第9話 仲違い

 背後からの視線や気配に怯えて住宅街まで帰って来た慧は、自宅が視界に入った瞬間にようやく前進の力みが抜けた気がした。


【流石にここまでは追って来ないでしょうね】

「だよな。今日は何かと気を張ることが連続して起きたせいで疲れたよ……」

【そうですね~。今日は早めに夕食とお風呂を済ませて、明日に備えましょう!】

「あぁ。全く、まだ水曜日なのが信じられないよ……」


 ラヴィに小言をぼやきながら帰宅した慧は、その後最低限の生活を送り、疲弊し切っている身体をベッドに沈めた。


 翌日、早めに起床した慧は久しぶりにゆったりとした朝の時間を過ごした。ゆったりと着替え、優雅な朝食を摂り、洗顔と歯磨きも済ませ、学校鞄の中身を再確認した後、外に出て無人の家に挨拶をし、駅に向かった。


【昨日はよく眠れましたか?】


 電車を待っている隙間時間にラヴィがそう問いかけてきた。


「うん。悔しいけど、一昨日と昨日はここ数年の中で一、二を争うくらいよく眠れたよ」

【そうでございますか! やはり、適度な疲労は必要という事ですね】

「お前が疲労って言って良いのか?」

【あ、い、いや。誰も恋愛や人付き合いが疲れるなんて言っていないじゃ無いですか! アハハハハ!】

「まぁ、そうだな。別に俺も特定の行動を浮かべて言ったわけじゃ無いし」

【ですよね! 全く、ご主人はお茶目ですね!】


 朝の余裕はラヴィに構うことに留まらず、ラヴィをからかうまでに慧の気を大らかにしていた。しかしその会話を終えた直後、(これが人間相手にも出来れば、もっと学校生活が楽になるのになぁ)と、先ほどまでの大らかな気は一瞬にして萎んでしまい、慧はため息をついた。するとその折、電車がホームに流れ込んだ。

 電車はものの数分で天方中央駅に到着した。慧はちらほらいる同じ制服を纏った男女たちと電車を降り、改札を抜けた辺りで、いつも通り少しだけ歩度を緩めてその一団から外れ、スローペースで学校に向かった。

 常ならば十分ちょっとで学校に着くところを、今日は十五分ほどかけてのんびりと正門までたどり着いた慧は、これから上る坂を見上げ、深く呼吸をした後に正門を抜けた。するとその瞬間――


「おい慧!」


 と、正門の裏から友宏が飛び出してきた。


「な、なんだよ! びっくりしたな……」


 被害者面をしてそう叫んだ慧だが、友宏の怒りに満ちた表情を見てすぐさま昨日のことを思い出した。


「あ、えっと、おはよう……」

「おはよう。じゃねーよ! お前、昨日帰っただろ」

「いやー、その、あの後色々あってさ。急に帰らなきゃいけなくなって、でも、友宏の連絡先知らなかったからさ」

「あぁー、確かに。よし、じゃあ今交換しよう」


 友宏はそう言うと、早速スマホをポケットから取り出した。


「ほら、早く」


 あまり連絡先を交換したくないと思っている慧を他所に、友宏はそう言って催促した。これはどうにも退けそうにないと察した慧は渋々スマホを取り出してメッセージアプリを開き、コードを提示した。友宏はそれを同じアプリで読み取ると、確認がてらに意味の無いメッセージを送って来た。


「来たか?」

「うん、来た」

「よし、これで今日は逃げられないで済むな」

「え?」

「今日は運動部を見に行くだろ?」

「いやー、運動部は……」

【良いじゃ無いですか。見るだけなのですから】


 慧が答えを渋っていると、ラヴィが横槍を入れて来た。


「そう言う問題じゃないんだよ……」


 慧はグッと歯を食いしばりながら、腹話術をするようにそう呟いた。


「なんて?」

「いやいや、何でもないよ。実はー、そのー……」


 何か、何か逃げる口実は無いのか……! 言葉を濁しながら言い訳を考えたが、それらしいネタが思い浮かばない。かくなる上は……。


「そ、そうだ。今日は学年主任に呼ばれてるんだった」


 まるで今思い出したかのように、至って平常を装ってそう言った慧はチラリと友宏の方を見た。


「ふーん、そっか。なら仕方ねぇな。じゃ、教室行こうぜ」

「あ、う、うん」


 騙せたのか? と、半信半疑の慧であったが、ここで怪しい行動をしては折角の嘘がバレてしまうかもしれないと危惧し、ひとまず彼の後を追い、一緒に教室に行くことにした。

 教室に着くまでの間、友宏は昨日一人で見て回った文化部の感想を陽気に喋った。この様子からして、さっきの発言を疑ってる感じはしないな。なんてことを考えながら、慧は適当な相槌を打って会話を何となく継続させ、二人は四階の教室に入った。


