2-2. 神社の狐に

 目を覚ました。

 気が付けばばあちゃんちのソファだった。目をパチパチさせる。寝てた……? 

 ぐっしょりと寝汗をかいていた。暖かくなってきたとはいえまだ三月だ。寝汗をかくような季節じゃない。なのに、こんなに。

 ……まぁ、あんな夢を見たら無理もないか。幽霊に突撃訪問される夢だ。おっそろしい夢だった。そう考え、立ち上がる。


 ばあちゃんが病院から帰ってきたのは、私が目覚めてから三十分ほど経ってからだった。私は何となくコーヒーを淹れてお菓子をつまんでいた。しかし帰ってくるなり、ばあちゃんが訊いてきた。


「ピンポンのところ……」

「ピンポンのところ?」

 インターホンのことだろう。

「汚れとった。後で拭いといてくれるかい」


 背中に汗が流れた。

 でもでも、まさか。

 いやいや、そんなはずはない。

 ただ何かで、汚れただけかもしれない。

 そういうわけで雑巾を持って玄関に出た私の目に飛び込んできたのは、血のような赤黒い何かで汚れた、インターホンのボタンだった。それが血である確証はなかったが、しかし錆色のそれは、やっぱり血のように見えた。頭の中で必死に否定しながら雑巾で擦る。これは血じゃない。これは血じゃない。これは血じゃない。これは血じゃない……。

 だらだら汗を流しながらボタンを拭いた。拭う度にチャイムが鳴る。ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン……。



 ばあちゃんは毎日決まってお出かけする。

 それは散歩だったり、病院だったり、近所の集会だったり、様々だ。

 あの一件以来、家に一人でいることが不安になった私は、ばあちゃんについて出かけることが多くなった。おかげでこの界隈の素敵な景色を知れたり、集会所や病院にいる老人たちに顔を覚えてもらえたりして、何となく住みやすい街になったけど、それでもあの恐怖は消えなかった。


「遊びに来たよ!」


 その言葉にびくっとする。何でもない。近所のおじいちゃん(佐伯のおじいちゃん)が集会所にひょっこり顔を出した時に口にした言葉だったのだが、私の耳にはあの時の言葉に聞こえた。いい加減嫌になる。


 そんな風に「一人でいる時間」をなくしていたある夜のことだった。ばあちゃんが寝て、私は一人、部屋で漫画を読んでいた。ふと喉が渇き、台所に行き麦茶を飲もうと思った。真夜中十二時。家も外も暗かった。闇に滲むような明かりの中、麦茶を飲む。


 不意にチャイムが鳴った。


 まず音に驚いた。こんな夜更けの訪問である。手にしていた麦茶のコップを落としそうになった。そして、次にあの光景が頭をよぎった。ぐちゃぐちゃの頭、ズタズタになった顔で、ぴょこんと飛び跳ねた……。


 いや、でも、とりあえず。


 この家のインターホンにはカメラがついているのだ。ひとまずそれで様子を見るのでも、いいではないか。もしかしたら酔っ払った近所のおじいちゃんが(佐伯のおじいちゃんあたりそういうことはありそうだ)うちを自分の家だと勘違いして鳴らしているのかもしれない。そうだとしたら助けてあげないと。春になろうとしているとはいえ、まだ夜は冷え込む。ドアの外や道路で眠りでもしたら、大変だ。そう思って、受話器のところに行った。そしてカメラの映像を見た。


 誰もいない。

 間違い……? そう思う。しかしそう思い始めると私が聞いたチャイムの音さえ幻聴だった気がしてきて、首を傾げたくなる。気のせいだったのかな。いやでも気のせいなんてことは……。そう、自分を疑いながら、受話器のところを離れた、その時だった。


 ピンポン。


 チャイムが鳴った。その場で固まる。意識が背後に引っ張られる。

 やばい。幻聴じゃない。幻聴じゃない。頭の中がいっぱいになる。そして意識が引っ張られるまま、おそるおそる振り向いた。カメラの映像。誰もいない。誰も映っていない。


 呼吸が浅い。心臓の音が聞こえる。汗で指がぬめる。全身が針金で固められたようだ。しかしそれでも、私はじっとカメラの映像を見ていた。すると、追い打ちをかけるように。


 ピンポン。

 また鳴った。

 ピンポン。

 また鳴った。

 ピンポン。

 また鳴った。


 どうしてよ。どうしてばあちゃん起きてこないの? そう思いながら狂ったように鳴るチャイムに怯えていた。しかしその間もチャイムはひたすらに鳴り続ける。ピンポン。ピンポン。ピンポン、ピンポン……。

