第10話 隣席、急接近?

 堅苦しいとも優雅とも見える挨拶を終えた恵凛は助けを求めるように内海の方をチラリと見た。


「はい。という事で、みんな今日からよろしくね! じゃあ龍宮さんは……。あそこ、風見君の横の席で」


 その救難信号に気付いた内海は上手い事話を継ぎ、恐らく元から決まっていたであろう慧の右隣の席を指し示してそう言った。


「はい」


 消え入りそうな返事をして再び小さくお辞儀をすると、友宏が座る席の横を抜けて直進し、慧の右隣の席に恵凛が腰かけた。


(はぁ、面倒なことになった……)


 慧はそんなことを思いながら、その思い煩いの原因である恵凛の方をチラリと見た。すると丁度彼女も慧の方を向いており、思いがけなく目と目が合った。慧は咄嗟にヤバいと思って視線を逸らそうとしたのが、それよりも先に恵凛が視線を外し、雪のように白い頬を紅潮させて俯いた。綺麗な黒髪で半ば隠されたその横顔は端正で、まつ毛は長く、瞳は大きく、美しくも狂気を覚えるその目元はフランス人形を彷彿とさせた。それより下にはこれまた白い一本の鼻筋が通り、薄いピンク色の唇は俯いているせいで翳りを帯び、一種の威厳のようなものを示していた。そんな造形されたかのような美しさに慧は数秒間目を奪われ、後に自分がずっと恵凛を見つめていた事実に羞恥心と冷や汗とがブワッと込み上げてきて直ぐに視線を黒板の方に戻した。


(落ち着け、俺。恐らくバレてないはずだ……。バレてないよな……?)


 表向きでは至って平静を装っている慧であったが、その心臓の高鳴りと来たら、外に漏れ聞こえていてもおかしくないほどであった。しかしそんなことが現実で起こるはずも無く、慧が心を落ち着かせている内にホームルーム終了の鐘が鳴った。


「ちょっと長くなったけど、今日のホームルームはこれで終わり。次の授業まであまり時間は無いから、ふざけないで早く準備するようにね!」


 内海は教卓に広がる名簿やらプリントやらを一纏めにすると少しだけ疲労の伺える表情と声音で号令をかけ、その場を離れた。そして彼女が教室を出てスライドドアが閉じると同時に、真っ先に友宏が歩み寄って来た。そして恵凛が掛ける机付近に立ち、


「おはよう、龍宮さん。いや、龍宮! 俺は蒲地友宏。よろしくな」


 と、元気よくなのか、図々しくなのか、恵凛に挨拶をした。


「あ、えっと、その、よ、よろしく、お願いします……」


 恵凛は俯いたまま小刻みに頭を上下させると、ギリギリ聞こえる声でそう答えた。するとその様子を見て、続々と恵凛の周りに人が集まり始め、糸口を作った友宏は慧の方に弾き出された。


「いってぇ。ったく、誰か足踏みやがったな」


 友宏はそう独り言をぼやきながら、慧の机にどっかりと腰かけた。


「おい、机の上に座るなよ」

「そんなこと気にするくらいなら俺の足の心配してくれよ~」

「……はぁ」

「おいおい、あからさまなため息つくなよ。まぁいいや。で、お前は挨拶したのか?」

「え?」

「隣だよ。と、な、り」


 友宏は突然声を潜めると、集団の中心になっている恵凛の方を見てニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。


「いや、まだと言うか、何と言うか」

「お前まさか、可愛いから揚がってるのかぁ?」

「いや、そう言うわけじゃなくて……」


 慧が適当な言い訳を考えるために言葉を濁して何とか時間を稼ごうとしていたその時、突如友宏は目を見開き、慧の顔を見てうんうんと頷いた。


「あぁー、なるほど、そういうことか」


 勝手に何かを理解した友宏はまたもやニヤケ顔を浮かべると、慧の肩にポンと手を置き、


「早いとこ謝っとけよ!」


 と言うと、机から下りて再び恵凛を囲う群れに混ざった。慧はその背中を反射的に目で追いながら、流石に覚えてたか。と心の中で自らを嘲笑して視線を前方に戻そうとしたのだが、その時ふと生じた人と人の隙間から、騒ぎの根源となってたじろいでいる恵凛の姿が目に映った。


(あんなに囲まれて可哀そうだな。まぁでも、転入生の定めってやつか。……それにしても、数日前に駅のロータリーで見た時はもっと気丈な人なのかと勝手に思ってたけど、案外恥ずかしがり屋なのか? 会議室でも自分から発言すること無かったし。ま、こんなこと考えても意味無いか)


 思考を右往左往させた結果、今自分に出来ることは無いと感じた慧は恵凛から目を逸らし、一時限目の準備に戻った。すると丁度そのタイミングで恵凛は助けを求めるように慧の方を見た。しかし隙間の先では何食わぬ顔で机から教科書を引き出している彼がいるだけで、恵凛は失望して再び俯いた。

 それから間もなくして予鈴が鳴り、恵凛の周りに集まっていた生徒たちはそれぞれ自分の席に戻って行った。ようやく一人になれた恵凛は小さくため息をつき、膝の上に礼儀正しく置いていた両手を机の上に持ってきて肘をつき、手のひらを花弁のように広げてそこに小さな顔を乗せた。


(初っ端からあんなに絡まれて、機嫌悪くして無いよな……。こういう時はなんか声掛けた方が良いのか……?)


