第8話 見つけた背中
璃音を追って四階の廊下に戻って来たは良いが、一年の廊下に彼女の姿は見えなかった。それならば自分の教室に戻っているかもしれないと思いついた慧は走る勢いそのままに六組に向かったが、教室はもぬけの殻であった。
「はぁはぁ、どこに行ったんだ。もっと早く追うべきだったかな……」
【ご主人、諦めてはいけません。他に彼女が行きそうな場所を考えてみましょう】
「そんなこと言われても、出会って数日の人間が行くところなんて分からないだろ」
【うーん、それもそうですね。ではまず、手堅く下駄箱に行くのが良いのでは?】
「……確かに。よし、下駄箱に向かってみよう」
助言のお陰で多少冷静になった慧は下駄箱を目指して再度駆け出した。周りの目など気にせず廊下を走り、階段を転がるように下り、肩で息をしながら、今年度入学した生徒たちの下駄箱の列を一つ一つ見て回った。が、そこに璃音の姿は無かった。
(ここでもないのか。それとも、もう外に出たのか……。そうだとしたら、まだ正門あたりにいるはずだよな。行ってみるか)
璃音はまだ学校の敷地からは出ていないと踏んだ慧は、自分の下駄箱に向かって靴を取り出し、指をヘラ代わりにそれを履くと早足で昇降口を出た。パッと見た感じではそれらしい姿は無かった。それどころか、人の影が見当たらなかった。この感じだとまだ校内に居るのかもしれない。と思いはしたものの、念のため正門の方を見に行こうと辺りを見回しながら数歩前進したその時、視界の左側上部(つまりは教室棟の上の方)で何かが動いたような気がして視線を上に持っていた。すると、教室棟の屋上に誰かが立っているのが見えた。傾き始めている日が僅かに雲で翳った一瞬、その正体が璃音であることに気付いた。
「雀野……!」
流石に喧嘩一つで気が急いたとは思えないが、万が一ということもある。もしかしたらもしかする場合もある。そう感じた慧はすぐさま引き返し、靴を雑にしまって上履きの踵を潰して履き、息を荒げながら階段を駆け上がった。そして四階まで辿り着くと、入学初期に聞いた一組側にある屋上へと続く専用の階段に向かい、そこを駆け上がって重い鉄扉を力いっぱい押し開けて屋上に飛び込んだ。
――屋上の格子近くには、吹き付ける横風を微塵も気にせずに立っている璃音がいた。背面の腰辺りで手を組み、時折片足を軽く上げてトントンと地面を打っているその姿はいじらしく、反して哀しくもあった。
【ご主人、慎重に声を掛けるんですよ】
「はぁはぁ、分かってる」
【まずは呼吸を整えて】
「分かってるって」
【ご主人が緊張しちゃいけませんからね】
「分かってるって……!」
ラヴィがあまりにもしつこく話しかけて来るので、慧は思わず声を張ってしまった。その直後、自分の過ちに気付いた慧がマズいと思って顔を上げて見ると、案の定璃音はこちらを見ていた。
「なに?」
慧と目が合った瞬間、璃音は再び彼に背を向けて少し強めの語気でそう言った。
「いや、えーっと、ちょっと気になったから追って来たんだよ」
【なんて歯切れの悪い……】
自分でもそう思ってるよ。と言い返したいところではあったが、この緊迫した状況で変なことを口走ったら最悪の終止符を迎えかねないので、慧はグッと堪えて璃音の反応を待った。
「気になったって何よ。あたしがなんかした?」
「いやいや、まさか! 本当に様子が気になったから追って来たんだよ。何て言うか、その、何かあったみたいだったから」
涙を見たから。なんて直接的なことは口が裂けても言えなかったので、慧は大分遠回しに、言葉を濁しに濁してそう答えた。
「そんなに汗かいてまで、何が気になるのよ。あんたには関係ないでしょ」
