ブレークポイント

愛してないの? 

〈七尺四方の箱の中に獰猛な犬と弱った狐とを閉じ込め、七日七晩置く。犬は狐を苛め抜き、やがて飢え、狐を食う。八日目の朝に犬を殺し、残った狐の死骸を見て、頭が残っていればよしとする。この頭から目玉をくりぬき、塩、竹炭、殺した犬のはらわたの一部、狐の尾の毛の先と合わせ、眼窩の窪みを擂鉢の代わりにして目玉を潰す。右回りに四十、左回りに三十擂り、混ざった粘液を用いる〉


 ……おおよそ現代語訳するとこうなる。


 蠱毒。動物を使った呪術の一種。有名なのは様々な虫を壺の中に入れて共食いさせ、生き残った一匹を祀って心願を成就させるというもの。犬神や猫鬼もこの一種。そして大陸中国の東北部のある地方、ある家系にのみ伝わる「狐眼」という呪術が、平安時代、唐人街が出来た頃に日本に伝わったとされる。


 狐眼。

 犬に狐をいじめさせ。

 この世を恨んで死んだ狐の目を潰し。

 自身を食らった犬のはらわたと混ぜ。

 その眼窩を擂鉢の代わりにして調合する呪薬。

 眼には「穴」という意味があり、眼窩を使うことに意味があるらしい。


 この忌まわしき呪いが、美咲を死に追いやった。

 先述の通り呪物は粘液である。様々な用途に用いられる。

 例えば、狐眼を与え成長させた苗を植えて、その土地そのものを呪う。

 例えば、家を作る時に壁や床に塗り込む。その家自体が強力な呪物になり、入ったものを誰彼構わず呪い続ける。

 より、直接的に呪いたければ。

 この粘液を人に食わせる、飲ませる、すりこませる。

 食事に混ぜ、飲み物に混ぜ、薬に混ぜ、使用する。そうすることで呪いが骨の髄、魂にまで至り、これを解くには強力な力が必要になる……。


 ある日、美咲のいる神社にやってきたのは海辺の町の地主だった。

 蔵にしまってあった古い酒を、秘蔵の品だと思って口にしたらしい。

 異変はすぐさま訪れた。どこかは分からない。とにかく内臓が針を刺したように痛い。

 すぐに病院に連れていかれたがどこも悪くない。ただ当人は狂ったように痛がる。鎮痛剤を投与されてもなお痛がり続け、その異様な姿に危機感を覚えた家族が、以前お祓いを頼んだ受川くんの神社にその地主とやらを連れていったらしい。


 危険なことはすぐに分かった。敏感な受川くんだ。街の中に地主が入ってきた途端、失神したらしい。巫女を勤めていた美咲が彼を支えた。美咲も何かを感じ取っていた。


 地主は神社に来るとより一層苦しみ始めた。しかし家族としてはもうここ以外に頼れるところがない。必死に頼んだ結果、受川くんはある方法を用いた。海を越え、大陸の天界に繋ぐが故に一世代につき一回しか使うことを許されていない秘術を用いたのだ。神社が祀る神様、すなわちあの方……狐仙に、呪いの正体を見極めてもらった。


