ブレークポイント
愛してないの?
「愛してないの?」
彼女に訊かれる。僕は答える。
「愛してるよ」
マグカップをひとつ、テーブルに置く。僕はコーヒーを飲む。平和な朝だ。ただ。しかし。
何かがおかしい。そう、薄っすらと、思う。テーブルの上にはいつの間にかトースト。しかし随分焦げている。手にあるマグカップ。でもその中のコーヒーが、泥なのだ。そこでおかしいことに気づく。じんわりと頭の中に何かが滲み始める。
「愛してないの?」
目の前の彼女が訊ねてくる。僕は自然に返す。
「愛してるよ」
自然に返した、はずだった。しかし声はどこか必死だった。目の前のこの状況に縋るように。何だかこの世界は、とても居心地が良さそうだから。でも。しかし。
「愛してないの?」
その声も濁っていく。
ああ、駄目だ。これはきっと……。
「愛してないの?」
彼女の声が僕を引っ張り込む。いいや、愛しているさ。愛しているとも。
「愛してるよ」
何度でも答えるさ。何度でも君に愛を告げるよ。いや。しかし。
「目を覚ませ」
不意に聞こえる、ハッキリした声。神々しささえ感じるような、ありがたいお言葉。この声には従うべきだ、と本能が告げる。
「目を覚ませ」
「どうして?」
しかし僕は訊ねてしまう。こんなに幸せなのに。こんなに大好きなのに。目を覚ませ、なんて。
「其方は眠りの底で我を失っておる」
だんだん意識がハッキリしてくる。
「其方の念が女を縛り付ける」
そうだ、そうだ、僕は、僕は。彼女は、美咲は……。
「其方が女の魂を彼方に送ってほしいと願ったから叶えたのじゃ」
そうだ、僕は鳥居をくぐった。いくつも、いくつも、いくつも……。
「心願成就は余の新しい力じゃ」
あの方の声がハッキリ頭に入ってくる。
「不得手でな。望むような結果を与えられぬかもしれぬ」
「困ります」
僕は返す。ハッキリし始めた、頭で。
「美咲を眠らせてあげてください。お願いします。お願いします」
あの方の声が聞こえる。
「では目を覚ませ。望むなら、望み通せ」
目の前に、赤い鳥居がひとつ、現れる。あの方が出してくださった鳥居だ。くぐらねば。僕は拳を握る。
「愛してないの?」
背後から、声が聞こえる。あの子の、妻の、美咲の、声。
それでも僕は振り向かずに告げる。きっと振り向いてしまったら、終わってしまうだろうから。
「愛してるよ」
背後の声は続ける。
「愛してないの?」
「愛してる。愛してるんだ」
僕は苦しい一歩を踏み出す。
「愛してるから、こうするんだよ」
「愛してないの?」
「愛してるんだ」
「愛してないの?」
「愛してるんだよ。やめてくれ、もう」
「愛してないの?」
「愛してるって……愛してるって……」
「もう幾許もない」
あの方の声。
「くぐるのか、くぐらぬのか」
「くぐります」
僕は意を決して歩き出す。背後の声が強くなる。
「愛してないの?」
「愛してるんだよ。愛してるからこうするんだ」
僕は覚悟を決めて鳥居をくぐる。
*
そして、目覚める。
いつものベッドの上。いつもの部屋。いつもの朝。
息が荒い。何百メートルも走らされた後のように。
キッチンへ行って、水をくむ。ゆっくりと飲む。息を整える。
こんな夢を見るくらいなら、いっそ眠れない体になりたい。
そうは思ったが叶わぬ望みだろう。元よりあの方は僕の望みをひとつ叶えている。あの方の力が、美咲の霊を彼方に置いたままにしてくれている。
「多分、時間が解決するから」
受川くんの言葉を思い出す。でも、でも僕は。
彼方と此方の間を行き来するのはきっと、苦しかろう。僕は美咲に苦しんでほしくない。だからあの方に頼った。あの方は望みを叶えてくれた。今、美咲は彼方でゆっくり馴染もうとしている。僕の思念で、また此方に呼び寄せてはいけない。
深呼吸をする。それから、ベッドサイドに置いた小さな机の上にある、狐の置物を見る。
「借りは返します。だからどうか、美咲のことを」
声に出して告げると、力が湧いてくる気がした。僕は着替えることにした。
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