Episode.19 自分の本当にしたいこと
何もない。暗い闇の中、浮遊感だけがただそこにあった。
(手も動かない、足も動かない、声も出せない、目も開かない……)
……どうして俺はこんな場所に?
わからない。ただ、そんなことどうでもいいような気がしていた。
だって、何をどうしたって身体は動いてくれそうもない。ここからどこへ行けばいいのかもわからない。
何ひとつ、わからないままなんだから――。
『お前の代わりなんてごまんといる』
散々、聞いてきたセリフだ。
そうだ、別に俺が頑張らなくてもいいじゃないか。だって、俺の代わりなんていくらでも……。
沈んでいく。闇の中、底の底へ。
ひとかけらだけ残った意識もすべて、投げ捨てようとししたそのときだった。
――闇の中に響いた耳慣れた声が、薄れゆく意識を強引に引き戻した。
「た、大変です、イオリさん! って……あっ……!?」
この声はノエルだ。何だか盛大に転んだような音がしたが、目が開かないから確認のしようもない。
でも、今さら何の用だって言うんだ……?
『聖女の務めを果たせ』という催促に来たのだろうか。それとも、『もう失望した』と唾を吐きつけに来たのだろうか。
(いや、何だっていい。俺はこのまま、ただ深く深く沈んで闇の底へ……――)
ノエルの声によって拾った意識をもう一度手放してゆく。
声が、感覚が、斎藤伊織という人間を形作るすべてが、自分の手から離れて、徐々に自我すらも薄められていく。
そんな中、ノエルの声はまだ残った聴覚を刺激していた。
「イオリさん。ただ今、遠征に出ていた調査隊の騎士のひとりが、ある情報を伝えるため帰ってきました」
五感のすべてが遠ざかり、フィルターがかかったようにうまく聞き取れない。
……もう、静かに眠らせてくれ。
聖女として何かを成し遂げる気力なんてない。それどころか、今の俺に立ち上がる力すら残されてはいない。だから――。
しかし、ノエルの放った一言は、そんな安らかな願いとは正反対なものだった。
「――黒霧の調査中、アルベール様たち調査隊が魔獣に襲われたようです」
息を呑む。いや、五感がほぼ失われた今、息を呑むほどに驚きの感情が湧き上がったという方が正しいかもしれない。
ともかく、その一言は微睡みに沈む意識を叩き出すのには、いささか十分すぎる衝撃を伴っていた。
(調査隊が襲撃に……。なら、同行していたはずのレティは? 指揮を執っていたアルベールさんは……!?)
空っぽの心に困惑色のシミが侵食してゆく。
「命からがら帰投した騎士の話では、『霧に取り込まれた獣が魔獣に変質した』とのことですので、今もなお魔獣は増殖を続けていると考えて然るべきでしょう」
なら、二人を助けるために今すぐにでも……!
しかし、身体は鎖で締め付けられたようにビクともしない。ようやく戻ってきた意識だって、心を強く持っていないと今にでも底なし沼のような闇の中に溶け込んでしまいそう。
(俺はみんなのために……みんなの役に立たないといけないのに……っ!)
もがく。焦り、もがく。
だが、身体を縛り付ける“何か”が外れてくれることはなかった。
(……やっぱり、僕はこの世界でも役立たずのままなのか)
いくら『聖女様』だの『この世界の救世主』だのと持ち上げられようと、その中身はただの使えない“社会の歯車”。俺の代わりなんてごまんといるし、こんな肝心な時に身動きひとつできない奴が必要とされるはずもない。
(そうだ、今起きたところで俺に何ができるっていうんだ。《聖女》だなんて祭り上げられても何ができるわけでもない、こんな俺に……――)
なら、自分が行く必要なんてないじゃないか。
誰かが。自分よりも力があり必要とされる、そんな誰かが行けば――。
そんな心を見透かしたように、ノエルはいつになく低い声音で告げた。
「――私は間もなく、単独で救援に向かいます」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
(ひとりで? そんなの、行ったところでどうなるっていうんだ……)
真っ白の頭が絞り出した言葉はたった一言、それだけだった。
心の声。誰にも聞こえてない。
だが、まるでその声すらも届いているかのようにノエルは続ける。
「おそらく、私がひとり行ったところで何も変わらないでしょう。それでも、私は行きます。行かなくちゃいけないんです……!」
わからない。
どうして自分が役に立たないとわかっているのに、そこまで強く意思を持てるのだろうか。
どうしてそこまで眩しく生きることができるのだろうか……?
「イオリさん、私は前に言ったことがありますよね? 魔法を扱うときに重要なのは、『自分が何をしたいか』だって」
覚えている。その言葉には何度も救われたから。
だから、何だというんだろう。何をしたいのか。その思いひとつ持ったところで、魔法のウデが劇的に跳ね上がるとでも?