 疲れ切った様子でため息を漏らしている恵凛を横目に捉えた慧は、彼女の令嬢という立場を思い出して急に心がざわついた。何か気遣う言葉を掛けた方が良いのか、それともこういう場合はそっとしておくのが吉なのか。そうこう考えている内に教科担任が教室に入ってきてしまい、結局そのまま何も言うことは無く授業が始まった。


「よーし、じゃあ授業始めるぞー」


 教室を見回して欠席者がいないことを確認すると、英語担当の男性教員は左手に教科書を持ち、右手にはチョークを持って黒板に文章を書き始めた。


「おっと、そうだ。龍宮はまだ教科書が無かったよな。風見ー。見せてやってくれ」


 チョークの手を止めた瞬間からどこか嫌な予感はしていたが、いざ名前を呼ばれた慧は少しだけ自分の脈拍が早くなったことを感じながら、小さい声で返事をした。


(まぁそうなるよな……)


 そう思いながらチラリと右を見ると、僅かに頬を赤らめている恵凛が姿勢正しく座っていた。


(俺が机を寄せた方が良いんだよな。多分……)


 恵凛の境遇やら様子から、自分が動いた方が円滑に進むと考えた慧はなるべく音を立てないように、静かに机と椅子を運び始める。そしてもう少しで真横に着こうという時、ふと机を完全にくっつけるのは良くない気がした慧は数センチほど間隔を空けて椅子に掛けた。教科書はとても置き辛かったが、背表紙が隙間に沈まないギリギリの位置に机を調整し、なんとか恵凛の気を悪くしないように努めた。

 そんな心遣いに構わず、授業は平常運転で進行される。慧としても平常心で授業に臨みたい気持ちは山々なのだが、どうしても数センチ横にいる恵凛の存在が頭から離れず、それを忘れようと意識するとむしろ彼女の存在は脳内で膨れ上がり、慧はいつの間にか逃れられない負のスパイラルに呑み込まれてしまっていた。


(ノートを取ろうにも右手が当たりそうで怖いし、話すことがないこの状況で目が合ったらと思うと横も見れないし、かと言って縮こまってると気味悪がられそうだし。どうすりゃ良いんだ……)


 とにかくこのままでは気持ち悪いと思われかねないと危惧した慧は、静かに両腕を動かして筆箱からシャープペンと消しゴムを取り出し、そっとノートを広げた。


(よし、ここまでは上手く行った。後は自然に右腕を上げて、開き過ぎないように気を付けながらゆっくりと板書を写せば良い)


 今日ほど自分の両腕を精緻に動かした日は無いし、これからも無いだろうと思いながら、慧は黒板とノートとを交互に見つつ英文をノートに写していった。神経が過敏になっているせいか、シャープペンが紙面を滑る音や、書類が捲られる音、チョークが黒板を打つ音、周りの生徒たちの私語など、あらゆる音が塊となって耳を通過し、一瞬にして脳内を占領された。普段ならばこの雑音たちは慧の集中を妨げただろうが、今日に関してはこの雑音こそが唯一慧を救ってくれた。


(これは、ゾーンってやつに入ったのかもしれない。この調子で全部書き写そう……!)


 教科書本文を全て写し、テストに出る可能性が高い要点を蛍光ペンでチェックして、このページで初出した単語とその和訳をノートの端に書き、最後に本文の和訳とノートの空きスペースに文法を書こうとしたその時。

 ――右腕に何かが当たった。その瞬間に雑音は消え、機械のように動き続けていた右手も停止した。


(ぶ、ぶつかった。のか……?)


 今まで綺麗に丁寧に積んできた積み木が、一気に瓦解する音が聞こえたような気がした。すると再び、右腕に何かが触れる感覚。かと思えば、それに続いて今度はブレザーが微かに引っ張られた。そこでようやく自分がぶつかったのでは無く、何か別のことが起きているのかもしれないと考えた慧が禁断の右側に視線を向けると、ブレザーを摘んで俯いている恵凛がいた。


「えっと……」


 恐る恐る慧が小さな声で話しかけると、恵凛は目にも止まらぬ速さでブレザーから手を放し、自分の膝の上に戻した。


「どうか、しました?」


 タメ語でいくか敬語でいくかコンマ数秒悩んだ末、慧は敬語で問いかけた。すると恵凛は俯いたまま慧の方に少しだけ顔を傾け、上目遣いでチラチラと慧の方を見ながら口をパクパクとさせた。


