第13話 仲直りの妨げ
慧の興奮と熱がすっかりと収まった頃、堤が保健室に戻って来た。
「ごめんね~、遅くなっちゃって。なるべく近い薬局に行ってきたんだけど」
堤はそう言いながら買ってきた冷えピタを冷蔵庫に入れ込み、一枚だけ手に持って慧が寝ているベッドに歩み寄った。
「あら、起きてたのね。調子はどう? 良くなった?」
「はい、おかげさまで」
「顔色も随分良くなったわね。とりあえず、体温測ってみて」
そう言いながら差し出された体温計を受け取ると、慧は軽い手つきで体温計を脇に持って行った。そして数秒後に出た結果を先に自分が見ると、すぐ堤に返却した。
「うんうん、大分落ち着いたみたいね。冷えピタ、少し温いけど貼っておく?」
「いえ、大丈夫です」
冗談交じりに微笑みながら言う堤を見て、慧も思わず笑みを浮かべながらそう返す。
「その分なら処置は必要なさそうね。それで、今日は念のために帰る?」
冷えピタをブラブラと弄びながら堤がそう聞いた。そう言えばそんな話をしている途中で意識が朦朧とし始めたのか。と当時のことを思い出しながら返答を考えようとしたのだが、ふと家に帰りたくないという強い思いが過り、慧はそれ以上考える間もなく、「いや、残ります」と答えた。
「分かったわ。ぶり返すようだったら、また保健室に来るのよ?」
「はい、ありがとうございました」
慧の返事を聞いた堤は一足先にその場を立ち去り、慧も教室に戻るべく、ベッドから足を出し、脇に揃えられていた自分の上履きを履いて堤の後を追った。
「それじゃ、コレを書いてもらって」
ベッドに近い長ソファには伊武が座っていた。それを配慮して、堤はベッドから遠いサイドにあるソファ前に一枚の用紙を置き、トントン、と指で叩いて示した。
「あっ、はい、分かりました」
一瞬伊武に気を取られていた慧は少し詰まりがちな返事をすると、なるべく遠回りをして対面のソファに着き、鉛筆を握って目の前の用紙に向かった。
「……書き終わりました」
日付と保健室の入退室時間、それと自分の氏名を手早く書き終えた慧は鉛筆をテーブルに置き、報告をした。
「はーい、ちょっと見せて」
自分のデスクで作業をしていた堤は報告を受けて立ち上がると、早足でソファに歩み寄り、慧の真横に座った。
「えっ、ちょ……」
流れるような動きで至って自然に自分の隣に座った堤に驚き、慧は身を退きながらそう呟いた。しかし堤は微動だにすることなく堂々とソファに腰かけ、卓上の入退室用紙を確認すると、胸ポケットからボールペンを取り出し、一番下の空欄に承認のサインを書いた。
「これでよしっと。はい、これ、今の教科担任の人に渡してもらえば授業に戻れるから」
堤はそう言いながら用紙を取り上げ、慧に差し出した。
「は、はい。ありがとうございました」
ほぼ密着状態にある堤の手から用紙を受け取ると、慧はすぐに立ち上がって出入り口に向かった。
「それじゃ、お世話になりました」
ドアの傍らに立ち、堤に向かって早口にそう言うと、慧は逃げ去るようにドアを開けて保健室を出た。
「ふぅ、全く。あんな近くに座るのは止めてもらいたいな……」
保健室から逃れた慧は小さくそうぼやいた。そして自分の教室に戻るべく歩き出そうとしたその時、完全に閉まったはずの保健室のドアが開いた。その音に気付いた慧が振り向くと、伊武がこちらを見て立っていた。
「あの、さ……」
伊武は何かを言いたげにしているが、言葉が続かない。それならばと思い、ここで改めて教室でのことを謝ってしまおうと思った慧が口を開いた。
「今日は色々と悪かったな。教室でのことも、ごめん」
「あ……。うん」
先に謝られて居心地が悪くなったのか、伊武は視線を逸らして小さく頷いた。そして数秒の間が空いた後、再び慧の方を見た。
「私も、ごめん。あれはその、驚いただけだから……」
「そりゃそうだよな。いきなり椅子が倒れてきたら誰でもびっくりするよな。はは」
相手に同調した上で愛想笑いも添えてみたが、伊武が笑みを見せることは無い。その様子から、あまり軽口を叩く場面では無かったかと反省していると、このタイミングで伊武は鼻で笑って見せた。
「……フッ。ちょっとからかっただけ。本当に気にしてないから。むしろ、私で良かったかもね」
「あ、あぁ。そうかもな。は、ははは」
こっちの気も知らないで、どんなタイミングでジョークかましてるんだよ。と心の中で悪態をつきつつ、表では苦笑を浮かべ、「それじゃ、俺は戻るから」と言って伊武に背を向けた。
「うん、じゃあね」
