Illuminated Forest

示紫元陽

Illuminated Forest

 暗い森の奥深く、湿気を含んだ草を掻き分けて進む。視界の外で獣がガサガサと音を立て、闇の中で鳥がバサッと飛び立った。羽虫の飛ぶ音が耳をかすめると、私は反射的に首を振った。

 一寸先は闇とまではいかなくとも、目を凝らさないと簡単に足を取られそうな暗さ。急に横から腕を掴まれてどこかに引きずり込まれても、誰にも気づいてもらえないだろう。いや、もうすでに認識できない何かによって、見えない糸で引っ張られているかもしれない。

 いったいどこに向かっているのか。そもそも、私は今どこにいるのか。

 聞こえるのは自分が草を踏む音と、嘲笑うかのような鳥の泣き声、挑発するかのような虫の羽音。気を抜けば森に黒々とした大穴が開いて、その奥底に容易く飲み込まれてしまうのではないかという錯覚を覚える。風が木立を抜け森が鳴くと、背筋が冷たくなった。

「クソッ」

 私は口にたまった唾液を吐き捨てた。

 長袖長ズボンのだらしのない格好に、役に立つ所持品といえばライターとグローブのみ。食料などない。

(そろそろ死ぬころかと思ってたんだがな)

 私は案外しぶといようだ。ならば、最後までとことん付き合ってやろう。

 再び、鳥が突然飛び立った。木々の間に漏れ出た月明かりの中を翔るのが、なんとか見える。数羽連れ立っているようだった。

(おや?)

 ここで私は違和感に気づいた。先ほどよりも、幾分か視界が良好な気がする。目が慣れたというのはあるだろう。たまたま森が疎になっているところに来ただけかもしれない。最初はそう思った。しかし、その考えはすぐに拭い去られた。歩みを進めていると、薄白い仄かな光が森の奥から漏れ出しているのを感じたからだ。

 私は恐怖を感じた。気持ちの悪い冷汗がツーっと首筋をなぞる。

 だがそれと同時に、私の中では強い好奇心が首をもたげた。今まで惰性で生きてきた私に興味などという高尚な物があったのかと驚きを覚えたが、そんな思惟をよそに、恐怖は問答無用で押さえつけられた。そして進むことへの躊躇いはどこかへ消え去っていた。

 ずんずんと歩く一方で、私の脚は震えていた。それは想像のつかない未来に対する緊張からか、得体のしれない物に近づく興奮からか。私には分からなかった。

 光は強くなっていく。しかし目を射抜くような鋭さはなく、ひたすらに淡い。私はいつの間にか歩を速め、吸い込まれるように光源へといざなわれていた。

 やがて心地よい光に包まれて、森が開けた場所に出た。柔らかい草の絨毯に黄色い小さな花がちらほらと咲き、吹き抜けた天の先には煌々と満月が居座っている。周囲は鬱蒼とした闇をどっぷりと抱いているのに、私が足を踏み入れたそこは、まるで別世界とこちら側を繋ぐ入口のような、神秘的な空気をたたえていた。空からならば、ここはぽっかりと空いた「穴」に見えることだろう。私は束の間、上空を見上げて立ち尽くしてしまった。

 月に見惚れていたのは、数秒だっただろうか。ふと我に返ると、月明かりに導かれて、私の目は自然と「穴」の中央に向いた。そして不思議なことに、降り注ぐ透明な光が、がらんどうの空間の真ん中に集められていることに気が付いた。私は何かに操られるように歩き出し、光の終着点に向かった。

 そこには小さな水たまりがあり、十個前後の石で囲われていた。どうやら湧き水のようで、石の隙間の一か所から澄んだ水がちょろちょろと流れ出し、そのまま地面に染み込んで消えていく。

「神の玉座かな」

 ふと、そんなことを呟いた。なぜだかは分からない。神なんて信じていなかったし、考えるのも馬鹿らしいと思っていた。だが綺麗だとかそういった印象を差し置いて、口をついて出たそれは、間違いなく自分の直感によるものだった。

 私は疲れて石の前に座り込み、何の疑いもせず湧きだす水を手ですくって飲んだ。

 不思議なことといえばもう一つ。この「穴」にはなぜが私以外に動物がいない。隠れる場所がないというのはあるかもしれないが、一匹の鳥すら水を飲みに来ないというのは変ではないか。

