第12話 発熱で夢現

 今世紀最大と言っても過言ではないほどの重圧が保健室に満ちていた。そんな張り詰めた空間では、普段何気なく行っている問診票を書くという動作でさえ、トランプタワーを完成させる時の一挙手一投足に等しい緊張感を慧に与えていた。紙面を滑る鉛筆の音、小鳥の囀り、二人の呼吸、自分の鼓動。あらゆる雑音が沈黙を助長し、それによって募る気まずさで空気は更に重くなっていく。


(頼む、堤先生。早く戻って来てくれ……!)


 慧は心の中でそう思いながら、亀も驚くほどの遅鈍さで問診票の欄を埋めていく。


(なんて息苦しい空間なんだ……。もう耐えられない。さっさと問診票を書いてベッドに逃げよう。うん、そうだ。それがいい)


 そうと決めた慧は、サラサラと流れるように問診票の欄を埋め尽くした。そして最後に残った体温を記入するために体温計を探したが、どこにも見当たらない。仕方ないからそれっぽい体温を書いておくか。と再び鉛筆を手に取った瞬間、ピピピピッ。と、体温計の音が聞こえた。まさかと思って視線だけを上げると、思った通り、伊武が体温計を取り出そうと、第二ボタンまで外れているワイシャツの胸元に手を差し入れようとしていたので、慧は慌てて視線を逸らした。それから数秒後、テーブルに体温計を置いた伊武は静かに立ち上がり、そのままカーテンの奥に消えて行った。


(助かった。江波戸も同じことを考えていたのか……)


 同じ部屋にいるという事実は変わらないが、伊武がカーテンの向こう側に消え、視界から外れたというだけでも慧の心は幾分も楽になった。その証拠に、伊武がベッドに寝転がったであろう音をその耳に聞き届けると、慧の全身はスライムのようにとろけてしまい、ソファと一体化してしまうのではないかというほど沈み込んだのであった。そうして完全に安心しきった慧は鉛筆をテーブルに置き、その代わりに対面側に置かれている体温計を手に取り、電源ボタンを押した。そしてそのまま何気なく体温を計ろうとしたのだが、ベッドが軋む音でふと先ほどの体温計を取り出そうとする伊武の姿が目に浮かび、慧は一気に赤面した。とその時、ドアが勢いよく開いた。


「うわっ!」


 その音に驚いた慧は、思わず両手に持っていた体温計を軽く放り投げてしまい、それが落ちるよりも先に慌ててキャッチした。


「ごめんなさい、だいぶ遅くなっちゃって……。あら、どうかしたの?」


 上体を曲げ、地面とほぼ平行の状態で体温計をキャッチしていた慧の姿を見て、堤がそう言った。


「あ、いえ、体温計を落としそうになったもので……」


 全身が更に火照って行く感覚を享受しながら、慧は再びソファに腰かけた。


「もう体温は測った~?」

「いえ、まだです」


 それなりの受け答えをしながらも、頭の中では今手に握っている体温計が先ほどまで伊武の肌に触れていたことを無意識に考えてしまい、話が全く入って来ない。


「良かったぁ。そうしたら、今日新しいのが届いたから、こっちを使ってみてくれる?」


 書類を自分のデスクに置いた堤は、慧の対面にある長ソファに腰かけ、新しい体温計を差し出した。


「はい! 使います!」


 ホッとしたような、しかしどこか残念がっているような自分を嫌悪しながら、慧は快く体温計を受け取ると、それで体温を測り始めた。……そうして十数秒の後、体温計が鳴った。取り出して見ると、三十八度近い数字が記録されていた。


「どうだった~?」


 仕事をこなしながら堤がそう問う。


「えっと……。三十八度近く出てます……」

「えぇ~! ちょっと見せて!」


 普段は悠々とした口調の堤も今回ばかりは声音に焦りを見せ、慧のもとに歩み寄って来た。そして慧の手から体温計を受け取ると、その数字を視認して感嘆の息を漏らした。


「あらぁ~、ほんとね。どうしましょう。帰れるようだったら帰る? それとも、少し休んで様子見る?」

「え、うーん……」


 帰ったところで誰も居ない。かと言って教室に戻るのも、ここに居残るのも気まずい。なんてことを考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。