「狐眼じゃ」

 あのお方は短くそう告げたらしい。

「余の力を用いる」

 かの呪術はあの方の力を借りて行われるらしい。

 そしてあの方はこの時、神様と人間との間にある決まりについても教えてくれた。


「我々は対価を払えばそれを与える」

 つまりそれは、地主の家系を恨んだ誰かが、狐眼、すなわちこの世を恨み苦しんだ狐の哀れな魂と引き換えに、呪いの力を手に入れている、そういうことを意味していた。


「でも逆に、そういうことなら」

 美咲が手を挙げたらしい。

「命がかかった呪いなら、命を捧げれば解けるのですね」

「左様」あの方は厳かだったらしい。


 そこからが問題だった。どの命を対価に、呪いを解くのか。

 そこらの虫の魂を捧げても意味はない。この世を呪い、苦しみ、恨んだ魂の対価としての呪いなのだ。それなりに価値のある魂である必要がある。

 まず、家族が申し出た。最長老の老婆が、もう先も長くない、と自らの魂と引き換えに地主を救うことを申し出た。


「足らんの」

 あの方は無碍だった。

 それから家族数名が申し出た。命とは言わなくても、腕や脚、目や耳、どれかを捧げる。それでも足らないか、と。


「足らんの」

 あの方は無碍だった。


「狐眼と同じく蠱毒を用いた魂か、それ相応の数の生き物の魂か、聖なる血筋の者の魂か、神事に携わる者の魂か……」

 あの方は丁寧にも、選択肢を用意してくれたのだ。


 それからだった。美咲が決断をしたのは。


「私の魂を対価に払う」

 彼女はそう告げた。その時僕はちょうど詐欺の手口に関するルポライターをやっていて、さる出版社で、原稿を書いている途中だった。家に帰ると、白装束に身を包んだ美咲が待っていた。彼女は経緯を説明した。


 高貴な魂を対価に払う必要がある。受川くんは窓口だから彼の魂を使うわけにはいかない。実家が神事に携わる家系で、なおかつ巫女を勤めている私の魂なら対価に見合う。


 当然だが、僕は反対した。

「つい十時間前まで顔も知らなかったような奴のために命を賭けるのか?」

 すると美咲は笑った。

「賭けるよ。だって白治くんのいる世界をよくしたい」

 この世界をよくするために働きたいの。彼女は真っ直ぐな目でそう訴えてきた。

「駄目だ。絶対させない」

 僕は断固反対した。何が何でも彼女を殺させない。そう思っていた。


 愛してないの? 

 彼女が言った。脈絡のない言葉だった。

「プロポーズしてくれる時に言ったよね」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は絶望した。

 僕は愛とは存在の肯定だと思っていた。騙し騙される世界の中で、例え自らを切ってもなお笑顔でいられるそんな思いは、間違いなく愛情と言えるだろうと、そう悟っていた。だから僕は、彼女と結ばれる時、その思いを告げた。


 ――愛しています。僕はあなたの全てを肯定します。これから先何があっても、僕はあなたの意思を尊重します。だからどうか、僕と――。


 僕たち二人にとって、肯定とは愛を意味していた。彼女は肯定を求めていた。


「何で……どうして……どうして美咲が死ななきゃいけないんだ」

「助けてあげないと。あの人がこのまま、誰にも手を差し伸べられず死んだら、その魂がまた、誰かにひどいことをするかもしれない。負の連鎖は断ち切らなきゃいけない。そして私は、あなたがいるこの世界に、負の連鎖を残したくない」

「言いたいことは分かる。言いたいことは分かるよ。でも他に方法があるだろう。何でそう、短絡的に死ぬとか言うんだ」


「死は別離じゃない」

 美咲は笑った。笑って僕に触れた。

「ほら、いつでも傍にいる」

 その言葉が決め手だった。僕は彼女の手を握った。

「失敗するなよ」

「大丈夫」

「見届けるからな」

「辛くない?」

「辛いよ。辛いに決まってるだろう」

「ごめんね」

「謝るなよ」

「でも、ありがとう」


 その晩、美咲は実家に状況を説明した。親友の砂越さんには、怖がらせないよう、でも漠然とどうなるかだけは明確になるよう、やんわりと伝えた。それから美咲は僕と二人で受川くんの神社に行った。僕はこの時初めて彼と知り合った。僕は彼を一目見るなり、思いっきりぶん殴った。ひ弱な彼は一撃で倒れた。僕はそんな彼を、馬乗りになって殴り続けた。彼はそれを黙って受け入れた。


「恨んでください」

 血だらけになった受川くんの言葉は今でも忘れない。

「恨んでください。全て引き受けますから」

 僕は狭い神社の汚い地面に蹲りながら告げた。

「どうか美咲を……美咲を……苦しませずに……」


 それから受川くんと美咲が本殿の中に入っていった。その後のことは知らない。ただ、何時間待っただろう。夜が明けそうになった頃、本殿の戸が開いて。

 僕に殴られ血だらけの受川くんが中に入るよう示してきた。そこには綺麗な美咲が横たわっていた。


 当然、人が死ねばそれなりの手続きがいる。医師が診たり、警察が動いたりする。霊感も何もない僕の担当は、どう考えても超自然的な美咲の死を、さも科学的な、不運な死に見せかけることだった。医師には心臓病の兆候があったかのような話をでっちあげたし、警察にも美咲の体調不良についてありもしない証言をした。元より嘘をつくのには慣れていた。