 しかし、そんなことを考えても仕方がないとすぐに割り切って、私は泉を背にしてくさむらの上に横になった。草の香りが鼻をついて、森と一体になった気分になる。月光で清められた空気の中で、冷たいそよ風が身体を駆け抜けるのを感じていると、うつらうつらと瞼が重くなっていった。

 すると突然気味の悪い声が耳に届いて、私は目を覚ました。

「ずいぶんと失礼なやつが来たもんだ」

 誰もいないはずの場所で何者かから声をかけられたのだから、驚いて飛び退しさるなりなんなりするのが、普通の反応であることくらいは想像できる。しかしこの時の私は、よほど肝が据わっていたのだろう。私はゆっくりと身体を起こし、声の主の方へ振り返って不機嫌そうに言った。

「あんたは?」

「おいおい、大層な物言いだな」

 喋るそれは、人の形をした光だった。輪郭は曖昧で、いくら頑張ってもなぜか焦点は合わない。だが宙に浮いているから、人外の何かであることは確かだろう。

 そこまで思考を働かせて、あとはどうでもよくなった。神、精霊、幽霊、妖怪。何とでも言えただろうが、何であったとしても私には理解できない。本能的に警戒はしたが、理解できないことに費やす労力は持ち合わせていなかった。

 それに、神ならきっと寛大だろうし、精霊や幽霊の類でも、こちらが何かしなければ基本的には大丈夫だろう。なぜだかそう高を括っていた。妖怪なら……食われて仕舞いだ。

「あぁ、すまん。そうだな……まぁ、神様とでも思っておいてくれ」

「えらくテキトーだな。まぁ、何でもいいや」

「はっはっはっ! 君、なかなか面白いな」

「勝手に言ってな」

 寛大だという根拠のない推測は見事に的中したが、逆に私はそのざっくばらんな態度に呆れてしまい、『神様』とやらに背中を向け、また寝転んでまぶたを閉じた。ふわりとした草の匂いと地面の冷たさが気持ちよかった。

「おい、せっかくなんだ、話し相手にくらいなってくれてもいいだろう」

「嫌だね」

 馬鹿馬鹿しくて付き合っていられない。

「私は疲れてるんだ」

「そうか……。なら、満足したら出て行ってくれ。邪魔だ」

 さっきまでの親しげな口ぶりに反して唐突な追放勧告を受け、さすがに私は驚いた。思わず目を開けると「穴」が私を押しつぶすように迫ってきているように感じる。なんらかの錯覚であるから気にするなと自分に言い聞かせようとしたが、なおも空間が狭くなり暗黒がじわじわと身を寄せて来るのを感じると、なんだか怖くなって、あっさりと心が折れた。自分の性根など、所詮この程度なのだ。

「分ったよ。で? 神様だっけか。何を話すっていうんだ?」

「物わかりが良くて結構」

 私は胡坐をかいて、いささか短気な神様を見上げた。やはり輪郭はぼやけて判然とせず、薄明に似た光には、なおも威圧感はない。さてはしてやられたな、と私は思った。

「じゃあまずは、君がどこから来たのか教えてくれるか?」

 顔はないのに、神様がニヤリとしたのが見えた気がした。


*****


 独りでないという事実が、芯のない、虚構の心強さを創り出し、私の警戒心をいつの間にか握りつぶしていた。私が話し始めると神様は私の隣に降りてきて、一緒に泉を背に座り込む形になった。

 私がここへ辿り着いたのは、まったくの偶然だ。ひたすら草を掻き分け、あてもなく彷徨った結果に過ぎない。だがそれが神様には心底嬉しかったらしく、いくらでも耳を傾け私から話を絞り出してくる。まぁ、暇つぶしになるから構わないんだが。

「ほー、なかなか大変だったな」

「気安く言ってくれる」

「ここへ来る前は何をしていたんだ?」

「大したことはしてないさ」

 私はある商社で勤務していた。まだ入社して一年かそこらの新米に近かったが、仕事自体はそつなくこなしていたと思うし、遅刻なんてしたことがない。学校で言うところの優等生だったと自覚している。だが、それで私の許容量はほぼ飽和状態だったらしい。

