5-2. ああ

 絶叫する孝彦くんを止める術が分からなかった。

 間違いない。間違いなくかつて私を苦しめた、あのなのだが、あの時と違うのは、この呪いは人に移るということだった。現に呪いは私から孝彦くんに転移し、今は彼を痛めつけていた。おまけに孫の緑逸も意識不明、後に残された私と嘉穂はただ慌てるだけというありさまだ。


「嘉穂……嘉穂!」

 記憶をたどり、微かな期待を賭けて嘉穂に頼む。

「お前は私に触っても何もなかったな?」

「えっ、はい……」

 私が激痛に襲われた直後、嘉穂は私を助け起こした。嘉穂は間違いなく私に触れた。しかし嘉穂は激痛に襲われることなく、今もしゃんとしている。孝彦くんは私に触れた瞬間に絶叫したが、嘉穂は平気なのか……? 


「試しに、触ってみろ」

 私の指示に嘉穂は戸惑う。

「触ってみろ。孝彦くんに」

 しばしの逡巡の後、嘉穂は静かに頷いた。

「孝彦さん……」

 苦痛に悶える孝彦くんを、嘉穂は丁寧に助け起こそうとした。大柄な彼をどう支えていいのか混乱している様子だが、しかし嘉穂には特に痛みに襲われているような様子はない。


「女か? 女は平気なのか?」

 そう思い、私は大声をあげた。

「藤! 藤! すまない、来てくれ!」

 私の声に応じて、この家で長いこと働いてくれている家政婦の藤がやってきた。途中からこの喧騒に気づいたのか、少し慌てた様子で来てくれた。


「すまん、あの呪いだ」

 呪い、の言葉でピンと来たのだろう。藤の顔が緊張で凍った。

「今度のは人に移るらしい。女は平気なようだ。頼むから嘉穂と一緒に孝彦くんを支えてくれないか。私は緑逸を……」

「承知しました」

 藤が速やかに動く。ほとんど押しつぶされそうな嘉穂を支えるために、孝彦くんの肩に手を添えた。しかし藤が孝彦くんの体に触れた、その時だった。


「ぎゃあああああああっ」

 藤が悲鳴を上げた。驚いて私は、緑逸を抱く手を止めて彼女の方を見た。

 そこにはケロッとした顔をした孝彦くんと、悶絶し、絶叫する藤とがいた。嘉穂は相変わらず平然としていて、何が起きたのか、とにかく理解しかねる顔をしていた。


「どうした?」

 私が叫ぶと藤が叫び返してきた。

「ああああああああ! 痛い! 痛い!」

「痛い? 痛いだと?」

 事態を理解するのに時間が必要だった。しかし、しかしどうやら。

 間違いない。藤にあの呪いが移った。だがどうして? 藤は女なのに、どうして呪いが……。

「何だ? 何が条件だ?」

 私は叫ぶ。叫んでも何も好転しないことは分かっていながら。

「女なら平気なんじゃないのか!」


「いだあああああい! いだあああああい!」

 藤が全身を引き攣らせて暴れ回る。私は手を貸そうと思ったが、あの痛みを思い出すとつい動けなくなってしまった。孝彦くんも同じようで、どうにかしたい顔はしていたが手は出せないようだ。私は嘉穂に告げる。


「嘉穂! 藤に触ってみろ」

「えっ……」

「触ってみろ!」


 私に強く言われると、嘉穂は恐る恐る、のたうち回る藤に触れた。

 まるで焼けた栗にでも触るような手つきだったが、しかし嘉穂は藤に触れた。嘉穂は無事だった。


「と、とにかく嘉穂は平気なんだな」

 私は嘉穂に指示を飛ばす。

「孝彦くんより運びやすかろう。藤を連れて隣町の稲荷に行くぞ。嘉穂、藤を頼む。孝彦くんは車を」

 藤、大丈夫か。そう訊くと彼女は唇を噛みしめながら、「お産の苦しみよりはましでございます」と言ってのけた。しかしそれが理不尽な苦痛であることには変わらないようだった。


「急げ! とにかく隣町の稲荷へ」

 私の指示で各々が動いた。隣町の稲荷へは、四十分後には着いた。



 神社に着くなり私を出迎えたのは、三十代くらいの眼鏡をかけた男性だった。彼は鳥居の近くで待ち構えていて、車から出る私たちを出迎えるように飛び掛かってきた。


「お前か?」

 どこの誰とも知らない彼にお前などと言われる筋合いはなかったのだが、しかし彼は鬼気迫る顔で私に飛び掛かって来て、私の胸倉をつかんだ。私の背後には藤を支える嘉穂がいた。緑逸を抱いた孝彦くんが、すぐさま私と眼鏡との間に割って入った。