 そうして美咲が死んでから、僕は空っぽになった。

 来る日も来る日も美咲のことを考えた。反魂香のことを知ったのは偶然だった。

 日本では陰陽師などを題材にした作品や、落語などの文化で触れられることがあるらしい。元は中国の伝承だそうだ。

 僕は詐欺に関わる仕事をしていた。中には霊媒商法をしている人間もいる。そしてその中にはもいた。僕は本物を伝手に反魂香の材料を手に入れた。そして美咲の姿を見た。


 反魂香は神様を介さない契約の形らしい。やくざから金を借りるようなもので、事前の審査や信用なんかは一切いらないが、代償が大きかった。反魂香を使ってから、僕は行く先々で美咲を見た。

 妙齢の女性が全て美咲に見えるのだ。街中で、電車で、それどころかテレビの中の女性さえ、全て美咲に見えた。不思議なことに、あんなに会いたかった美咲なのに、日常が美咲で溢れると僕は怖くなってしまった。

 

 受川くんに呼び出されたのはこの時だ。よくないことをしてますね、と。

「美咲さんの魂が苦しみます」

 その一言で僕は自分の行いを深く後悔した。

「反魂香の契約を打ち消す方法を探しましょう。このままだと狐井さんにとっても美咲さんにとってもよくない」

「……あんたのところの神様とやらに何とかしてもらえないのか」

「秘術は一世代につき一回だけです。しかし唐人の神様ですから、方法はあるでしょう」

 そうして受川くんが提案してきたのが、中国の血が濃い日本人、及び狐仙について詳しい中国人を探すことだった。


 ウー、つまり巫海石ウーハイシ―とは、この時知り合った。

「狐仙ですね。家で祀ってますよ」

 何と言うことはない、という感じでウーは頷いた。僕はようやく狐仙に繋がったことよりも、ウーの流暢な日本語に驚いた。帰化してると知って、納得した。

「願いを通す方法も、多分家族に聞けば分かります」


 そういうわけで僕は狐仙に御目通しが叶った。僕は願った。

「美咲の魂を、あの世へ」

「其方はかつて、大陸で余の同類を助けておるな」

 あの方は厳かだった。「同類を助けた」のがどのことを言っているのか、割と最近まで分からなかったが、しかし僕と美咲は新婚旅行で行ったハルビンで、罠にかかった狐を地元の人間に気づかれぬよう逃がしてやったことがある。どうやらそのことを指しているらしい。

「よかろう、話を聞いてやる。対価は?」

 この時僕の腹は決まっていた。ウーと話し合って決めていたのだ。それはかつて、美咲がしていたことだった。

「迷える魂を彼方へ送ります」

 僕に霊感はなかった。だが欺術があった。霊も元は人だ。生き物だ。ハッタリが利く。トリックが使える。騙してでもいい。あの世に導けば、それは迷える魂のためにも、僕たちの……僕と美咲のためにもなる。


 そして一人、あの世に送った。それで解決するはずだった。しかし反魂香は、やはり邪道だった。

 しばらくするとまた美咲を見るようになったのだ。僕はウーを介してまた狐仙に会った。


「其方が呼んでおる」

 原因は僕にあるらしかった。

「また送るのは構わんが、対価は?」

 僕に選択肢はなかった。また、迷える魂を送るしかない。


 ウーと受川くんの手配で、僕は狐の置物をもらった。簡易的にだが、あの方と繋がれるようになるらしい。そうして僕は受川くんの下で、ゴーストバスターズの真似事をするようになった。幽霊相手にハッタリ、は意外とうまくいった。僕は常に魂を払い続けることで常に美咲をあの世に送り続けているはずだった。美咲は自分の魂と引き換えに狐眼を封じたし、僕は彼女を送り続けるし、全ては丸く収まるはずだった。

 そう、はずだった。


 しかし今、また触凶が報告された。狐眼が見つかったことを意味するし、狐眼が発動したことをも意味する。


「美咲」

 僕は写真を見る。僕と美咲が初めてのデートで撮った写真。お互いまだ若くて、メッセージのやりとりにいちいちドキドキしていた頃の写真。

 だが、その写真が。


 美咲のところだけ歪んでいる。まるで時空の歪があったかのように、美咲の顔が飲み込まれている。


 よくない。よくないことが起きている。


 ――この世界をよくしたい。

 あの時美咲が言ったことが、今は漠然と分かる気がした。


 触凶。

 何があっても、僕が止める。

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