璃音にそう言われた慧は、こめかみから顎に伝う雫の存在にようやく気付いた。そして彼女が見ていないにもかかわらず、慌ててそれを拭いながら言葉を継いだ。
「か、関係無くはない。その……」
「見たの?」
口ケンカの現場に居合わせてしまったこと。あるいは璃音の涙を見てしまったことを言おうか言うまいか迷っていると、微かに聞こえるくらいの声量で璃音はそう言い、鼻を啜った。
「見たって、何を?」
丁度その時の情景を脳内に思い浮かべていた慧は、内心ドキッとしながらも、意外と冷静に、璃音がどちらのことを聞いているのか明確にするために質問に質問で返した。
「……ケンカ。先輩との」
「うん、たまたまだけど」
良かった。早とちりで答えなくて。と、少しホッとしながら落ち着いた調子でそう返すと、それが思いの外璃音を安心させたようで、彼女は呼吸を整えて慧の方に向き直った。
「はぁ~あ! あんたにはケンカしてるところばっかり見られるわね」
璃音はそう言うと先ほどまでのしおらしさから一変し、夕暮れに勝るとも劣らない爛漫な笑みを浮かべて見せた。それを目にした慧は、どうやらそこまで思い詰めてはいないみたいだな。と、心内での安堵がため息となって表出した。
「悪いとは思うけど、こればっかりはどうしようも出来ないからな……」
「ま、それはそうね。そもそも短気なあたしが悪いわけだし」
完全に頭が冷えたようで、璃音は振り切った調子でそう言うと両手を天に向かって目一杯伸ばした。
伸びを終えて完全に気分が切り替わったと見えた璃音であったが、両手を下げて素に戻ったと思った次の瞬間、突然唇を尖らせ、キリッと鋭い目付きに変わった。それを目の当たりにした慧は、何か嫌な予感を察知した。
「でもさ、今日こそは練習するって向こうが言って来たのに、当日ドタキャンとかあり得なくない?」
嫌な予感は見事的中した。
「え、うん、そうだな」
「先輩がボーカルしてくれって誘って来たから入ったのに、まともに練習できたこと無いのよ! 先輩たちのせいで!」
「そ、それは酷いな」
「でしょ! で、あたしが辞めるって言ってもだーれも追って来ないし。もうやってらんないわ」
「普通なら、追って来るべきだよな」
「だよね! あーあ、マジで辞めちゃおっかな。どうせ頭数足りないから誘っただけだろうし」
璃音が放つ愚痴のマシンガンにたどたどしく付き合っていた慧だが、その言葉を聞いて口ごもった。
「……うーん、確かに先輩の方が無責任ではあると思う。俺だって無下にされるのは嫌だし。でも、一回考え直してみるのも有りかなとも思うよ」
「あんただって向こうが悪いって思ってるんでしょ? それなら向こうが悪いで良いじゃん。意味わかんない」
つい数秒前まで小気味良い調子で刻まれていた雑言は止み、明らかに不服そうな声でそう言うと、璃音は視線を逸らした。
【ご主人、今のはマズいですよ。この場は彼女の愚痴を全て聞き受けることで丸く――】
「俺が口出すのも変な話だけど」
まるでラヴィの助言が聞こえていないかのように、慧は強めの語気で話し始めた。
「お願いされたってことは、それだけの期待も込められていると俺は思うんだ。正直、期待とか責任って言葉は俺も好きじゃない。でも、だからって早々に諦めるのもなんか違うなって思うんだ。誰かに物を頼まれる度に……。まぁ、頼み事なんて滅多にされないんだけどね」
一息に話を終えた慧だが、どうにも説教臭くなってしまったと思い、最後にはシニカルな一言を添えて微笑を浮かべて見せた。すると目を逸らしていた璃音はゆっくりと慧の方に向き直った。
「あ、あんたなんかに言われなくても、まだ諦めるつもりなんか無いし。ただ、ちょっと、ムカついたから愚痴っただけだし!」