 なぜか日に日に増える自分の責任ではないタスクを完遂して帰宅すれば、何の変哲もない食事をとり、シャワーを浴びて寝るだけ。趣味と呼べるものもなく、無機質に暮らしていた。今思えば、もう少し肩の力を抜いていてもよかったのかもしれない。

 自身が疲れていることを実感したのは、先日体調を崩した時だ。ちょっとした不調くらいなら無視するのだが、そこそこの熱が出たのでさすがに休暇をとった。

 気配りの連絡は、一通くらいはあっただろうか。仕事のメールばかりだった気もする。

 その日の午後は半日くらい死んだように寝ていたのだが、目が覚めたとき、私は身体がすこぶる軽く感じたのをはっきりと覚えている。その時の私の驚きと言ったらない。静かに光る照明の下で嘲笑を浮かべた私は、「馬鹿みたいだな」と独り言ちた。

「仕事に戻りたくはないのか?」

「戻れないなら戻れないで、別に気にしないさ。もともと、逃げてきたみたいなもんだからな」

「逃げたてきた?」

「神様には分かんねぇかもしれないけど、どうにも居心地が悪くなったり、現実から目を逸らしたくなる時があるんだよ」

 風邪からは回復して身体は大分良好にはなったものの、その後待ち構えていたのは心労の山だった。思考が一度リセットされたからか、それまで無意識に封印されていた不平不満がスルスルと頭に上り、意識的にこれに蓋をするのが、想像以上に辛かった。

「分からんでもないな」

「へぇ、分かるのかい。ま、そういうわけで、休日に気分転換のつもりで、独りで森に来たわけよ。最初はちゃんと道を歩いてたんだぜ、迷わないように。だがちょっと出来心で森に入ってみたんだ。そしたらいつの間にかこのありさまってわけさ」

「間抜けだな」

「言ってろ」

 どれだけ頑張っても満たされない人の気持ちなんて、こんな所でのほほんと暮らしている神様に分かるわけがない。まぁそれでも、目上の顔色を窺い、格下の精神世界を土足で踏み荒らす連中に比べれば、まだマシかもしれないが。

「しかし君、友人などは心配するんじゃないか?」

「……そうかもな」

 そうであるといい、と思った。

 『友人』と聞いて思い浮かぶ顔に、『私が一人で行方不明』という事実を掛け合わせると、それらの顔が青くなるのが脳裏に映し出された。すると脳内で急速に時計の針が進み、彼らは目を伏せて泣いている姿になった。皆が口々に何か言っているのも聞こえてくるようだった。

――なんで何も言ってくれなかったの?

――全然気づいてあげられなかった。

 でも、私の目からは一滴の涙もこぼれなかった。実際にその光景を目の前に突きつけられても、私の瞳は変わらず虚ろなままだっただろう。

「なら、さっさと帰った方がいいんじゃないか?」

「引き留めたのはそっちだろ?」

「居座ったのは君だ」

 自分も大概だが、ずいぶんと勝手な神様だと私は思った。だいたい、戻る道がないからここにいるというのに。そう心で文句を呟いていると、思考が読まれたのか、神様は続けて言った。

「だが、帰りたいなら道はある」

「は?」

「ほら、あそこに見えるだろう?」

 神様が指し示す先を見ると、私は目を疑った。一層の闇を隔てた先に、私が森へ入った道が現れている。ぼんやりと、暗い夢の中でそこだけ明かりが灯っているようだった。

 さっきまでは確かに、この「穴」の周囲は漆黒に包まれていたはずだ。それこそ壁一面がペンキでべったりと塗られたように。それなのに、今は神様の指の先で、じんわりと水が染み出すようにして「外」が見えていた。

「どうなってんだ?」

「君は、目が偏ってるんだよ」

 何言ってんだ、この神様。なんかの手品か? そんな風に、隣に座る光の塊が急に胡散臭く感じられた。でも、何度見直してもそこには帰り道がある。いくら目をこすっても、眼前の光景は変わらない。

「どれだけ目を凝らしても、今の君では自力で何かを見通すことはできないよ」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だ。現にほら」

 神様が手を下ろすと、さっきまで見えていた景色が消えた。

「見えるかい?」

「いいや、何にも」

 「穴」の周囲はここに入った時と同様に、ただ黒くて気味の悪い世界で塗りつぶされているだけだった。

 神様は『偏っている』と言った。暗闇を見るのに、偏っているも何もないだろうに、いったいこの神様は何を言っているのだろうか。頭を抱える思いで思考を巡らせたが、一向に意味が理解できなかった。

