第8話 倒れた母
俊哉の母親らしき女は、今にも倒れてしまいそうなほど、細身の体で、フラフラと歩いている。
彼女の歩いていく先には、クマの群れがあった。クマは座り込んでいる。
ーークマは...肉食動物...だったかな?
不意にそんな事を思った。
肉食動物だったら、間違いなく彼女の存在はエサでしかないだろう。だが、クマはまだエサの存在に気づいていないようだ。
そんな時、もう一人の女性が家から出てくるのを、液晶画面が捉えた。
ーーこれってもしかして、、??
今出てきたばかりの女性がその場に倒れ込んだ。
「ーーお、、お母さん?」
司が言った。
突然、母親が目の前で倒れたそのショックで司の体が小刻みに震え始める。
「ーータケル君、これは幻覚なの??僕、お母さんが心配だよ!!」
今にもタケルの胸を掴みかかりそうな勢いで司が言った。
「ーーこれは、、」
次の言葉を待ちながら、生唾を飲み込む。
ツカサには、とても長い時間に感じられた。実際にはそんなに長くない時間だったのかも知れない。
僕はタケルの返事を待つ。
ーーこれは、現実です。
※大人の世界に
ーーえ??
――現実?
戸惑いを隠せないまま、ツカサはタケルの腕をつかんで言った。
「僕をお母さんのところに連れていってよ!僕、お母さんが心配だよ!!お願い」
「――ふぅ。しょうがないですね!行きましょう!!」
「ーーちょっと僕、行ってくるね」
子供たちにそう告げると、勢い良く司とタケルは走り出す。
島のようになっているが子供たちを集めたこの場所からツカサの家までは、徒歩でも五分くらいらしい。
ーーまだお母さんを助けられる。
タケルの手をとって、家まで全速力で走っていく。
ぜぇ。。はぁ。。ぜぇ。。はぁ。。
家に着いた時、司は息を切らしていた。久しぶりに全速力で走った気がした。
そんな中、タケルは平然としている。
あの時の映像を思い出す。
母は玄関を出てすぐ倒れたはずだ。
あたりを見渡すと、目の前で母が横たわっていた。緊急時の対処法はいつも、耳にタコが出来るほど、教えられていた。
ーー慌てるな。
ーー救急車の呼び方は……110番?
110番に電話すると、相手は警察だと言う。
ーーどうしよう?
「ーーすいません。救急車呼ぼうと思ったんですけど、間違えて電話しちゃいました。ちなみに救急車は何番ですか?」
「ーー間違えたって……?あはははっ。。」
対応した警察官が大声で笑っている。
ーー失礼な!!
そんなとこで、憤慨してる場合じゃないのは分かっているが、どうにも腹ただしい。。
「救急車は119番です。そちらにおかけください」
真面目な口調ではあるが、まだ電話が繋がっている状況で、まだ大笑いをしている。
対応した人が、大笑いさえしなければ……。
司は親切な対応だと思ったはずなのに。
ーーやっぱりムカツク。
その悔しさでツカサは涙を浮かべた。
※命がかかってるのに
何とか119番に電話をして、状況を説明すると、受話器の向こう側の人(救急車の手配をしている人だろう)も「女性が倒れたらしいよ?」と言って大笑いしている。
人の命がかかってるのに、一体何がおかしいのか。
そう思った。
だが、あろうことか、僕もまた両方(警察と救急)の対応の悪さがおかしくなってきた。
あっはははははは。
「こんな世の中はおかしいよ」
そんな言葉をぼやきながら、司は腹を抱えて笑っている。
彼の言葉と行動が、まったく噛み合っていない。とても矛盾しているのはわかっていた。
お父さんが、笑ってたのはーーこれでだ。
何でかわからないが、とんでもなく面白い。
お腹を抱えて笑ってしまう。
ーーはっ。
司は不意に我に帰った。
ーーお母さん。。お母さんは??
「ーー司、帰ってきたのね。お帰りなさい」
母は苦しそうな顔で、僕の頬を優しく撫でた。何もなければ、ずっとそうしていて欲しいが、今はそんな事をしてる場合じゃない。
ーー僕がお母さんを助けなくちゃ。
救急車を呼んでいたおかげで、程なくして救急車が到着した。
※一つの顔の中に二つの表情
救急車から担架を担ぎ出した救急隊員が聞く。
「ーー患者さんは??」
彼らは今にも笑いそうに口元を歪めながら、
真面目な顔をしている。
腹の中では笑っているだろう事が、見て取れるようだった。
一つの顔の中に「真面目さ」と「笑い」が混同している。。
それが僕には、とてもおかしく思えた。
「ーーここです」
横たわっている母の方に指を指す。
「真面目さ」と「笑い」を混同したまま
ーーバイタルは?
救急隊員は最初から、だいぶイビツな表情をしている。が、ちゃんとバイタル?を計ってくれているのだろうか?
少し心配になる。
真面目な事を言ってても、真面目と笑いが混同したようなこの顔でやっているからだろうが、、手抜きをしていそうで怖かった。
※緊急速報
突然、ニュースが告げる。
「緊急速報!!
