第11話 一片ともう一遍

 一時限目の疲労感と緊張感が抜けないまま、二時限目が始まった。慧の机は引き続き恵凛の机に寄せられていたが、尚もその隙間は埋まっていなかった。そんなぎこちない二人の間には、現代文の教科書が橋のように架かっていた。


「えー、じゃあ今日から、本格的に授業を始めていきますねー」


 現代文担当の中年女性教師の掛け声で授業が始まった。一時限目に与えられた衝撃と鼓動はようやく収まりつつあったのだが、やはり数センチ隣に恵凛がいることを思うと、慧はその都度息が詰まるような思いをした。


「教科書を開いている子には申し訳ないんだけれど、まずはこのプリントの短編小説からやっていこうと思います」


 緩やかな口調でそう言うと、教師はそれぞれの列にプリントを配布し始めた。


「これはですね。先生が好きな小説家さんでして、私の自己紹介と授業の進め方を覚えてもらうことも兼ねて、まずはこの短編小説を扱おうかなと思いました。皆さんが少しでも現代文を好きになってくれるように頑張って行きますので、一年間よろしくお願いしますね~」


 沈黙が生まれないための無難な雑談に耳を傾けていると、丁度その話が終わる頃に慧の手元にプリントが届いた。


空門黄李そらかどこうり……」


 慧が著者の名前を呟くよりも前に、恵凛がそう呟いた。まさかピンポイントで同じ言葉が他人から出て来ると思っていなかった慧は、驚きの余り恵凛の方を見つめた。


「あ、ごめんなさい」


 慧の視線に気付いた恵凛は手に持っていたプリントを机に置き、キュッと口を結んで姿勢を正した。別にうるさいと思って見ていたわけでも、睨んでいたわけでも無いのだが、相手にこうもしおらしい対応をされてしまうと、慧は自分が悪者になったような気がした。そうしてどことなく気まずい雰囲気を感じた慧が、自分もプリントの小説を読もうかと視線を戻そうとしたその時、小説を黙読している恵凛の表情が明らかに曇った。これまでの数時間、どちらかと言うと明るい表情で授業を受け、休み時間を過ごしていた恵凛が初めて暗い表情を見せたので、もしかして、今の凝視がマズかったのかもしれない。と思った慧は小さく話しかけた。


「こっちこそ、ごめん。ただ、思ってたことを先に言われてびっくりしただけだから、気にしないで。ください」


 少し早口でそう伝えると、慧は早々に視線を逸らし、悠然と手元のプリントを見つめた。しかしその実は、緊張と羞恥でバクバクと心臓が高鳴っていた。すると、その鼓動に追い打ちをかけるかのように、


「この作家さん、お読みになったことが?」


 と、恵凛から返答があった。


「え、うん。多少は」


 想定外の返事が来た慧はプリントを読んでいるフリをしながら、やけに背筋を伸ばして事務的な言葉を返した。


「ちなみに、作品名を伺ってもよろしいですか?」


 先ほどまで態度も声も何もかも委縮していた恵凛がここまで積極的に話しかけて来たので、慧は多少なりとも気圧されてすんなりと言葉が出て来なかった。


「……あ、えっと。デビュー作と、短編を何個か、です」

「その、好き。ですか?」


 好き。という言葉に反応して、一瞬思考停止に陥りそうになったが、今現在好きかどうか聞かれているのは、空門黄李のことだろう。と冷静に判断した慧は、小さく頷いて見せながら恵凛の方を見た。


「うーん、まぁ、好きでも嫌いでもない、かな」

「そうですか」


 相手を傷つけないよう無難に答えたつもりでいた慧だが、恵凛の声音と態度を見る限り、どうやら今回はレアケースのようで、明確な答えが欲しそうに見えた。


(もしかして、この作家のファンなのか? そうだとしたら、デビュー作は面白かったし、まだぼんやりとなら覚えてるから少しだけ仕掛けてみるか)


 向こうから話しかけて来たという情報も踏まえ、そう決心した慧はクールぶって斜に構え、「でも、デビュー作は好きだよ」と付け加えた。するとプリントに向かって応答を繰り返していた恵凛がパッと慧の方を見て、


「本当ですか? ふふ、そうなんですね」


 と、笑みを零しながらそう言った。


(良かった。ひとまず地雷は回避できたみたいだな。……てか、今笑ってたよな?)


 心の中でホッと一息ついた慧だが、それと同時に恵凛の微笑みも鮮明に思い出され、急に胸が締め付けられるような思いをした。とは言え、恵凛の突飛なドキドキ行動にも慣れてきたようで、現代文の教師が小説の朗読を始めるころには大分落ち着きを取り戻し、数十分も経てば昨日までの授業と何ら変わりない日常が帰って来た。

 ……それから大きなトラブルもアクシデントも(主に恵凛関連でのことも)無く、授業終了のチャイムが鳴った。正直授業の半分くらい聞いていなかったけど、本格的な単元じゃ無いから良いか。何て事を考えながら、慧は机上に広がる教科書類を机にしまい、いつも通りトイレで時間を潰そうと席を立とうとしたのだが、その時になってふと、今朝ラヴィに言われたことが脳内に蘇って来た。


【冗談はここまでにして、私はあくまでも恋愛サポートナビですので、私のことよりも交友関係を優先してください】


 覚えていたくない言葉に限って鮮明に思い出される。慧は言語化し難い感情にやきもきし、上げかけていた腰を椅子に下ろしてため息をついた。そしてゆっくりと目を閉じ、次の授業が始まるまで無心で過ごそうとしたのだが、今度は瞼の裏にじわじわと文字が浮かび上がって来た。