見送りの言葉を背中に受け、慧は自分の教室目指して歩き始めた。それから少しの間は多少なりとも伊武に苛立ちを覚えていたのだが、よくよく考えると、今日だけで彼女の笑顔を二回見たわけだし、自分に対してジョークを言ってくるくらい距離が縮んだのではと思い至り、実習棟から教室棟へと続く渡り廊下で、慧は一人微笑みを浮かべるのであった。
慧が教室に戻ったのは、丁度四時限目が半分ほど終わった頃であった。つい先日にも全く同じような憐憫の視線を浴びていた慧は、前回よりかは幾分も慣れた様子で担任の教師に用紙を渡し、自分の席に着いた。
(全く、入学早々こんなことに慣れたくなかったな。変な印象が根付かなきゃいいけど……)
なんてネガティブなことを考えていると、慧は自然とため息をついていた。
「あの……」
右隣からする琴のように細く柔らかい声音に振り向くと、恵凛が心配そうな眼差しでこちらを見ていた。
「お体の具合、いかがですか?」
まるで慧が死に至る病にでも罹ってしまったかのような調子で恵凛がそう言うので、慧は答えあぐねてしまった。
「あ、ごめんなさい。私、出過ぎた真似を」
「いやいや、違うんです。ただ、そこまで心配されると思ってなかった、ので」
「そうでしたか。だとしても、不躾な質問でしたね」
「いや、そんなことは。嬉しかった。です」
何が彼をそうさせたのか。慧は真っすぐに恵凛を見つめたままそう言った。始めは互いにその恥ずかしさに気付かなかったのだが、見つめている時間と発された言葉の咀嚼が進めば進むほど、二人は頬を赤らめ、ほとんど同じタイミングで顔を背けた。
「えっと、そうだ。今は日本史だよな……」
必死に話を逸らそうとした結果、慧は現在行われている日本史の教科書を出すことで何とか冷静さを取り戻した。フリをした。顔の赤らみは収まろうとも、耳の赤らみはしばらく収まることは無く、二人が全くの平常心を取り戻す頃には、既に授業は終了間際であった。
「はい、じゃあ今日はここまでにしておきましょう! 少し早めに終わるけど、チャイムが鳴るまでは教室から出ないようにね。じゃあ号令お願いします」
日本史担当の若い女性教師がそう言うと、日直の生徒が号令を掛け、四時限目が終了した。するとその直後、教室の前方から慧のもとへ、友宏が駆け寄って来た。
「おい、大丈夫だったか?」
「え、うん。ちょっと熱が出ただけだから」
いつもはおちゃらけている友宏が真剣な表情で迫って来たので、慧も思わず真剣な面持ちでそう答えた。
「そっか、なら良かった。辛かったら無理すんじゃねーぞ」
「わ、分かってるよ」
こんなにも自分を心配してくれる他人がいるのか。と、慧は胸が温かくなった反面、数時間前の自分が馬鹿らしく思えて来た。
(勝手に他人は俺のことなんか気にしてないと思ってたけど、それは全部俺の思いこみだったわけか……。アイツの方がよっぽど俺のこと分かってるな……)
ラヴィのことを思い浮かべながら自嘲的な笑みを浮かべると、それに合わせて友宏が笑った。
(俺に釣られて笑ってくれる奴もいるしな)
目の前にいる友宏と、そして保健室での伊武の笑顔を思い浮かべながらそんなことを考えていると、四時限目終了のチャイムが鳴った。
昼休みに入ると生徒たちは一斉に動き出した。その様子はまさに水を得た魚のようで、授業中はしおらしかった面々も、昼休みに入った途端に騒々しく動いたり喋ったりし始めた。恵凛はあっという間に女子たちに囲まれ、友宏も今日は他の男友だちのところに行っているようだったので、慧はラヴィと和解するため、恐らく人が来ないであろうテラスを目的地として、冷食ばかりの弁当を持って素早く教室を後にした。
廊下も廊下で生徒たちで賑わっていた。購買に行く者や、他クラスに移動する者、廊下の途中途中に設置されているベンチで談笑しながら食事をしている少人数グループ。慧はそれらを何気なく観察しながら渡り廊下を抜け、実習棟に行き着いた。予想通り人気は無い。慧は左のポケットにラヴィが入っていることを確認すると、早足でテラスに向かった。
テラスは全面ガラス張りなので、廊下を歩いている折にも既にテラスには誰も居ない事が分かった。心の中でしめしめと思いながら真っすぐ廊下を進んでガラスの扉を押し開けると、春の温かくも涼やかな風が全身に吹き付け、慧は得も言われぬ解放感を味わいながらテラスの一席に着いた。
(さて、まずはイヤホンをして)
ラヴィと会話をするためにポケットからイヤホンを取り出そうとした瞬間。
――バンッ! と、ガラスに何かがぶつかる音がしたので、慧は反射的に振り向いた。すると、
「ハァハァ……。ウマソウなニオイ……!」
ガラスの扉に顔を摺り寄せ、こちらをじっと睨んでいる輝虎がいた。
(はぁ、あの人はホラーまがいの登場しか出来ないのか……?)