「君はいつも知らないふりをするからね」

「今度は何の話なんだ」

 神様の意味不明で唐突な言葉に再び戸惑い、私は混乱した。

 知らないふり? 確かに、私は争いごとが嫌いだったから、取るに足らないようなズルや嘘を指摘したりはしなかった。それで円満に事が運ぶのだから、必要以上の気苦労をわざわざ生み出す愚は冒さなかった。しかし、それとこれとは話が別だろう。そう思ったのをまたもや見透かされたのか、神様は一呼吸おいて厳かに言った。

「……心の話さ」

 神様はまた前方を指さし、つられて私はその方向に視線を投げた。やはり「外」が見えている。先ほどの言葉は引っかかったままだが、私は周囲の暗黒をもう一度見て、今度は少しぎくりとした。なんだか、見たくないものを目の前に宙づりにされ、触れたくないものを無理やり掴まされた気分だった。

 感触の悪い何かが、私の胸の中にべっとりと張り付いている。それを一度認識すると、私は憂鬱な気分になった。

「帰るか、帰らないかは、君の自由だ」

 私はどうしようかと悩んだ。

 取りあえず、「穴」の縁まで行ってみようかと思った。重い腰を持ち上げ、とぼとぼと歩いて血眼になるほど観察してみると、やはり「外」は良く見えている。一方で、私が立っている所から「外」までの間が、混ぜ合わせた絵具のような色で満たされていた。

 草木はどこへ行ったんだろうか。私は一体どこを歩いてきたのだろうか。奇妙な不可視の闇は、私の中でいっそう不可解なものになり、そもそも本当にこの「穴」の外から自分がやってきたのかさえ怪しくなった。

 すると不意に、自分は昔からずっとここにいたのではないか、という感覚が私を襲ってきた。根拠はない。ただそう思った途端、目前の闇がより暗さを増し、手を触れることさえ憚られるように感じた。もし触れれば、そこに身を潜めた何かによって、あっという間に自分が侵食されてしまうのではないかという気さえした。

 神様のもとへ戻った私は、困った顔をした。とどのつまり、闇の中に足を踏み入れる勇気が出なかったのだ。

「帰らないのか?」

「闇が、怖いね」

「本質は怖くないさ。ただ、君が恐れているだけなんだから」

「それでも、もういいんだよ。つまらないことに労力をかけたくない」

「じゃあ、ここに残るのかい?」

「神様と話している方が気楽そうだ」

 だって、人間の方がよっぽど質が悪いじゃないか。私はそんな歯車のかみ合わない言い訳をした。まるで自分を騙しているようだった。

 応えを待つ私を見て、神様は言った。

「……なら、仕方がないな」

「あぁ、仕方ないのさ」

 私が最後にそう言うと、神様は両腕を広げて頭上に掲げた。何が起こるのかと顔を上げると、月から降る光が「穴」の中で丸い箱のようなものに収束していく。欠片も外に漏れ出ないそれは、灰色の光を蓄え、たちまちパンパンに膨れ上がった。

 神様はその光の箱を手元に寄せ、私の前に差し出した。

「プレゼントだ」

 私がそれを受け取ると、箱の中から光の玉が四方八方に飛び出した。思わず瞑った目を開くと、光は様々な曲線を描き、まるで川辺の蛍のように空中を彷徨っていた。

 飛び散った光たちはやがて「穴」のそこかしこに止まって、灰色に明滅し出した。それらは透き通る夜空と混沌の背景に映えていて、確かにプレゼントに相応しい光の群れだと思えた。

 だが、呆然として見入っていた私の心は、どこか荒涼としていた。光が灰色だったからだろうか。それとも、この「穴」の中で私と神様だけがこのイルミネーションを見ていたからだろうか。

 もしかすると、本当はこの光たちはもっと色鮮やかなものなのかもしれない、と私は思った。

「まぁ、これも悪くないか」

「あぁ、君は間違ってなどいないさ」

 それ以降神様は一言も喋らず、私の隣にただ寄り添っていた。私も口を開かず、神様の横で眠りについた。

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Illuminated Forest 示紫元陽 @Shallea

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