『天邪写』

5-1. 再び

 春風堂には常々世話になっていた。

 古今東西様々な珍品を扱っている骨董屋だ。主な品は絵や書。壺なんかもたまに仕入れている。

 私は骨董に目がないというわけではないが、それなりに気には留めていた。先祖から引き継いだ蔵を整理していく内に見つかった品々をこの春風堂に鑑定してもらうことで一時の収入を得たり、また家に飾るための品を見繕ってもらって購入したりしていた。


 天邪写ともその春風堂で出会った。

「天邪」という化物を写し取った絵、ということらしい。古ぼけた茶色い和紙に、水墨で、だが濃密に、一匹の化物の絵が描かれている。


 天邪。

 丸い、坊主のようなぽってりとした頭。黒く塗りつぶされている。

 そしてその中央に鎮座する異様に大きな一つ目。その目はじっとこっちを見ているというよりは、手元の何かを凝視しているように見える。

 蜘蛛のような、丸く膨らんだ胴体。黒毛がびっしり生えていて、色艶がある。

 鋭く尖った足が六本。地に刺さりしっかり体を支えている。

 そしてここからが少し、異様なのだが。

 蜘蛛は足が八本ある。八本ある内の六本は、先述の通り尖った形をしていて地に刺さり、体を支えている。

 では残りの二本は。

 人の手の形をしているのである。女の手のように細い腕がすっとこちらに延ばされていて、何となく物乞いをしているというか、何かを欲しがっているような手つきをしている。どうやら先述の一つ目は、この手元を凝視しているらしい。


 不気味ではあった。何となく、佐脇嵩之の『うし鬼』に似ている。孫の緑逸が見たら怖がるだろう。しかしとても心を惹かれた。何だか運命の出会いを果たしたような、そんな気持ちになる絵だった。


「おや、それに目をつけられましたか」

 春風堂のご主人がにこやかに近づいてくる。着物姿の物腰柔らかな中年男性。いや、髪を短くまとめた女性だと言われても納得できる、妙な艶のある男。

「先日自宅の蔵を整理したという方が、わざわざこちらまで売りに来てくれましてねぇ……不気味な絵なんですが、ちょっとこれまで見たことがない系統だったので、もしや高値の付く絵なんじゃないかと、知り合いに聞いて回ったんですけどねぇ」

「へぇ」私は唸る。

「どうです? 高値付きそうなんですか?」

「それがまぁ、このくらい」

 ご主人が指を立てる。私はぎょっとした。この絵が、そんな……? 

 しかし言われてみればそれだけの価値はある絵のように見えた。いつ頃のものだろう。私の鑑定眼が正しければ江戸初期か、安土桃山まで遡るか……。


「ですがねぇ、何分こんな絵ですので、買い手がそもそもいないのですよ。何だか気味が悪いので、早いところ引き払いたいんですが、なかなか買ってくれる人がいなくてねぇ……」

 いくらか引いて売ろうかと思ってるんですけど。

 春風堂のご主人の放ったその言葉が不思議な魔力を持って私に迫った。耳に木霊するかのような言葉だ。いくらか引いて。いくらか引いて。いくらか引いて。いくらか引いて。


「い、いくら引く気です?」

 私の問いに、ご主人は答えた。

「これくらい」

 ご主人がまた指を立てる。

 決して手の届かない額ではなかった。まぁ、間違いなく妻の恵美子からは怒られるだろうが、何だかんだ恵美子はもう私の趣味については諦めているところがあるし、一、二カ月大人しくしておけばあれもその内忘れることだろうと、そう思うことのできる金額だった。

 しばし悩んだ後、私は家の蔵にあった壺をひとつふたつ売って、その金でこの天邪写を買うことにした。

 絵は三日後、私の家に届いた。



 こういう骨董品は大抵そうなのだが、管理が厳重なので、購入者の手でそのまま持って帰るということはせず、業者が購入者の家に運び入れ、陳列することが多い。

 今回もそうしてもらった。さすがに家の中に堂々と飾るのは躊躇われる絵だったので、北の廊下、家族がほとんど使わない部屋に面した廊下に、この天邪写を飾ってもらった。


 北の部屋は私の骨董品のコレクションを飾るための部屋である。

 その入り口に飾ったこの化物の絵は、何だか宝物庫を守る番人のように見えて、頼もしく思えた。


「天邪写、か」

 絵師の名は落合暁斎というらしい。聞いたことのない名前だったが何でも火災現場や殺人現場にいち早く赴いてその様子を絵にし、当時の報道機関(瓦版などだろうか)に売って生計を立てていた人物らしい。ある意味、報道カメラマンみたいな職業の人間なのだろう。