慧は苦笑いを浮かべながら心の中でツッコミを入れると、取り出そうとしていたイヤホンを再びズボンのポケットに押し戻し、扉を開けるために席を立った。
「今日はなんですか?」
前日に逃げ帰ってしまったこともあり、本当は輝虎との接触は避けたかった慧だが、奇怪な視線を浴びながら食事をするのも気が引けたので、渋々扉を開けて輝虎を招き入れた。
「ふ、ふふふ。君ならここに来ると思っていたよ……」
ゾンビのような動きで慧の目の前まで歩み寄ると、そのままガシッと両肩を掴んだ。
「僕に、僕に食料を、恵んでくれぇ……!」
「わ、分かりましたから、一旦あっちに座りましょう!」
慧もろとも倒れてしまいそうな勢いで縋りついて来たので、ひとまず自分の身から引き剥がすために慧がそう提案すると、輝虎は素直に両手を離し、慧が陣取っていたテーブルの一席に腰かけた。
「また何も持ってきてないんですか?」
面倒くさそうにそう問いかけながら慧も椅子に着く。
「あぁ……。そうなんだ。それに加えて、今、金欠なのさ……」
木のテーブルに突っ伏している輝虎はピクリとも動かずに淡々と語った。
「冷食ですけど、少し分けましょうか?」
本当は嫌だったが、ラヴィと話し合いをするためにはどうしても輝虎の存在が邪魔だったので、慧は苦い顔をしながらそう聞いた。するとコンマ数秒前にはぐったりとしていた輝虎はバッと上体を起こし、かけていた丸眼鏡を勢いよく外してテーブルに置き、海のように青く透き通った瞳で慧を見つめた。
「本当に、良いのかい?」
ゆっくりと席を立ち、丸いテーブルに沿って移動をしながらそう言う輝虎は程無くして慧の目前に立った。
「は、はい。良いですよ。ただ、俺の分も残しておいてくださいね」
「勿論! 君は命の恩人だ!」
慧の両手を無理矢理掴み上げると、それを自分の両手で包み込み、まるで神に祈りを捧げるかのように片膝を立てた。
「いや、大袈裟ですよ。それじゃ、これ」
――輝虎から解放された両手で包みを解き、慧の弁当箱がさらけ出た直後、今の今まで目前に置いてあったはずの弁当箱が一瞬にして消え去った。
「え……」
慧が思わず声を漏らしながら視線を上げると、既に輝虎が弁当に貪りついていた。
(どんだけ腹減ってたんだよ……。この調子じゃ弁当も食えないし、ラヴィと話す時間もなさそうだな……)
諦め半分に頬杖をつき、弁当にかじりつく勢いで冷食を口に流し込んでいる輝虎を見ていると、慧の口角がじわじわと上がり始めた。
(冷食をこんなに美味しそうに食べられるなんて、ある意味才能だよな……)
心の中でそんなことを思うと、もう笑顔が浮かび上がるのは必然であった。
「ん。これは失敬。君も食べるか?」
自分が見られていることに気付いた輝虎は一口サイズのハンバーグを箸で掴み、テーブルに身を乗り出してそれを慧に差し出した。
(こ、これって……!)
目の前に迫るハンバーグを見て、慧は咄嗟に頬杖を解いて身を固めた。
「ほれ、アーン……」
(やっぱり、アーン。だ……! イヤってわけじゃ無いけど、俺はこれを受け入れて良いのか。て言うかこれ、間接キスにもなる。よな……?)
考えれば考えるほど、今この場で、このアーンを受け入れるのは得策では無いと思い至った慧はとりあえず立ち上がった。
「あっ。ちょっとトイレに行ってきますね! あと、今日はもう腹減ってないんで、全部食べちゃってください!」
あたかもハンバーグが差し出されるよりも前に立ちあがっていた体で苦し紛れの言い訳を述べると、慧はそそくさとテラスを後にした。残された輝虎は不思議そうに首を傾げると、ハンバーグを掴んでいる箸を引き、そのまま自分の口に放り込んだ。
(な、何とか乗り切った……。ひとまず、一分くらいトイレで時間を潰すがてら、ラヴィともコンタクトを……)
これからの策を練りながら廊下を歩き、ポケットに左手を差し込んだ瞬間、慧は立ち止まった。
(マズい。イヤホンを落としてきた! でも、今すぐ戻る訳にもいかないし、とりあえずトイレまで行ってすぐに引き返して来よう)
組み立てていた作戦は一つのアクシデントで破綻したので、慧はアドリブ案に則り、早足でトイレまで行き、何もしないでトイレから飛び出すと、ほとんど駆け足でテラスに戻った。すると丁度、テーブルの下に落ちていたイヤホンを輝虎が拾い上げ、訝し気に眺めているところであった。
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