この動くことを拒否している身体が、もう一度動くようになるとでも……?
わからない。何もわからない。何も……。
懐疑心の嵐に圧し潰されそうになりながら、ノエルの“答え”を聞いた。
「でも、何も“意志の力”が重要なのは魔法だけじゃないと思うんですよ」
優しく、太陽のように温かな声。まるですべてを包み込むかのような、そんな声でノエルは力強く宣言した。
「私は『みんなを助けたい』――」
その言葉に心が締め付けられる。
「――イオリさんは『何がしたい』ですか?」
……そんなの決まっている。
手を離れそうな意識を強引に手繰り寄せ、力強く自分の“答え”を心の中で叫んだ。
(俺は『みんなを助けたい』……。『みんなの役に立ちたい』……!)
役に立てるかなんてわからない。
ただの自己満足なのかもしれない。
それでも、こんな自分に寄り添って必要としてくれたみんなの助けになりたい。
だから――。
そのとき、鎖が弾けたような音がした……。
◇
「――イオリさんは『何がしたい』ですか?」
ノエルがそう問いかけるのは、真っ白な顔色のままビクとも動かない伊織の横顔。
(……って言っても、イオリさんが答えるわけじゃないのに)
わかっている。これはただの自己満足だ。
レティシアに無理を言ってまで残ったというのに、
そのせめてもの償い。いや、ただ罪悪感から逃げたかっただけかもしれない。
(もしかしたらイオリさんが起きてくれるかもと期待していたのかも……)
自分にも本心がわからない。
ただ、今のノエルには自嘲気味に笑うことしかできなかった。
「本当に、私は卑怯な人間ですね……」
横たわる伊織から視線を切る。
このままここにいると、決心が鈍ってしまいそうになる。
未練を断ち切るように足早に扉の方へ。扉に手をかけた、その瞬間――。
「……『助けたい』」
そのかすれたつぶやきは、ずっと待ち望んでいた声。その声に、ノエルは弾かれたように振り向いた。
「俺は『みんなを助けたい』……!」
かすれながらも力強い言葉。
そこには確かな覚悟を秘めた瞳でこちらを見つめる伊織の姿があった。
「イオリ……さ、ん……?」
「……ごめん、遅くなっちゃって」
ベッドから降りようとして、伊織は顔をしかめる。
当然だ。ずっと寝ていたのだから。固まってしまった身体が軋み、悲鳴を上げているのだろう。
額から汗を垂らしつつも、伊織はやせ我慢の笑みを向けた。
「ちょっとだけ、待っててくれない? 俺も行くよ」
「え、でもそんな身体で……」
無理だ。今回の遠征先は大陸北部。王都近郊の森のような近場ではない。
数日の行軍に病み上がりの身体が耐えられるわけがない……。
だが、伊織は大事そうに、ノエルの言葉を借りて言った。
「――大事なのは、『何をしたいか』でしょ?」
言って、ウインク。
一瞬、ノエルは目を丸くして固まってしまう。しかし、すぐ口元に手を添えると、控えめに笑みをこぼした。
「ふふっ、そうでしたね」
そうだった。自分が言ったのだ。
大事なのは『何ができるか』ではなく『何をしたいか』だと。
「では、行きましょう。二人で」
手を差し出す。一緒に行こう、と。
「うん、行こう。二人で」
手を取る。一緒についていく、と。
そして、伊織は支えられながらも、しっかりと自分の足で立ち上がった。
「「……………………」」
手を握ったまま、二人は見つめ合う。なんだかこのまま手を放してしまうのも、名残惜しい。
ふと、そのとき腹の虫が鳴き声をあげた。
「「あっ……」」
よく考えれば、ひとりは寝たきり。もうひとりは過去の資料とにらめっこ状態。まともに数日食事すらとっていない状態なのだ。
「では、イオリさんの腹ごしらえをした後、出立といたしましょうか」
「いやいや、ノエルの腹ごしらえの間違いでしょ?」
ふふっと、どちらからともなく笑う。
「……なんか、締まらないなぁ」
苦笑い。文句を口にしながらも、伊織の口元は緩んでいた。
よろめく伊織を支えるように、ノエルが肩を貸して廊下へ。そのまま伊織の食堂の方へ歩き出そうとする。
だが、伊織がふと足を止めた。
「イオリさん……?」
不思議そうに首を傾げるノエル。
まさか、どこか身体に異常でも……?
心配そうに顔を歪めていると、伊織は食堂と真逆の方向を指さして言った。
「ひとつ寄ってほしいところがあるんだけど、いい?」
ノエルはわけもわからず、首を傾けつつも縦に振った。
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