 そんな報道カメラマンが描いた、現ならざる生き物。

 もしかしたら当時本当にこんな見た目の生き物が生まれたのだろうか。例えば見たままに蜘蛛。一つ目で、前腕がどこか人の手に似ているような奇形の蜘蛛が、大量に見つかったとか、考えられないくらい大きな個体が見つかったとか、そういう事情があって、「こういう奇妙な生き物がいたぞ」という報道の意味で、この天邪を写し取ったのだろうか。


「天邪」

 口にしてみる。何だか鬼の名前のように聞こえなくもない。

 業者の仕事も満足のいくものだった。廊下という狭い空間に飾ったにも関わらず、何だか見栄えのする出来合いだった。思わず見入る。


 ふと、気づく。

 絵の下方。ちょうど、天邪の二本の腕が伸びた先。

 薄黒い染みがあった。染み、と言うには少し濃い、まるで吐き捨てられたガムみたいな、粘着質な何かを連想させる一点だったが、もしや業者が運搬する時に着いた何かかと思い、触れてしまった。


 そう、触れてしまった。


 異変は一瞬で起きた。


「ぎゃああああああああああ!」


 悲鳴が出る。痛い! 痛い! 体中が内側から……引きちぎられる……! 

 気が狂いそうな激痛だった。神経という神経が破裂しそうだ! 金切り声で悲鳴を上げている! 

 骨髄を鉄釘で引っ掛かれるような激痛……! 痛みのショックで気持ち悪くなってくるくらいの痛さだった。くらくらする。息が止まる。でも生きようと、体は生きようと必死に痛みを抑えにかかる。しかし無駄だった。痛みは全身を駆け抜け、まるで熱した油に頭から突っ込まれたような、強烈激烈な痛みがバリバリと……。


「お、おぼ……」

 あまりの痛さに脳が思考を頭に留めておくことができない。口をついて言葉が出てくる。

「おぼえがあるぞぉぉぉぉぉ……こっ、このいたみぃぃぃぃぃぃぃ!」


 私の悲鳴を聞いて家の者が駆けつけてきた。翻筋斗もんどりを打って倒れている私を見て、まず真っ先に娘の嘉穂が、私を支え起こした。しかし私は暴れる。あまりの事態に嘉穂は、救急車を呼ぼうとした。しかし私はそれを止めた。


「きゅう、きゅうきゅうしゃじゃ、ないいいいい!」

 叫ぶ。叫ばないと痛みを堪えきれない……! 


「いなりだ……! となりまちのぉぉぉぉぉ!」

「稲荷……」

 その一言で嘉穂も察しがついたのだろう。

 真っ先に婿の孝彦くんを呼んで、車を手配してくれた。激痛にのたうち回る私を、力のある孝彦くんが、車に乗せるために、ぐいっと担ぎ上げようとした、その時だった。


「うっぐあああああああああああ!」

 私の体から、さっきの痛みが嘘のように消えてなくなった。かと思うと今度は私を担ぎ上げようとしていた孝彦くんが絶叫しながら悶絶していた。まるで目打ちをされた鰻のように、体をくねらせ、飛び跳ね、暴れている……。すぐに察した。痛いんだ。痛がっている。


「だ、大丈夫か孝彦くん……」

 と、私が彼の体に触れようとした、その瞬間。

「触らない方がいいよ」

 本当に、いつの間にやら。

 孫の緑逸が近くに来ていた。苦悩する父を見ても顔色一つ変えず、むしろ水溜りで溺れる蟻を眺めるような顔で、淡々と、こう告げた。

「触らない方がいいよ。触ると移るよ」

「う、移るとはどういう……」

「てんじゃしゃ」

「て……?」

 すっと、緑逸は私の背後を指差した。私は振り返った。

「てんじゃしゃ……天邪写」

 緑逸の指差した先。

 不気味な妖怪。手を差し伸べる。

 天邪を写した絵、天邪写がぶら下がっていた。差し伸べられた両手の間に、あの黒い染み。


「天邪写……」

 私がそうつぶやくと、背後で積み木の崩れるような音がした。私は再び振り返った。

 孫の緑逸が、糸の切れた人形のようにぐったりと、床に伏していた。

 近くでは孝彦くんがのたうち回っていた。

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