『――もう無理。話し合いも終わり』


 突然脳内にこだました女性の声に、慧は胸が苦しくなった。


「風見君、大丈夫?」

『あっ、慧』

「風見君?」

『ごめんね、こんなところを見せちゃって』


 堤の声と、あの時のあの人の声とが脳内で混ざり合う。


「待って、俺は……」

「ひとまず休みましょう。この状態じゃ帰るのも危ないわ」


 苦しそうにしている慧を見た堤は早急に判断を下すと、そっと慧を立ち上がらせ、空いているベッドへと誘導した。


「さ、無理しないでゆっくり休んで。先生は冷えピタとタオル取って来るから」


 堤はそう言うと足早にベッドを離れて行った。始めはカーテンが開いたり閉じたりする音や堤の足音に気を取られていたが、次第に身体が怠くなっていき、間もなく瞼も自然に下り、あっという間に無意識の世界へ没していく。


『――あの人をよろしくね』

(待って、俺は……)

『これ、渡しておくから』

(俺はただ……)

『元気でね、慧』

(謝りたいのに、みんなで一緒にいたいだけなのに……!)


 ぼんやりとした背中が遠ざかって行く。それを止めるために叫ぼうとするが、声は全く音にならない。両手だけが虚しく力み、手渡された紙片は右手の中でぐしゃぐしゃになる――


「よく眠ってるみたい」


 薄っすらと声が聞こえてくる。それと同時に、自分の額にひんやりとした感触を覚えた慧は、これはきっと現実だろうと曖昧に考えた。


「彼、どうしたんですか」

「ん? 話してないの?」

「私はすぐ寝ちゃったので」

「ふ~ん。彼が寝てすぐに起きて来たのに?」

「……もういいです」

「もう、冗談なのに~」


 意識が段々鮮明になるにつれ、カーテンの向こう側にいる伊武と堤の会話も鮮明に聞き取れるようになってきた。


「で、彼は」

「発熱よ。それも恐らく心因性のね。だからもう少し身体を休めていれば熱も下がって来ると思うわ」

「そう」

「ふふ、それにしても珍しいわね。江波戸さんが同じ話を深堀するなんて」

「別に。ちょっと気になることがあるだけ」

「ふ~ん、そう。判明すると良いわねぇ、その気持ちの正体」


 若かりし頃の自分を見るような柔和な笑みを浮かべながらそう言うと、堤はローテーブルに置いていたタオルを持って慧が眠っているベッドに向かった。伊武はその背中をチラリと見て少しだけ腰を浮かせたが、結局その場を離れず、ソファに座り直してスマートフォンを弄り始めた。


「あら、もう目が覚めたの?」


 カーテンを閉めた音がした後、すぐ右側から堤の声がした。薄く目を開けていた慧はそれに反応し、目を出来る限り開きながら首を少しだけ回した。


「あぁ~、無理しなくて良いからね。そのままそのまま」


 無理に動こうとする慧を見て、堤は優しい声で行動を制した。そして右手に持っているタオルで慧の顔周辺と首元に滲んでいる汗を拭き取ると、傍らの丸椅子に腰かけた。


「体温、測れそうかな?」

「……はい」


 短時間とは言え、眠ったことで大分体調も上向いてきたようで、慧の右腕は思っていたよりも幾分か軽い動きで体温計を受け取り、それを左脇に挟んで体温を測った。……数秒後に出た結果は、三十七度であった。


「だいぶ良くなってきたみたいねぇ~。もう少しだけ様子を見ましょうか」


 体温計を受け取りながらそう言うと、堤は立ち上がってカーテンを開いた。するとそこで何かを思い出したようで、振り向いて話を続けた。


「あっ、そうだ。冷えピタが切れちゃったから、少し買い出しに行って来るわね。もし効果が感じられなくなったら、それ、取っちゃって良いからね」


 今現在慧の額に貼られている冷えピタを指さしてそう言うと、堤は手をひらひらとさせた後にカーテンを閉め、伊武の元に向かった。


「江波戸さん……。ちょっと冷えピタを買って来るから。風見君に何かあったらよろしくね」


 慧に聞こえないよう小さい声でそう言うと、堤は自分のデスクの横に設置されている室内物干しから新しいタオルを取り、小走りで戻ってくると困惑している伊武に無理矢理手渡した。


「え、ちょっと――」


 こんな未来を一ミリも予想していなかった伊武は当然戸惑った。しかし堤は物申す余地さえも与えず、鞄を持って保健室を出て行ってしまった。


「……はぁ。最悪」


 膝に乗っている真っ白いタオルを手に取ると、いかにも面倒くさそうにソファにもたれかかり、天井を仰いで小さく嘆いた。その頃慧はと言うと、一枚の布の向こう側でそんな出来事があったとは露知らず、再び眠りに就こうと目を閉じていた。しかし体調が優れていないこととうなされていたこともあり、喉の渇きが気になって仕方が無かった。そうしてとうとう耐えきれなくなった慧は、眠ることを諦めて目を開き、辺りに何か水分を補給できそうな物が無いか探した。するとベッドの右側に小さなテーブルが設置されており、その上にコップが置かれていることを認めた。もしかしたら、堤先生が気を遣って置いて行ってくれたのかもしれない。と考えた慧は身体を少しだけ起こし、右手を目一杯伸ばしてそのコップを取ろうとした。