(何か言ってるみたいだけど、全然聞こえないな……)


 このまま聞こえたフリをして何となく話を続けても良かったのだが、それは流石に失礼だと思った慧は椅子の上を滑るように移動して、大分浅く座った状態で首をほんの少し伸ばして恵凛の声に耳を傾けた。


「つぎの、ページ」


 ――右耳にかかる温みと、余りにも鮮明に聞こえ、かつ脳内に響いた恵凛の声に驚いた慧は思わず全身に力を込めてしまった。すると浅く掛けていた椅子は後方に滑り、支柱を失くした身体はそのまま地面に倒れ込んだ。


「おーい、大丈夫かー?」


 前方から聞こえてくる間延びした声で正気に戻った慧は、直ぐに立ち上がって椅子を元の場所に戻し、そこに腰かけた。


「は、はい! 大丈夫です。消しゴムを拾おうとしただけで……」


 言い終わった直後、これは相当苦しい言い訳だな。とは思ったが、もう言ってしまったものは仕方がない。今はそれより、この溢れ出る冷や汗と、高鳴っている鼓動の原因であろう、先ほど味わった不可思議な現象を追求することに慧はいっぱいいっぱいであった。


(何が起きたんだ。最初は向こうからアプローチがあって、でも何を言ってる分からないから、それを聞き取ろうとして顔を近づけて。と思ったら……)


 そこまで想起した慧は、再び右耳に温い風を浴びたような感触を覚えた。


(そうだ、温い風が右耳にだけ当たったんだ。それで、ゼロ距離で声を掛けられたみたいに龍宮さんの声が脳に響いて……。ゼロ距離で?)


 自力でたどり着いた推理の結果に、慧ははち切れんばかりの鼓動の高まりを感じた。それを落ち着かせようと深呼吸する理性に反し、本能は鮮明なイメージを、恵凛が執事に話しかける時の耳打ちする姿を脳内に浮かび上がらせる。


(あ、アレだ。アレを、お、俺にもやったんだ……。わざとなのか。仕返しか? いやでも、お嬢様だし、さっきのシャイっぷりを見るに、ただの常識知らずの可能性もあるな……)


 思考を巡らせることで何とか気持ちを落ち着かせ始めた慧だが、もう右側を向くことなど出来るはずもない。ぎこちない動きでノートを捲ってシャープペンを握ると、教師の動きや黒板の英字に全神経を集中させる。そうすることで少しずつ鼓動が収まって来たと思うや否や、視界の右端から白く華奢な手が出現し、慧の右手目掛けて伸びて来た。と同時に、優しく甘い香りがふんわりと漂い、慧は誘惑された獣の如く、自然とその手の動向を目で追った。


(なんだ、今度は何をするつもりだ……!)


 このままいけば慧の右手に触れる。と思われたが、白い手は蝶が羽ばたくような柔らかな動きで慧の手の上を通り過ぎ、教科書の端に止まると丁重にページを繰った。

 ドキドキしながら一連の動作を見届けた慧は、程なくして恵凛の方を見た。彼女は慧に見られているとも知らず、凛とした姿勢で教師の話を聞き、時折教科書に目を向けていた。


(はぁ、意識のし過ぎでドッと疲れたな……。ま、授業に集中してるようで良かった。これで俺も授業に集中できるはずだし)


 ようやく全ての収拾がつき、ここからはしっかりと授業に打ち込めるだろうと諸々を改めたタイミングで、授業終了のチャイムが鳴った。


(え……)

「はいー、じゃあ今日はここまでー。次回もこのページからやるぞー」


 英語担任はそう言って授業を切り上げると、日直の号令を聞いてから、教室を出て行った。と思うと、すぐさま友宏が慧のもとへ駆け寄って来た。


「いやー、今日は短く感じたな」


 話しかけて来る友宏を他所に、慧は机と椅子を動かそうとする。


「おいおい、待てよ」

「なんだよ」

「今日一日はそのままで良いだろ」

「え?」

「だってどのみち、教科書持って無いんだから」


 こういう時に限って核心をつくようなことを言ってくるな。というのは心の中で留めておき、慧は何か反論を考えたが、結果は振るわなかった。


「へへ。何も言い返せないだろ。だって、毎回机と椅子を動かすのは面倒だからな!」


 勝ち誇ったように言う友宏をそのままにしておくのは癪だったが、事実何も言い返せなかったので、慧は大人しく席に着き、恵凛のことを見た。するとまた一瞬だけ目が合い、彼女が先に視線を逸らした。


「これは早く仲直りしないとな」

「うわ!」


 突然友宏に耳打ちをされた慧は、授業中の出来事を思い出して反射的に彼を突き飛ばしてしまった。


「おいおい、どうした?」

「いや、びっくりしただけだよ」

「お前まさか、耳が弱いのか!」

「はぁ、かもな」


 慧はそう返答して会話を強制終了させると、今日学校が終わるまでの数時間を憂いて大きなため息をつくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る