口の承諾によって話し始める。
「渋川署より参りました猪又と申します。今しがた22匹と言われましたが、こちらの部下が1匹を捕獲しております。ですので恐らく数は23匹と思われます。それで重要なのはここからですが、この近辺に棲み付いている野犬はあとどれぐらい居るのでしょうか」
「確認されていないのはその1匹を引いて12匹です。野良猫に関しては現在の所、まだ目撃情報がありません」
「野良猫については保健所との連携でかなりの数が去勢手術を済ませています。上岸地区にも10匹からなる地域猫が居りますが、こちらに関しては計7匹が複数の民家に居合わせたため無事を確認済みです。残りについてはまだ分かっておりません。それとこの施設内にも2匹の猫が居ます。これらは全て各種ワクチンも摂取済みです」
高井が補足の説明を行った。彼が言うように、窓辺で1匹の猫が全員の様子を気だるげな目で見つめていた。
「えー、この合計で35匹もの野犬についてですが、今までどのような対処をされていたのですか」
猪又が発したその言葉で、役場側の空気が悪くなった。猟友会の面々は呆れ返った表情である。代理の樋口がばつの悪そうな顔で喋り出した。
「……申し上げ難い事ですが、町長の牧田は動物好きでして、実害が無いのなら無闇に殺さずともと良いとの方針を下しています」
「だからこうなったんだ。バカな事ばっか言ってねぇで捕獲ぐらいしてりゃちったぁ」
周囲に聴こえる声量で急に愚痴を漏らし始めた猟友会の代表に、高井が大急ぎで近寄った。宥めようとしているが、中々上手くいってないようだ。だが樋口はそれを無視して会議を進める。
「では、保健所の栗田さんから狂犬病についてお話を」
「はい」
指名を受けた栗田は、連れて来た保健所の職員と共に全員へ資料を配り始めた。
「お手持ちの資料をまず1枚捲って下さい」
そこには『狂犬病に関する基礎知識』と題する文章が羅列されていた。これに関して説明が行われる。
「まず狂犬病とは基本的に、ウイルス性の感染症です。インフルエンザやノロウイルスなどと同系統の物で、感染経路は発症している個体に咬まれたり引っ掛かれたりした場合が最も多い病気になります。ヒトを含む全ての哺乳類に感染し、発症すればその死亡率は例外を除いて100%です。治療法は皆無ですが、感染の疑いがある最初期にワクチンやガンマグロブリンと呼ばれる製剤を投与した場合、その発症を阻止出来る可能性があります。ここまでは宜しいでしょうか」
取りあえず、誰も問題は無いようだ。栗田の説明が続けられる。
「では次のページに進みます。ここからは主な症状になりますが、まず傷口の痒みや痛み。頭痛に嘔吐、恐水症、精神錯乱、全身麻痺、呼吸障害と言った各種の症状が現れます。また狂犬病には大まかに
猪又が挙手した。現場からの情報でどうにも引っ掛かっている事があるのだ。
「その狂躁型については十分に理解しました。それで疑問なのですが、上岸地区を占拠している野犬たちは恐らく群れで行動していたと推測されます。発症後もそのように集団を維持し続ける事はあるのでしょうか」
「これに関しては私どもも疑問を抱いております。こうなってまでも群れで行動し続けるのは何かそれなりの理由があるのでしょうが、今はそれよりも感染をこれ以上広めない事、上岸地区に取り残された住民たち一刻も早く救い出す事が最優先です。それにあれだけの数が密集しては、エアロゾル感染を引き起こす可能性も高い。早くしないと、住民たちに感染するリスクも発生します」
栗田のその発言に、産業課の課長が食いついた。
「ちょっと待って下さい。先ほど咬まれたり引っ掛かれたりと言った筈ですが、それ以外にも感染ルートがあるんですか」
「あります。国外では狂犬病を発症したコウモリが居るトンネルの中で、別に咬まれても触れてもいないのに感染したケースが報告されています。これは発症した個体から飛散する微細な唾液の粒子に含まれたウイルスが砂塵と共に空気中を漂い、それを吸引したために起きたものです。これをエアロゾル感染と呼んでいます。医療業界ではあまり認めたくない言葉のようですが、空気感染の一種と思って頂いて問題ありません」
役場側に居る職員たちの顔から血の気が引いた。放っておくと、無事な家族も感染してしまう可能性がある事に恐怖しているようだ。彼らの視線は必然的に、猟友会と警察に集中した。しかし、猟友会の代表はそっぽを向いている。
「……猪又さん、現実的に考えて、何かやりようはあるでしょうか」
「特殊部隊とかは出せないもんですかねぇ」
樋口はまだ良くても、産業課長の発言には苛立ちを覚えた。あれはそんな簡単に出せるものではない。そして何より、群馬県警にSATは編成されていなかった。銃器対策部隊なら出せなくもないが、これだって簡単ではない。
「次長、お任せを」
隣に座っていた佐川警視が立ち上がる。
「群馬県警機動隊隊長の佐川と申します。今仰られた件ですが、当方に編成されております銃器対策部隊は本来、凶悪事件や対テロを想定して作られたものです。申し訳ありませんがこのような事案については一切想定しておりません。また、隊員の装備する銃器ですが、当たれば殺傷力は十分にあるでしょう。しかし、犬のような高速で動く物体を撃つ訓練はしていません。まして、こちらに向け全力疾走して来る犬の被弾面責はかなり小さい。制圧弾幕を張ってもすり抜けられたら確実に負傷者が出ます。そして、その負傷者は発症すれば死へ至ります。結果、残される家族が出る事を留意の上、もう少し慎重に検討を願います」
佐川の発言で役場側の空気が沈み込んだ。これに関しては佐川が正しいだろう。無碍に死ねと命じる事なんて出来ないのだ。
「
産業課長の隣に座っていた【会計課長】のゼッケンを着ける男が、猟友会の代表に向かって話しかける。
「捕獲器の設置すら断り続けて来たのはお宅らだ。こちとら野犬がどれだけ危険か何度も説明してるのに、町長の決定だ何だで聞く耳も持ちやしねぇ。悔しかったら上岸に出張って犬どもを説得してみろ」
その発言が火種になり、役場側と猟友会側で軽い乱闘騒ぎになった。市の危機管理室と保健所が間に入って仲裁するが、それだけで30分近い時間を要した。
渋川消防の人間たちからは表情が消え、その光景を遠い出来事にように見つめている。猪又ももう、誰と何を話し合えば良いのか分からなくなっていた。
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