璃音は口を尖らせたままそう言うと、キッと慧のことを睨んでから大股で慧の横を抜けて行き、鉄のドアをグイっと両手で開き、そのまま階段を下って行ってしまった。
【ふぅ、なんとか事なきを得た。という所ですかね。それにしてもご主人、素晴らしい応対でしたよ! わたくし、感動しました……!】
嬉々として主を絶賛するラヴィであったが、それに応えたのは一陣の風だけであった。
【あ、あれ、ご主人? おーい、ご主人、生きてますかー】
「すぅー、はぁー。やっちまった……」
【ご主人! 良かった、生きてはいるみたいですね】
「仲良くも無いのに変な口出ししちまったな……」
【いやいや、そんなに落ち込むことも無いと私は思いますよ】
「ほんとか?」
【はい。アレはいわゆるツンデレ。というやつなのでは無いですか?】
「ツンデレ?」
【はい。口ではああ言ってましたけど、傷付いた。というよりかは、気付きを得た。と言ったような声音に聞こえましたよ】
「声音で判断できるのかよ」
【そ、それは。まぁ、多少は?】
「はぁ、信用ならない言い方するなよ」
【そんなこと言って、私のアドバイスなんて聞いてなかったじゃ無いですか!】
「いや、それはその、雀野の言い方が気になったから、つい口走っちゃっただけで」
【まぁ良いですよ。結果として良い方に転んだようですし、後々は私のアドバイス無しで会話出来るようになった方が良いですからね】
「出来れば会話したくないけどな……」
【今何か言いましたか?】
「いや、何でも」
【それでは、ひとまず部活見学に戻りますか!】
「そうだな。……って、何でお前の方が乗り気なんだよ」
【良いじゃないですか、気になる物は気になるのですから。さ、早く行きましょう!】
「はいはい」
一度は肝を冷やした慧であったが、ラヴィから客観的な意見を聞いたことで多少は気が紛れた。常ならばここで気落ちしてしまっていたところだが、今回は、まぁ何とかなるか。という楽観的な気持ちが心の大半を満たしており、背中を押す爽やかな風と同様に、軽やか足取りで屋上を後にするのであった。
その後教師がいないか注意しながら教室棟の廊下に戻り、渡り廊下を経て実習棟に戻って来た慧は友宏と合流するべく実習棟四階から捜索を開始しようとしたのだが、行き先を聞いていたわけでも無し、彼が行きそうな場所が分かるでも無し。と、特に行く当てが無くて困り果てた。
【どうしたのですか、ご主人?】
「いや、友宏がどこに行くか聞いてなかったからさ」
【何も彼と合流しなくても、部活見学なら一人でも出来ますよ?】
「それはお前が見たいだけだろ?」
【そ、そう言うわけでは! 無いことも無いですが……。とにかく、歩き回ってみましょうよ】
「うーん、別に部活に入るつもり無いんだけどな」
【そんなこと言わず、行きましょうよ! 見て回るだけならタダなんですから】
「お前、主婦みたいなこと言うな……。ま、分かったよ。見回るだけな」
慧はそれだけ伝えると、実習棟四階の廊下を歩き出した。と言っても、テラス側に並ぶ二つの多目的教室は部活動には利用されていないので、渡り廊下を出て左側に伸びる数個の特別教室を覗き見していくことにした。
理科室から始まり、生物室、音楽室、視聴覚室と続いている廊下には、誰一人として生徒がいなかった。
(まぁ、部活動があるとしても室内で行われる訳だから、廊下に人がいないのは当然のことか。……にしても、視聴覚室って廊下の最奥にあるんだよな。雀野はどんだけデカい声で叫んでたんだよ。いや、廊下の途中で言い争ってた可能性もあるのか)