【ご主人は結構な、いや、相当な面倒臭がり屋です。そこは否定できません。しかし、それと同じくらい、ご主人は思いやりに溢れた人だとワタクシは思っていますよ】


 という、会議室に入る前にラヴィが綴った文章が、一瞬にして視界を埋め尽くしたのであった。


(なんでこんな、考えても仕方ない事ばっかり……。アイツはもう送り返すんだ。俺には、俺には必要ないんだ)


 そう自分に言い聞かせると、慧は勢いよく立ち上がった。するとその弾みで椅子が後方に倒れ、大きな衝撃音が教室に響くとともに微かな声が聞こえた。何が起きたのか分からずに刹那の静寂が過ぎ去り、クラスメートのざわめきが広まったところでようやく振り向いた慧は、倒れている椅子と座り込んでいる伊武を目にした。


「あ……、ごめん。ちょっと考え事を――」

「やめて!」


 座って俯いている伊武を見て、すぐに歩み寄って手を差し出そうとした慧であったが、その行動は伊武にしては珍しい大きな一喝で拒否された。そうして続けざまに予想外のことが起きた慧は更にテンパり、右手は中途半端に中空で硬直してしまった。


「……そういうの、いいから」


 伊武自身も声を荒げてしまった自覚があったようで、普段よりも低く小さな声でそう言うと、床に落ちている鞄を拾い上げて教室から出て行ってしまった。その一連の流れは一分近くクラスに衝撃を与え、丁度予鈴が鳴ったことを皮切りにクラスメートたちは活動を再開し、各々授業の準備に取り掛かった。そんな中慧は自分が倒した椅子を起こし、何気なくそこに座って壁掛け時計を見つめた。


(あぁー、最悪だ。もう帰りたいな。って言っても、まだ後五時間くらいあるのか……)


 羞恥心やら罪悪感で押しつぶされそうになった慧が、一定のリズムで回り続ける秒針を眺めてそんなことを思っていると、


「あ、あの、大丈夫ですか?」


 と、透き通るような声と共に右肩を優しくタッチされた。それは本当にタッチされたという表現が正しく、声が無ければ気付けなかったのではないかというほどに、柔らかく、こそばゆく、初々しいタッチであった。慧はそんな接触があったとは露知らず、半ば無意識に声がした方を向くと、恵凛が困り眉でこちらを見つめていた。


「その、顔色が優れないようですが」

「えっ、いや、そんなことは……」


 途中まで答えた慧だが、ふとそこで保健室に逃げられるのでは。という悪知恵が働き、声音を低くして返答を続けた。


「確かに、ちょっと身体が気だるいかも……」


 初めて悪事を働く子どものように、慧は恵凛の様子を伺いながらゆっくりと、そして極めて低い調子でそう答えた。


「私に何か出来ることはありますか?」

「いや、大丈夫です。担当の先生には俺から言うんで」


 裏付けを取ったような、仲間を得たような安心感を覚えながらそう言うと、慧は机から化学の教科書を取り出し、それを恵凛の机に置いた。


「これ、勝手に使って大丈夫なので、それじゃ」


 病身を装っている慧は不愛想にそう言うと、よろけながら教室を後にした。すると丁度そのタイミングで化学の担当教師と鉢合わせたので、保健室に行くという旨を伝え、慧は保健室に向かった。

 その後、四階の廊下から渡り廊下を抜けて実習棟に来た慧は、一階まで下って恐らく職員室か校長室の真下辺りに位置する保健室のドアをノックした。


「失礼します……」


 ドアを開けながら定型句を口にする。体調が悪いという体で保健室を訪れた慧は、それらしく気だるげな足取りで俯きながら入室すると、出入り口から一番近い一人掛けのソファが視界に入ったくらいでようやく顔を上げた。そして目の前の長ソファに座っている人物を見て、思わず声を漏らした。


「あっ……」


 そこに座っていたのは伊武であった。彼女は慧の姿を一瞬だけ見上げると、ローテーブルに広げていたノートを鞄にしまい始めた。


(しまった……! そう言えば、江波戸はよく保健室に来てるって堤先生が言っていたのに……)


 墓穴を掘った慧は自分の額にじわじわと汗が滲み出てくるのが嫌というほど分かった。しかしここで逃走するのも自分の非や罪を自ら増大させるだけのように思えた慧は、顔を引きつらせて数歩だけ後退した。するとそのタイミングで、慧の真後ろに位置する出入り口が音を立てて開いた。


「あらぁ、どうしたの?」


 背後からしたその声にぎこちなく振り向くと、そこには書類を持った堤が立っていた。


「ど、どうも。少し体調が悪くて……」

「うーん、そうみたいねぇ。だいぶ顔色が悪いわ」


 堤は訝し気に慧の全身を見た後、微笑みながらそう言い、話を続けた。


「とりあえず、問診票を書いてて頂戴。私はもう一回職員室に行かないといけないから」


 慧の横を通り抜けて自分のデスクに書類の束を置き、すぐに引き返してきた堤は開いたままのドアを抜けて途中までドアを閉めるが、そこで一度手を止めた。


「どうしたの? もし立っているのも辛いようだったら、問診票は後でも良いけど」

「いえ、大丈夫です」


 少し食い気味にそう答えると、慧はロボットダンスのような動きで目の前にある一人掛けのソファに腰かけた。


「そう? 無理はしないようにねぇ」


 ゆるりとした声音でそう言い残すと、ドアは完全に閉じられた。堤の足音が遠のいて行く。その音が遠のいて行く毎に、慧の頬には汗が伝った。


(先生、早く帰って来てくれ……! このままじゃ本当に調子が悪くなりそうだ……)


 なるべく視線を上げないように問診票と鉛筆を手元に並べた慧は、堤が早く帰ってくることを、そしてこの短い時間で伊武がアクションを起こさないことを祈りながら、問診票を書き始めるのであった。

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