 ――五本の指は確かにコップを捉えた。それを口元に寄せようと持ち上げようとした時、予想外のことが二つ起きた。一つは思っていたよりもコップに水が入っていたこと、そしてもう一つは、自分の指に全然力が入っていなかったことである。そうして抗う間もなくコップは床に落ち、フローリングに水が広がった。


「どうしたの……!」


 コップが落ちて間もなく、カーテンが勢いよく開いた。慧が申し訳なさそうに顔を上げると、そこには険しい顔をした伊武が立っていた。


「ご、ごめん。喉が渇いてて、その、飲もうとしたら――」

「分かったから、寝てて」


 低い調子で慧の言葉を遮ると、伊武はすぐにその場を離れた。そして雑巾を持って戻ってくると、床に小さく出来た水溜まりを拭い、幸いにもプラスチック製で無傷だったコップを拾い上げ、またも慧の視界から消えた。


(またやっちまった……。ただでさえ教室での一件もあったのに……)


 心の中で落胆の声を漏らしながら、慧はベッドに沈んだ。そしてそのまま眠ってしまおうと思ったその時、三度伊武が姿を現し、丸椅子に腰かけた。


「……これ」


 少しの間黙っていた伊武は、両手で包むようにして持っていたコップを慧に差し出した。


「えっ。あ、ありがとう」


 慧は慌てて上体を起こすと、枕を背もたれ代わりにしてそこに背を預け、伊武から水の入ったコップを受け取った。


「一応洗ったんだけど、嫌だったら飲まないで」


 俯きながら自分の両手を揉んでいる伊武は、何故か気恥ずかしそうにそう言った。そんな姿を見た慧は、全く気にしていないと言わんばかりに、水を一気に飲み干して見せた。


「ぷはーっ。生き返った」

「フッ。大袈裟」

「はは、流石にか」


 わざとらしく反応をして見せたら、意外にも伊武が好感触を示したので、慧も嬉しくなっていつの間にか笑みを浮かべていた。


「あっ……」


 伊武が何かに気付いたようで、小さく声にならない声を漏らした。すると静かに席を立ち、そーっと慧の顔に近付いて来た。


「え、えっ、ちょっと……」


 逃げ場を求めてもがくのだが、既に壁際にいる慧はこれ以上退くことが出来ない。しかしその間にも伊武はじわじわと近づいて来て、左眼を隠すように伸びた前髪をかき上げ、気だるげな双眸を露見させた。かと思うと、少しだけ目を見開いて慧の顔を覗き込み、更に接近してくる。そしてあっという間にもう数センチのところまで伊武の顔が迫ると、彼女の呼吸音ばかりが耳に入って来た(この時慧が息を止めていたので、それは尚更のことであった)。そしてこれ以上は耐えられないと慧が目を瞑った次の瞬間、フワフワとした毛の感触が口元を一往復した。


「やっぱり。水、垂れてた」


 いつも通りの気だるげな表情で慧の口元を拭うと、伊武は何事も無かったかのようにスッと身を退き、前髪を戻した。


「あ、あ、ありがとう」


 もう細かいことは何も考えられないくらいに脳みそがパンクしていた慧は、感謝の言葉だけを述べ、ぐったりと枕にもたれかかった。


「それ、貸して。あと、タオルはここに置いておくから」


 慧が持っているコップを回収してベッド脇のテーブルにタオルを置くと、伊武は手際良くその場を去ろうとした。そこでふと、慧は伊武を呼び止めた。


「江波戸、本当にありがとう。あと、その、さっきはごめん」


 カーテンの向こうからは返事が無い。タイミングを間違えたか。と、諦めてベッドに潜り込んだ直後。


「……別に、気にしてない」


 という答えが聞こえ、足音が遠ざかって行った。


(良かった。でも、今日のことはまた改めて礼をしないとな)


 安堵からのニヤニヤを抑えきれず、慧は寝返りを打った。しかしどうにも眠れそうに無かったので、慧はそのまま起きて堤の帰りを待つことにしたのであった。

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