行方不明の子供が一人、見つかりました――無事です!!ケガはしていない模様です。
母親が倒れて、対応に駆けつけた模様です」
ニュースが司の事を語った。
その後、ニュースは最新の「ーーWW1512」
そのウイルスによる猛威の事が取り上げられた。
「ーー次は、えー、ww1512についての情報です。最近、このウイルスの情報が少しずつ分かってきました。専門家の判断によると、このウイルスは人体には特に害はないだろうとの事ですが、どんな大変な時でも、何もなくてもこのウイルスにかかると、笑い転げてしまう様です。もっとも治療薬などはまだ発見されておらず、かかってしまったらずっと笑ってしまう事になるようです」
ーーこのウイルスのせいだったんだ。僕、それであんなに面白かったんだ。
そのニュースを聞いてたら、おかしくなってきた。
何でこんなにおかしいんだろう?
ウイルスのせいって言ったって、、おかしな事が何もないのに笑えるんだから、僕は幸せかも知れないと、ほんの少しだけ思った。
こんなウイルスなら、どれだけ長い期間かけてばらまかれても、幸せな時間だと思った。
外に出て、少し歩いてみる。
家を出て真っ直ぐに進んでいくと、クマたちの群れがいる。
左側に進んでいくとコアラコーナーだ。そして右側に進むとライオンコーナーがあった。
父はあの時、右側に進んで行ったのだろう。。
司は笑いながら、左側に進んでいった。
ーーコアラ。
僕はコアラが大好きだ。
大好きな、コアラを眺めて歩くのが僕にはとても幸せな時間だった。
※タケルのもとへ
ーーコアラは眠っていた。
その先を真っ直ぐ進んで行くと、ヒョウが群れをなしている。
その右側にはトラたちがいた。
この街自体が、まるで「動物園」だ。檻のない動物園ーー動物たちがいつ暴れ始めてもおかしくない状況だ。
危険なのは変わらない。
だからこそ「外出禁止令」または「緊急事態宣言」なんだろう。
でも、こんなのがいつまで続くんだろう。
そんな思いが脳裏をよぎった。
「ーー司くん」
後ろから声が聞こえてくる。
振り返ると、そこにはタケルが立っていた。
「一緒に帰りましょう。子供たちの集うあの場所にーー」
「うん。帰ろう!!」
お父さんもお母さんも頑張ってるんだ。
僕が頑張らない訳にはいかない。
こうして僕らは、映像だらけの場所に戻っていく。
※緊急警報
子供たちの暮らす「安全」な場所に戻ろうとしたその時。
ブーブーブー。
大人たちの過ごす場所には、緊急を知らせるブザーが鳴り響く。
これは、いつも突然に鳴り始めた。
不思議なもので、少しずつでもこの緊急ブザーに人々は慣れ始めている。
「現在、肉食系のライオンやトラなど、危険な動物が起きていますので、外出禁止令に従い、家から外に出ないようにしてください」
早口の声で、市内アナウンスが響き渡る。
アナウンスは緊急性が高い事を告げるように、早口で繰り返し、街中にこだまする。
まさに「命」が危ない時間だ。
動物たちの近くを歩きでもしたら、エサだと思われ、食べられてしまうかも知れない。
大人たちは恐怖の中、眠れずに過ごしている。
ーーいつ、家に動物たちが侵入してくるか?わからないのだ。
ーーそう、あの頃はまだ良かった。。
学生時代、無駄だと感じていた避難訓練。
バカバカしいけれど、あれならば生死が関わるようなものではない。
そんな安心感があった。
でも、今は一歩間違えれば死んでしまうーーそんな状況である。
※回想
あれはまだ子供だった頃の話だ。。
学校で行われる「避難訓練」は時間通りに始められた。
あらかじめ「ウソ」だと分かっていた分、ノンビリ気楽にやっていたし「逃げる」と言いながらふざけてもいた。
子供なんてそんなもんだろう。
だが、長い年月が流れていくうちに、大人になってしまっていた。
ーー本当の危険。
ーー「命」の選択をする間もなく。
人生には、テストの答案用紙のように明白な答えなどは存在しないだろう。
だが、今はこの世界に答えを求められている。
街の至るところを、自由の身となった動物たちに占領され、大人たちは子供たちが生きているのか、死んでいるのか?わからないままーー不安な1日を過ごしているだろう。
この中で大人たちは国からのお願いである「外出禁止令」を出され、家に引きこもっていて外に出ないようにしているがこのままでは生きて行けない。それだけじゃない。無駄に笑い続けるウイルスもある。
この状態はまさに「生きる」か「死ぬか」の
命の選択ーー。
まさにそれである。
危険であっても少しは外に出なければーー。
そうしなければ、違う意味で命が危ない。
※黒い影
顔の見えない黒い人影が動いている。
あはははは。
そーだ。ただ待ってるだけの人間共なら、間違いなくこの国は腐敗している。
俺をガッカリさせないでくれ!
液晶の中で震えている人間たちに向かって、黒い人影が、大きな声で言った。
むろんその声は大人たちや子供たちの耳に届くはずもない。
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