なんてことを考えながら理科室を通り過ぎ、空っぽの生物室を覗き、音楽室から聞こえる吹奏楽部の演奏に耳を澄ませ、そのまま真っすぐ視聴覚室に向かおうとしたその時、後方で小さな爆発音が鳴った。人間が持つ防衛本能がすぐさま振り向かえるよう唆してきたのだが、誰も廊下に出て来ないところを見るに、これはもしや日常茶飯事なのでは……。と感じた慧が振り返らずに歩き出そうとしたその時、ガシッと右肩に重みが掛かった。恐る恐る振り返って見ると、そこには……。黒ずんだ白衣を纏った山姥のような人物が立っていた。
「わああああああ!」
「きゃああああああ!」
「……って、毎回驚くわけないでしょ。何やってるんですか」
慧の背後に立っていたのは宇留島輝虎であった。彼は振り返ってその姿を目にすると、真顔でそう応じた。
「え、あははははっ、はは……。ゴホンッ、これは失礼。昨日の君の反応が良かったものでね。ついからかいたくなってしまって」
「あの爆発もですか?」
「いやぁ、アレは、その、関係ない! ただ失敗しただけさ」
「関係無いのか……」
それはそれで気になるけど。とは思ったが、ここで輝虎の流れを遮るとまた面倒なことになりそうだったので、慧は続きを促した。
「ひとまず、爆発のことは置いておいて。単刀直入に聞こう! 君、僕の助手にならないかい?」
「は?」
「ぼ、く、の」
「いやいや、聞こえてないわけじゃ無いです。なんで俺なんですかって話です」
「うーん、何となくかな。そう、シックスセンス。僕の第六感がビビッと反応した。ってところかな」
「は、はぁ……。なるほど。ですが、お断りさせてもらいます。俺、部活に入る気ないんで」
そう言ってその場を立ち去ろうとした慧であったが、今度は両肩を掴まれ、行動を制限された。
「ちょっと、何ですか!」
「それなら大丈夫! 僕がやっているのは部活動では無いからね!」
慧のことを無理矢理振り向かせると、輝虎は威張った風にそう言った。
「え、えぇ……。無断で使ってるってことですか……?」
「いいや、無断ではないさ。許可は下りている!」
「そ、そうですか。だとしても、いや、尚更、協力はしたくないかなぁ。なんて……」
率直な感想を述べながら恐る恐る輝虎の顔に視線を戻して見ると、彼女は案外平気そうな顔をして立っていた。かと思うと、急に丸眼鏡の奥で瞳を見開いた。
「なんと! 僕の誘いを断った。……という事だよね?」
「えっと、そうです」
「困ったな。断られると思っていなかったから次の策を考えていなかったよ」
(その自信はどこから湧いて出たんだよ!)
「まぁそれはそれとして、研究員の一人として、毎日放課後に理科室に通ってみる。というのはどうかな?」
(言い回しを変えただけだな……)
「これでは遠回り過ぎるな。やっぱり短く簡潔に伝えた方が良いな。うん、絶対にそうだ。しまった。つい先ほどそれでダメだったではないか!」
(何だこの人、突然べらべらと独りで喋り始めたぞ)
【ご主人、逃げるなら今ですよ】
「だよな……」
黙って会話を聞いていたラヴィですらそう言うのだから、ここは一旦逃げても良さそうだなという結論に至った慧は、廊下を右往左往しながら独り言ちる輝虎から目を離さないように抜き足差し足で十数メートル後退し、一気に走り出した。
「僕と一緒に、未知の世界を……。いや、ダメだ。もっとシャープで、かつ断られにくい文言があれば。って、アレ? いなくなってるじゃないか! どこに行ったんだ、僕の助手君!」
実習棟の三階廊下にてその叫び声を聞いた慧は、これ以上輝虎に絡まれたらもっと事がこじれそうだと思い、その日は友宏に一報を入れることもなく(というか連絡先を知らなかったので)そのまま学校を抜け出した。
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