「何をするんですかっ」

 しかし眼鏡の男性は怯まず私に食いついてきた。

「お前は、お前は美咲が……美咲が……」


「狐井くん。おやめなさい」

 すると眼鏡の背後から、この場に似つかわしくないほど穏やかな声が聞こえてきた。後になって分かったのだが、これは決して穏やかなのではなく、声の主が弱っていたがために小さな声にならざるを得ないだけのことだった。

 声の主は神主だった。私が頼り、力を借りようとしていた神主、受川実光さんだった。鳥居の傍に静かに立ち尽くし、こちらの様子を見ている。


「その方たちは美咲さんのことについては知らないんだ」

 受川さんの声に、眼鏡の男がぐっと唇を噛む。

「美咲さんのご意向だ」

 受川さんの言葉に、眼鏡は拳を握って一歩下がった。私は背後に控えた藤と、孝彦くんに抱かれた緑逸とを示した。

「受川さん。また以前の呪いが……呪いが……」

「ええ、存じておりますよ」

 今頃になって気づいたのだが、彼は白い鳥居にもたれかかりながら私たちの様子を見ていた。どうやら立っているのもやっとの様子だった。

「本殿へどうぞ」

 受川さんはよろよろと私たちを神社の奥へ通した。何者か分からない眼鏡が、さも当然かのように私たちの後から神社の本殿についてきた。



「天邪写」

 受川さんが静かに応じた。彼はすっと目線を投げて、脇に控えた、狐井とかいう眼鏡の男性を見つめた。どうやら無言のうちに問うているようだった。

「知らない。僕も聞いたことがない」

 しかし眼鏡は首を横に振った。


「骨董屋で見つけたと言いましたね」

 受川さんが静かに続けた。

「信頼のできるお店でしたか」

「懇意にしている店です……何度も取引をした」

「店の人に恨まれているようなことは?」

「私の知る範囲ではないです。私は常連のはずだ。喜ばれる義理こそあれ、恨まれるような理由は……」


 この間も、藤はほとんど死んでしまいそうなほど荒い息で涙を流していた。緑逸の意識も戻らない。


「狐井くん、僕はもう、かなり疲弊しているんだ。助けてくれないか」

 受川さんに言われて眼鏡の男性が嫌そうな顔をしながらも一歩出た。受川さんが指示を出す。

「九字は知ってるね。あれなら霊感のない君でもできるはずだ。それで多少ましになるはず」


 すると眼鏡の男性が藤に近づき、震える彼女の顔をぐいっと持ち上げると、額にすっすっと、盤の目のような線を引いた。


「臨兵闘者皆陣列前行」

 眼鏡がつぶやく。何だか聞いた覚えのある呪文である。

「『臨兵闘者皆陣列在前』では?」

 博学な孝彦くんが口を挟む。すると眼鏡は鬱陶しそうに、「黙ってろ」とだけ告げた。孝彦くんが閉口すると、受川さんが困ったように笑った。

「本来は『臨兵闘者皆陣列前行』なのです。日本に来るときに最後の二字が『在前』になったみたいですね」

 受川さんが小さく息を継ぐ。

「……少し、よくなったのでは?」

 藤の様子を見る。先程まで涙を流していた彼女が、多少ハッキリした目をこちらに向けるようになっていた。

「い、いくらか、ましでございます」

 凛として藤が告げる。

「先程よりは、ようございます」


「そこのチビにも同じことする」

 眼鏡がすっと緑逸を抱く孝彦くんの傍に行った。

「寝かせろ」

 孝彦くんが渋々眼鏡の指示に従う。寝転がった緑逸の額に、眼鏡がまた幾筋もの線を引いた。

「臨兵闘者皆陣列前行」

 途端に、まるで朝目覚めるかのように。

 緑逸が目を開いた。それから、何か楽しみにしていたことがあるかのようにむくりと起き上がった。小さな口でぽつりと告げる。


「天邪写」

 きょろきょろと辺りを見渡す。

「天邪写はどこ?」

 それから緑逸はまるで、失くしたおもちゃを探すかのように天邪写を求め始めた。

「天邪写、天邪写」

「駄目だな」

 眼鏡が困ったような声を出した。

「九字でも呪いを押さえ込めてない」

 しかしその間も、緑逸は立ち上がり、ふらふらと、歩き出そうとした。

「天邪写は?」

 私はただ震えて緑逸を抱いた。

「神主さん、受川さん」

 この事態をどうにかしてほしくて、私は必死に頼み込んだ。

「どうか、せめて緑逸だけは、どうか……」

 しかし受川さんも、体を起こすのがやっとのようで、喘ぎ喘ぎ、こう返してきた。


「大丈夫ですよ……大丈夫ですから……」

 しかしどう考えても大丈夫じゃないことは明らかだった。誰も彼もが疲弊していた。ずたずただった。我々はただのボロ雑巾当然だった。

 すぐ傍で、藤がああ、と嗚咽を漏らした。

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