 やがてそうすることが決まっていたかのように、私の体は動き出した。受話器を手に取る。そして応じる。


「はい……」

 すぐさま。

「遊びに来たよ!」

 沙織の声だ。

「遊びに来たよ!」

 間違いない。あの沙織の声だ。

「遊びに来たよ!」

 声が出ない。

「遊びに来たよ!」

 どうしよう。

「遊びに来たよ!」

 やめてよ。

「遊びに来たよ!」

 助けて。どうしよう。

 でも続く。沙織の声。間違いない。彼女の声。


「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」

「遊びに来たよ!」



 チャイムが鳴る度に怯えるようになった。

 昼間は大抵、ばあちゃんが出る。私が出る必要はない。だが出なくても怖い。

 夜中。ただひたすらに怖い。この間の夜のようなことがあったら。そう思って早めに寝るのだが眠れない。時間だけが過ぎていく。一秒ごとに積み重なる恐怖。


 精神的な限界はすぐに来た。ダメだ。このままだと頭がおかしくなる。既におかしくなっているかもしれない。


 大体おかしいのだ。昔の親友の幽霊が「遊びに来たよ!」なんて話、誰が信じるというんだ。仮に信じたとして、私は頭がおかしくなったのだと思われて病院送りだ。だってこのご時世に幽霊騒ぎだよ? そんな、馬鹿げた話あっていいわけ……。


 と、考えてから思いつく。

 誰かのいたずら? そうだとしたら、許せない。沙織の名前を使って、沙織のフリをして、私を脅かし、こんなになるまで……。


 そんな微かな憤りを覚えていたある日だった。ばあちゃんは近所の集会に出かけて、私はただ寝坊して目覚めた朝十時のことだった。

 チャイムが鳴った。

 待っていた、とばかりに私は玄関に突撃した。誰かがいたずらしているのなら、この場で取り押さえてやる。そう思って、玄関を思いっきり開けようとした、その時だった。


 私の背後で、電話が鳴った。

 それはそう、まるで、いつかのように。


 気勢が削がれた私はおそるおそる居間の方を振り返った。狂ったように鳴るチャイム。けたたましく鳴る電話。どちらも私を急かしてくる。パニックになる。頭がいっぱいになる。どっちかに対応しないといけない。どっちかには出ないといけない。でもどっちにも出たくない。だんだん体が硬直してくる。やがて体が石みたいになった頃、私は何かに導かれたように、ふらふらと居間に戻った。鳴り続けるチャイムを無視して、おそるおそる電話に出た。すぐに聞こえてきたのはばあちゃんの声だった。


「駄目よ。それに出ちゃ駄目」

 どうしてだろう。どうしてばあちゃんは……。

「待ってなさい。すぐに帰るから」

 しかし、そんなことはどうでもよくって。

 私はばあちゃんの声を聞いた安堵のあまり、泣きそうになる。

「ばあちゃん……」

「大丈夫。大丈夫だからね。すぐ帰るからね。待っててね」

 その後のことは、よく覚えていない。


 チャイムはいつの間にか鳴り止んでいた。しかしそんなことにさえ気づかず、私は居間でただぶるぶると泣き崩れていた。やがてばあちゃんが裏口から帰って来て、ああ、と声を出して私の肩を抱いてくれた。それから、震える私をテーブルに座らせると、私が落ち着くまでじっと、ただずっと、待っていてくれた。コップにあの、ばあちゃんの麦茶を入れて、ただ泣きじゃくる私のことを……。


 麦茶を一口二口飲んで、何となく気持ちが落ち着いてきた私は、やっとのことでばあちゃんに先日起きたこと、夜中に起きたこと、そしてさっき起きたことを話した。ばあちゃんはただ黙って私の話を聞いた後、私と同じように麦茶を一口飲んで、それからこう告げた。


「沙織ちゃんの幽霊に悩まされているんだね」

 首を傾げるような、頷くような、曖昧な返事を私はする。

 しかしばあちゃんは淡々と話を続けた。

「あんたが通っていた小学校の裏山に、お稲荷さんがあったのは覚えてる?」

 お稲荷さん、が子供の頃にたまに遊んだあの神社のことを指していることは、すぐに分かった。私は頷いた。

「あそこに行ってみなさい。きっと美広を、助けてくれるはず」

 私は縋るように訊ねた。

「お祓い? お祓いとか受ければ私助かるのかな?」

 しかしばあちゃんは小さく首を横に振った。それから告げた。

「友情は大事にしなさい。それがたとえ幽霊でも、友達を祓うなんて言っちゃいけません」

「でも、でもばあちゃん、私は沙織に……」

「友達は大事にしなさい」

「でも……」

 神社に行くってことは、そういうことでしょ? 

 混乱する頭で何とかそう訊いた私に、ばあちゃんはにっこり笑いかけた。それから、ずるそうな顔になって続けた。


「神社で狐に、会っておいで」

「狐……?」

「そう。会っておいで」

 ばあちゃんは小さく頷くと、指で狐を作った。それから古式ゆかしい女性らしく、小首を傾げた。


「神社の……コンさんに」

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