「でさ、三年生のギター演奏が特にスゴかったんだよ。やっぱりギターってカッコいいよなぁ」

「そ、そうなんだ。じゃあ、軽音楽部に?」

「いや、そう簡単には決められない。まだ見てない部活もあるからな」


 友宏は目を細くしてそう言ったかと思うと、ニヤッと笑みを浮かべて見せ、自分の席に向かって行った。それにしても、こんなに早い時間から友宏がいるとなるとラヴィとの会話は難しそうだと思った慧は、鞄を机の横にかけ、独りそそくさとトイレに向かった。


【どうしたのですか、ご主人?】

「いや、教室には友宏がいるからさ。これ以上絡まれたら面倒だなと思って」

【何を言っているのですか。私よりも友人を大切にしないとダメですよ?】

「別に、お前と話したくてここに来てるわけじゃ無いし」

【またまた~、照れてるんですか、ご主人~?】

「な訳ないだろ」

【ハハハハ。……とまぁ、冗談はここまでにして、私はあくまでも恋愛サポートナビですので、私のことよりも交友関係を優先してください】

「……分かったよ」


 慧は不貞腐れたようにそう言うと、左耳にだけ装着していたイヤホンを外してポケットに突っ込んだ。そして満たされている透明な水を流して個室を出ると、教室に戻った。


(なんだよ。まるで俺がアイツを拠り所にしてるみたいな言い方しやがって……)


 荒々しく椅子を引き出してそこに腰かけると、慧はすぐさま頬杖をついて口を尖らせた。


(こっちは父さんが試してくれって言うから使ってやってるだけで、恋愛どころか人付き合いだってしたくないってのに。それに、恋愛サポートナビとか言ってるくせにいちいち首突っ込んで来るし、説教まがいのことも言ってくるし。はぁ、めんどくさい奴……)


 溜まっていた愚痴が湯水の如く溢れ出し、忽ち慧の脳内は淀んだ言葉で満たされた。そうしてひとしきり脳内で愚痴を吐き出した後、静寂と共に訪れたのは冷静な思考であった。


(って、これじゃあ完全にアイツの存在を意識してるようなもんじゃないか。いやでも、実際アイツがいなければ、女子はもちろん、友宏も突き放してたかもしれないしな……。いやいや、ここで弱気になっちゃダメだ。それこそ試作品なんだし、適当に使ってそれっぽい感想を父さんに伝えればそれでいいはず。うん、それで良いんだ)

「おーい、慧。なに口尖らせてんだ?」


 そう言いながら顔を覗き込んできた友宏に驚き、慧はその場で少しだけ腰を浮かせた。


「な、なに?」

「なに。じゃねぇよ。少し目を離した隙にどっか行ったかと思えば、今度は石像みたいになりやがって。まだ話は終わってなかったのにさ~」

「部活の話はもう良いよ。俺、入るつもり無いし」

「え、お前どこにも入らないのか?」

「うん、別にやりたいこと無いし」

「なーんだ、そっか。まぁでも、見たら気が変わるかも知れないしさ、明日は付き合ってくれよな」

「うーん、明日だけなら良いよ」

「だけならって、部活見学は明日までで、来週からは仮入部だぞ」

「あ、そうなんだ。分かった、じゃあ明日は行くよ」


 明日だけならまぁ良いか。と思いつつも、でも面倒なのは面倒だな。なんて矛盾を抱えながら、慧は小さくため息をついた。


「で、昨日はあの後――」


 友宏が話頭を転じようとしたその時、教室後方のスライドドアが開き、担任の内海が入って来た。そしてスタスタと慧の前まで歩み寄り、


「風見君、ちょっといい?」


 と、小さい声でそう言った。


「え、俺ですか?」

「うん、本間先生が呼んで来いって」


 内海は苦笑いをしながら学年主任の本間が呼んでいることを告げ、先に廊下へ出て行った。


「お前、なんかしたのか?」

「いや、多分放課後のことだと思うけど」

「あぁー、そのことか。行って来いよ」

「う、うん」


 多分龍宮の件だとは思うけど、この時間から何を話すって言うんだ。いや、もしかしたら他のことなのか……。なんて邪推をしながら廊下で待っている内海のことをチラリと見て、慧は席を立った。そして廊下に出てみると、そこには学年主任の本間が立っていた。


「おぉ、風見。おはよう」

「あ、おはようございます」

「よし、じゃあ俺に付いて来てくれ。内海先生はいつも通り、ホームルームの準備に戻って大丈夫だから」

「はい、分かりました」


 内海はそう言って軽く頭を下げると、慧の方に一瞥を送り、何とも言えぬ微笑みを浮かべた。


(何でそんな微妙な顔を……。頑張れってことなんですか。それとも憐れみの眼差しですか?)


 そんなことを考えていると、慧も自然と微妙な表情を浮かべていた。そうしてそのままの顔で内海に会釈をすると、本間の後に付いて実習棟に向かった。

 四階の渡り廊下を通って実習棟に到着した二人は、階段を下りて二階の職員室前を素通りし、会議室前で立ち止まった。


「じゃあ、中で龍宮が待ってるから。よろしく頼んだぞ」


 本間は慧の肩をポンと叩きながらそう言うと、心なしか速足で職員室に入って行った。


「え……。どういう状況だ、これ」


 一人取り残された慧は誰も居ない廊下に立ち尽くし、学年主任が消えて行ったドアと会議室のドアとを交互に見て、大きくため息をついた。


(答えなんて全然考えてないよ。アイツがいたら間違いなく首を突っ込んで来て……。って何考えてるんだ。無駄なことは考えず、嫌なら素直に断ればいい話だ。よし、行くぞ)


 一分弱、ドアの前で尻込みしていた慧がようやく考えをまとめ終え、いざ会議室に入ろうとしたその時、左太ももが微振動を感じ取った。折角決心したって言うのに。と思いはしたものの、慧は左ポケットからラヴィの本体を取り出した。すると画面は自然と明転し、そこに次々と文字が表示されていく。


【盗み聞きをして申し訳ありません。ですが、これだけは伝えておきたくて。ご主人は結構な、いや、相当な面倒臭がり屋です。そこは否定できません。しかし、それと同じくらい、ご主人は思いやりに溢れた人だとワタクシは思っていますよ】


 画面に表示されたメッセージは十数秒の後に消えた。そして画面も暗転し、そこには慧の冴えない顔が移った。


(思いやりって何だよ。数日前に届いた試作品が俺の何を知ってるんだ。俺はただ、問題を起こしたくないだけだ……!)


 無機質な文字に。いや、無機質だからこそ、慧の感情は大きく揺さぶられた。文字を読んでいるだけでラヴィの声が聞こえてくるような気がして、その声に自分が勇気付けられているような気がして、慧は余計腹が立った。しかし不本意にも、慧はそのラヴィの言葉に後押しされたように会議室へ入って行く他無かった。


「失礼します」


 ドアを三回ノックして入室した慧は、会議室で待っていた龍宮恵凛とその執事に向かってそう言うと、恭しく一礼した。


「風見様、おはようございます。突然のお呼び出しにお応え頂きありがとうございます」


 恵凛の傍らに立っている男は丁寧にそう言うと、まるで手本を見せつけるかのようにお辞儀をして見せた。


「いえいえ、全然大丈夫です」

「左様でございますか。では、ここからは手短にお話をさせていただきます」


 以前爺やと呼ばれていた男が用件を話し出そうとしたその時、恵凛が小さく咳ばらいをした。すると白髪交じりの男は口を真一文字に閉じ、彼女の傍に寄った。


(また何か耳打ちをしてるな……。こんなの漫画とかアニメの中の話だと思ってたけど、お嬢様ってのは本当に自分の口で話すことは無いんだな)


 対面のテーブルでやり取りをしている二人を見ながらそんなことを考えていると、男が立ち居振る舞いを正した。どうやら話が纏まった様だと慧も姿勢を正すと、


「ゴホン。本日より、恵凛様は貴方のクラスに入ります。ですので、どうかお嬢様の付き添いを宜しくお願い致します!」


 男はそう言って頭を下げた。


「えーっと……」


 これはもしや、拒否権は無い感じか? と心の中で考えながら相手の行動を伺ってみると、男は頭を下げたまま、恵凛はもじもじと自分の手元を見るばかりで、どれだけ待っても向こうが動き出す気配は無かったので、慧は心の中で白目を剥いた。


(最悪だ。正直こんな話自然消滅すると思ってたのに、まさかこんな強引に話を進めて来るなんて……。それに、ここで引き受けたらラヴィのアドバイスを真に受けたみたいで嫌だけど……)


 そこまで考えた慧は一度深呼吸をし、


「はい。出来る限り頑張りますけど――」

「ありがとうございます。では今週末にお屋敷の方へご招待致しますので、詳しい内容はそちらでご説明させていただきます。ひとまず、本日と明日の二日間、お嬢様を宜しくお願い致します」


 俺だけじゃなくてクラスのみんなで協力して付き添えば良い。と提案しようと思っていた慧だが、その企ては執事の妨害によって水の泡となった。そして……。


「はい、それじゃあホームルームを始める前に、今日はみんなに新しいクラスメイトを紹介します」


 チャイムと共に教室に入って来た内海は、教卓に名簿を置いてからそう言った。するとその稀有な言葉にクラス全体は色めきだち、一瞬にして騒々しくなった。


「静かに! はぁ、小学生じゃないんだから……。それじゃ、入って来て」


 内海のその言葉に、教室は再び微かな賑わいを見せる。が、誰も入って来ない。


「……あ、ちょっと待っててね~」


 苦笑いを浮かべながらそう言うと、内海は早足でドアまで歩み寄り、そして静かにドアを開けて教卓まで戻った。


「それじゃ、どうぞ」


 改めて内海がそう言うと、ようやく新しいクラスメイトが姿を現した。内海の横まで淑やかに歩むその姿に教室は静まり返った。


「龍宮恵凛です。よろしくお願いいたします」


 上品で透明度の高い声は、静まった教室に風鈴の音のように広まった。その場にいる全員が驚嘆を漏らしている中、慧だけは嘆息を漏らすのであった。

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